空1 渡りに船
3月27日、日曜日。
森川冬樹のお父さんがうちに来ていた。
冬樹の父親とうちのお父さんとは釣り仲間で、とても仲がいい。
4月1日からタイで働くそうだ。2、3年はバンコクで勤務することになるらしい。
お父さんたちはふたりで昼間からビールを飲み、しばしの別れを惜しんでいた。
「空ちゃん、頼みがあるんだが、聞いてくれないか」と冬樹のお父さんがわたしに向かって言った。
わたしはそのとき居間でねおんと遊んでいた。ねおんというのはうちのペットで、ロシアンブルーの女の子だ。
「はい。なんですか」
「頼みというのは、うちの息子のことなんだが」
息子と聞いて、どきっとした。
冬樹はわたしの好きな人だ。
命の恩人で、勇気があってかっこよくて、本が好きで落ち着いていて、やさしい。
非の打ちどころのない男の子で、小学生時代は親しくしていたのだが、中学生になってから疎遠になってしまっていた。
男性として意識するようになって、どう接したらよいのかわからなくなった。
告白して失敗したくはない。
慎重にしようと思っているうちに、距離が離れてしまった。
同じ高校に進学できて、なんとか縁を取り戻そうと考えているのだが、なかなか行動に移すことができないでいた。
「俺たちがタイに行っている間、ときどきでいいから、冬樹の面倒を見てくれないか。あいつがしょうもない食生活をしないか心配なんだ」
冬樹のお父さんは、お母さんと一緒にタイへ行くそうだ。
海外赴任中、冬樹はひとり暮らしになるらしい。
「空ちゃんが冬樹の世話をしてくれるなら安心できる。悪いけど、頼まれてくれないかな。お礼ならなんでもする。毎月美味しいものを送ってもいいし、なんならお金を払ってもいい」
「お金なんていりませんよ!」とわたしは答えた。
これは渡りに船だ、と思った。
おじさんから頼まれたと言って、冬樹のお世話をし、元のように仲よくなるのだ。
以前よりもっと仲よくなったっていい。いや、むしろそうなりたい。
「いいですよ。冬樹くんの世話役、お引き受けします」
「そうか。助かる。よろしく頼むよ、空ちゃん。これで心置きなくタイへ行けるよ。ありがとう」
そういうわけで、わたしは4月1日から冬樹のお世話をすることになった。
冬樹の家に入り浸って、仲よくなって、あわよくば彼氏彼女になろうと考えた。
誤算だったのは、天乃灯が冬樹のお母さんから彼の世話を頼まれていたことだ。
天乃さんも冬樹に命を救われている。
小学3年生のとき、わたしと冬樹と天乃さんは、怪しい男性に山の洞穴に監禁された。
冬樹は終始冷静に対処し、男性の隙をついて、わたしと天乃さんの手首を縛っていたロープを歯でほどき、わたしたちを逃がしてくれた。
男性はわたしたちを道連れにして自殺しようとしていた。
冬樹の力がなければ、わたしたちは殺されていたのだ。
彼はわたしの命の恩人だ。
初恋の人で、いまに至るまでずっと愛しつづけている。
天乃さんも冬樹のことが好きだ。
見ていればわかる。
わたしと同じように彼女も中学時代から彼と疎遠になったのだが、冬樹を見てそわそわしていることがある。
たまに話しかけているし、わたしが心配になるほど熱い視線を投げかけていたりする。
しかし、冬樹は驚くほど鈍感で、天乃さんのような美少女が自分に気があるはずはないと思っているようなのだ。
それはわたしに関しても同じで、彼はわたしが彼を好きなことにまったく気づかない。
さすがに家に通って熱くお世話をすれば、わたしの気持ちに気づいてくれるだろう。
そう思って4月1日に彼の家へ行ったのだが、そこで天乃さんと鉢合わせしてしまった。
彼女と話し合って、1日交代で冬樹の世話をすることになった。
こうなれば、先に彼の心を射止めた方が勝ちだ。




