誤解 1
桜が散り、青葉が育ち、梅雨を迎えた。
夜、そろそろ眠ろうとしていた十和は、寝間の片すみに白く丸いものを見つけた。
全身を毛におおわれ、三角形の耳と黒い鼻がついている小さな生き物。
子狐だ。
畳んだ月白の着物を下敷きにして、尻尾を枕に寝ている。
思いもよらない発見に、十和は静かに興奮した。
(かっ……かわいいっ…!)
十和はかがんで、つぶさに子狐を観察する。
どこから見ても毛並みは白い。白狐だ。かすかに妖気を感じた。
(尻尾はまだ一本だから野狐ね。でもこんなに小さいうちから妖怪ということは、きっと妖狐の子供だわ。
いつの間に入りこんでいたのかしら? このお屋敷にいるだれかの子供?)
子狐が起きた。小さなお口を開けてあくびする。その姿すら愛らしい。
(こんなにかわいいものがこの世にいていいの?)
人慣れしているのか、子狐は十和の姿を認めても逃げ出さなかった。くりくりとした金色の目で十和を見上げてくる。
思い切ってなでてみると、されるがままだ。心地よさそうに目を細める。
(どうしよう! かわいすぎる!)
十和はとうとう抱き上げて自分の腕におさめた。
永遠に愛でていたいのはやまやまだが、親が探しているかも知れない。
「赤城さん、赤城さん」
「なーに、十和ちゃん」
湯殿から出てきた赤城は、十和の腕にあるものを見て瞠目した。
「十和ちゃん……いつの間に。出産していたなら早く教えてちょうだいな、びっくりするわ」
「違います」
十和は少しばかり恨めしげにした。
「私にそんな可能性がないことは赤城さんがよくご存知でしょう?」
「ごめんごめん。違うとは思ったんだけど、一応。
花見の時、十和ちゃんと月白は途中から夫婦仲良くフケてたって聞いていたものだから。ひょっとしてって」
「花見の時は何も無かったです! それからも何もないです!」
実のない仲なのにうわさの花は見事に咲いていて、十和は心の中で泣いた。
「そうなのねえ……やっぱり何もないのねえ……ない方がおかしいくらい仲は良いのにね……」
赤城も憂鬱そうにため息を吐いた。
「で、その子狐。勝手に入りこんでいたの?」
「いつの間にか月白様のお着物の上で寝ていたんです。どなたかの子供かと思って連れてきたのですけど、赤城さんは心当たりございませんか?」
「知らないわ。所帯持ちのやつらからも生まれたような話は聞いてないし」
赤城は念のためにと、他の妖狐たちに確認しに行った。
誰からも自分ではないという答えが返ってくるが、一つだけ役に立つ回答があった。料理番の千代だ。
「その白い子狐、あたし、前に見たことありますよう。月白様がおひざにのせていました」
「月白様が?」
「あたしも見ただけで、どういう関係なのかまでは聞いていないですけど。
一緒に日向ぼっこして、仲のいい感じでしたよう?
なにかこう、見つめ合うと、目と目で通じ合っている雰囲気でした」
十和はそういえば、とあごに手を当てる。
「この子、月白様の着物の上で寝ていたんです。月白様のにおいに惹かれてやって来たなら、きっと知った仲ですよね。月白様が拾って面倒を見ていらっしゃるのでしょうか」
「言わなきゃろくに新人の面倒をみないような奴だけど……同じ白狐のよしみ?」
赤城がいまいち納得しないでいると、妖狐の酔星が不用意な発言をした。
「ひょっとして月白様の子供じゃないっスか? 毛の色も目の色も同じだし」
場の空気が凍った。
酔星はしまったと口を押さえるが、遅い。
十和は顔色を変え、赤城と千代は軽率な同胞を締め上げた。
「……そう、ですね。月白様は若いといっても三百歳ですし。これまでに一人や二人、三人や十人、奥様がいてもおかしくないですよね」
「い、いえっ、奥様、それはないと思いますよう! だって月白様、結婚は初めてだとおっしゃっていましたから!」
「結婚まではしなかったけれど、付き合った女性なのかもしれません」
十和の胸にふと暗い感情が沸き起こった。
(ああ、いやだ、私……嫉妬している)
無意識に、子狐を抱く腕に力がこもる。
(豊乃様が私を嫌う気持ちが分かったわ。こんなにも嫌なことなのね)
心の中にもやもやと黒いものが湧いてくる。月白に愛された女性への嫉妬がどろどろと心を浸食していく。
だが、憎悪は長続きしなかった。子狐に無邪気に顔をすりつけられると、十和の中に渦巻いていた暗い感情は一気に晴れた。
(――本当にかわいい。この子を憎むなんて筋違いだわ。子供にはなんの罪もないのだから)
十和は自分も子狐に頬ずりした。きゅうーんと甘えた鳴き声が返ってくる。赤城や千代が触ろうとすると嫌がるので、十和はよけいに愛おしくなった。
「赤城さん、この子、このお屋敷においてもいいですか? 私が面倒見ますから」
「いいんじゃない? 十和ちゃんになついているみたいだし」
「お名前はどうしましょうね。真っ白だから……雪白ちゃんでどう?」
顔をのぞきこむと、小さな舌が十和の顔をなめた。
愛らしさに、十和の頬はゆるみっぱなしだ。気分はすっかり子狐の母親である。
「戻った」
ゴトゴトと戸を開けて、所用で出ていた月白が帰って来た。
ここのところ月白はちゃんと玄関から出入りする。
身だしなみも気を遣うようになって人並みだ。前に妖都で捕まった際、身なりのせいもあって十和の夫と信じてもらえず考えを改めたらしい。
十和の仕立てた縦縞柄の藍色の着物を着、金銭は財布に入れて持ち歩き、下駄も履き、野良犬とは決して呼ばれないかっこうだ。
「お帰りなさいませ、月白様」
十和は子狐を抱いて出迎えに行った。
「……」
月白の視線が白くて小さいふわふわに釘付けになる。明らかに何かある反応だった。
「この子、お部屋にいたのです。月白様のお着物の上で寝ていて。知っている子ですか?」
「……知らない」
否定し、月白はおもむろに子狐をつかんだ。
ふたたび外に出たかと思うと、突然、塀の向こうへと子狐を放り投げる。
「きゃーっ! 雪白ちゃん!」
十和は悲鳴をあげた。赤城が激昂する。
「月白、あんた子供に何を!」
「子供だろうが侵入者は侵入者」
「それにしたって投げることないじゃないですか! ひどい!」
千代も声を大にして非難した。
十和は明かりを手に外へ駆け出て、子狐の姿を探す。夜である上に、雨で視界が悪い。子狐の姿はまったく見当たらない。
さらに外へ進もうとする十和を、追ってきた見張り番たちが止める。
「奥様、危ないですよ。お戻り下さい」
「俺たちがその辺を見回ってみますから」
強く押しとどめられ、十和は後ろ髪引かれる思いで屋敷に引き返した。
屋内ではまだ赤城と千代が月白を罵倒していた。
「鬼! 悪魔! 第六天魔王!」
「非道! 外道! 月白様の血は何色ですか!」
「赤」
月白は無事に戻ってきた十和を一瞥すると、北棟へ去っていった。
(そういえば月白様って、子狐をおとりに妖魔を倒したって聞いたような……)
いつか耳にした話が、十和の脳裏をかすめた。
(子供には寛容だと思っていたのに)
花見のときスリを働いた子供を許していただけに、さっきの月白の行動は衝撃が大きかった。
結局、見張り番たちが周辺を探してみても子狐は見つからなかった。
あきらめて、十和はとぼとぼと北棟に引き返す。小雨で濡れた月白の髪を拭きながら、少し責めるような口調でたずねた。
「月白様。あの子狐のこと、本当はご存知ですよね」
「……」
長い間があった。逡巡ののち、月白はようやく口を開く。
「……見なかったことにしてくれ」
十和は眉をひそめた。黙っていられなくて真正面から問う。
「もしかして、あの子は月白様のお子なのですか?
そうならそうとおっしゃってください。別に気にしませんから」
「違う。俺の子などではない」
強い口調だった。月白の子供というのはどうやら十和たちの思い過ごしらしい。
だがそうなると謎はいっそう深まった。
「では、一体なんなのです?」
「……忘れてくれ」
答えは最初と同じだ。十和は口をつぐむ。
(そんなに何か隠さなければいけないことなのかしら?)
十和は不満に思いながらも髪を拭き終え、寝間から月白の夜着を取って来た。
ところが、着替えは断られる。
「いい、今日は。飲み過ぎた」
月白の変化の術が解けた。人から白い狐の姿に戻ってしまう。
「今日はここで寝る」
「居間で、ですか?」
十和は目を丸くした。
「月白様が居間で寝て、私だけが寝間で布団で寝るなんてできません。それなら私もここで寝ます」
「いいから。――今夜はあなたと一緒だと落ち着かない」
月白は眠たげにいうと、鼻先で十和を寝間に追いやった。二人の間にあるふすまはすぐに閉じられる。
(落ち着かないって……じゃ、邪魔ってこと? 私が一緒だと寝辛いの?)
閉じられたふすまを、十和は呆然と見つめた。
一緒に寝ることを拒否されたのは初めてだ。穴に突き落とされたような衝撃を受けてふらついた。ふすまの向こうに恨み言を吐く。
(いっ、以前、わっ、私の寝顔を見ている方が楽しいとか仰っていたくせに!)
月白が軽口をいうとは思えないが、こう手のひらを返されては軽口だったように思える。
本気にした自分が阿呆のようで、十和は涙目になった。何も教えてくれないさみしさと、邪魔者にされた悲しさが爆発した。
(なによ、もう! 月白様なんて嫌い!)
敷布団に横たわって、頭まで布団をかぶる。
その日、十和は初夜の晩くらい眠れない夜を過ごした。




