第五話 宇土、饂飩を食べる
「はぁ、どうして、ぼくはこんなに頭が悪いんだろうか?」
川の向こうに沈みゆく夕日を見ながら、宇土は大きいため息をつきながら、独り言を言っていた。
荒川には鴨が、何匹も浮かんでいる。
宇土がぼんやりと眺めていると、他の鴨が上手に魚を捕まえている中に、明らかに下手くそな一羽がいた。
必死に何度も水の中に顔を突っ込んでいるが、一向に捕まえられる気配がない。
「ああ、どこにもぼくのような者はいるもんだな」
宇土はそんな鴨の姿に自分を重ねると、いつの間にか心の中でその鴨の応援していた。すると、その鴨は餌取りに夢中になっていたのか、川岸に近づきすぎた瞬間、草むらに身を潜めていた野良猫が襲いかかった。鴨の首筋に噛みついた野良猫の口からは血がしたたり落ち、ひとしきり鴨が暴れた後、静かになった。そして鴨は草むらへと引きずり込まれてしまったのだった。
それは、あっという間の出来事であった。
鴨が消えてしばらくして、宇土は鴨を救おうと立ち上がるが、あまりにも遅すぎた。
「ああ、ぼくはやっぱり愚鈍なんだ。もっと頭が良ければ、あの鴨も救えたかも知れなかったのに、ごめんよ」
宇土は、ほんの一寸ほど前に出会った鴨に同情して、涙を流していた。
それは鴨に同情しているのだが、野良猫に狩られた鴨に自己投影をしていたからなのだろう。
「ああ、この世には役立たずが生きる場所は、ないのだろうか?」
宇土は無意識に一歩、川に向かって踏み出した。
吸い込まれるように二歩目を踏み出した。三歩目で、足に水がかかった。
「あんちゃん! 何やってるんだ!」
男の声が宇土を止めた。
その声に宇土が振り返ると、白髪の老人がスゴイ形相で宇土に近づいて来てくる。顔に深い皺を刻んだその男性は質の良い着流しを着ていた。
老人は宇土の手を引き、宇土を川から引き上げると、宇土を怒鳴りつけた。
「そんな若い身で,命を粗末にするんじゃねぇ! 生きたくても生きられねぇ奴だっているんだぞ! 何があったんだ、話をしてみろ」
老人はそう言いながら、宇土の隣に腰を下ろした。
「あ、あなたは?」
「驚かせて悪かった。儂は俵っちゅう隠居ジジイだ。散歩してたら入水自殺をしようとするお前さんを見つけてな」
「入水自殺?」
宇土はそう言われて、改めて自分の行動を思い出していた。
無意識に川の中に入ろうとしていたその姿は、傍目に自殺しようとしているように見えたのだろう。
いや、無意識に死のうとしていたのかもしれない。そう思った宇土は自分の行動を素直に口にした。
「ああ、そうですね。死のうとしていたのかも知れませんね」
「なんじゃ、気の抜ける奴じゃな」
「そうなんです。ぼくは駄目な人間なんです」
「だから、何があったんだ? 話してみろ。力になってやれんかもしれんが、話を聞いてやることは出来る。少しは気が楽になるだろう」
俵と名乗った老人は、そう言って宇土の肩を優しく叩いた。
宇土は、その身体の大きさを見込まれて、相撲部屋に入ったにもかかわらず、期待に応えられなかったこと。その後、親方の好意で大工に弟子入りしたのだが、全く上手くいかず、弟弟子からも愚鈍と呼ばれて、馬鹿にされていることを包み隠さずに話した。
「宇土で愚鈍か」
俵は宇土の話を聞いて、少し考え込んだあと、ぽつりと尋ねた。
「しかし、おまえさんは真面目にやっているんだろう」
「はい、言われたとおりやっているつもりなんですが、でも他の人のように上手くいかないんです」
「そうか、それはつらいな……それはそうと、おまえさん、腹は空いていないか?」
宇土は俵に言われて初めて、自分の腹が空いている事に気が付いた。
仕事が終わった後、ぼんやりとここに来ていたため、昼から何も食べていない。
あたりを見ると、すっかり暗くなっており、遠くでカラスが鳴いている。
「空いています」
「そうか。腹が空いては、気持ちも落ち込む。よし! ついてこい。知り合いの饂飩屋に連れて行ってやる」
そう言って、俵は宇土を連れて、浅草の饂飩屋の前にやってきた。こじんまりとしているが、年期の入ったたたずまいである。店の前に立つと出汁の匂いが漂ってきた。それだけで、この店の饂飩は美味いだろうと宇土は感じたほどだった。
なかなか趣のあるのれんを俵が潜ると、中から元気の良い声が聞こえてきた。
「いらっしゃい! あ、ご隠居、お帰りなさい。お、どうしたんですかそっちの若いのは?」
「ああ、親父、そこの荒川で拾った。さっき、儂が作ったアレはそのまま残ってるか?」
「ええ、ありますよ」
「宇土よ、ちょっと待っておれ」
そう言うと宇土を店に残して、俵は厨房に入っていった。
宇土は、訳が分からずに椅子に座ると、暖かな茶が出てきた。
外で冷えた身体に染み入るような暖かなお茶。
「あ、あのう。先ほどのご老人は?」
「ああ、俵さん? 京都の老舗饂飩屋のご隠居で。物見遊山で江戸にやってきてるんですが、うちの饂飩をいたく気に入ってくれて、色々と饂飩談義をさせて貰ってたんですわ」
「へえ、そうなんですね」
「何でも店は息子夫婦が切り盛りして繁盛しているらしいんですが、ご隠居自身、やることがなくてお伊勢さんに行った後、こちらまで足を伸ばして来たそうなんですよ。元気ですよね」
つまり、饂飩職人として名のあるご老人なんだろう。だから、どこか自信があり懐が大きいのだろう。
宇土がそんな事を考えていると、たすき掛けをした俵は饂飩を持ってきた。
出汁の良い香りがどんぶりから立ち上り、太い饂飩がとぐろを巻いていた。つゆと饂飩だけのかけうどんである。
「ほら、食え」
どんぶりの中をじっと見ていた宇土に、俵が食べるように催促した。
宇土はその言葉に、一口、饂飩汁を飲む。
鰹節の香り立つ、暖かな醤油味の汁が優しく宇土を包んだ。次に宇土は饂飩を箸で掴み上げて、驚いた。
「これって?」
「ああ、そのどんぶりに入っている饂飩は一本だ。おもしれえだろう」
「へえ」
宇土は饂飩を一口に入れると、つるりとしながらも太く歯ごたえのある饂飩が宇土の腹収まる。その美味さに宇土は、饂飩を次々に腹に放り込んでいった。
気が付くと、どんぶりは空になっている。
お腹がいっぱいになって落ち着いた宇土を見て、俵は満足そうに話しかけた。
「どうだった? 一本饂飩は」
「美味しかったです」
「そうだろう。じゃあ、お前もこんな饂飩になれ」
「へ!? 饂飩」
「そうだ。愚鈍じゃあなく饂飩だ。それも、この一本饂飩のように、その道一本を太く極めた饂飩だ。大工でもあれこれやるんではなくて、お前さんの得意をひとつ見つけて、それだけを究めてみろ。たったひとつを太く長く、究めてみろ」
「愚鈍じゃなく饂飩?」
「愚鈍でも結構。愚鈍な饂飩になるんだよ。他の誰にも負けねえ饂飩になれ」
その俵の言葉を聞いて、宇土は自分が得意なことを考えた。宇土はその身体に似合わず、飾り彫りが好きだった。黙々とひとりで彫り上げる飾り彫り。
「分かりました。ぼくは愚鈍な饂飩になります! ぼくは飾り彫りが好きなんです」
そう言って、宇土は懐に持っていた龍の飾り彫りをした木片を二人に見せた。
「ほう、これはなかなかの物じゃないですか、ご隠居」
「上手いもんじゃないか。たったひとつでも一人前になった者は一人前だ。儂だって饂飩作りしかできん愚鈍じゃ、ハハハハ」
そう言って俵は笑うと、宇土も店主もつられて笑っていた。




