第三話 宇土、力士をやめる
宇土は思った。
これで、一人前の力士になれる。しかし、この小僧はどうなるのだろうか。
力士に憧れて田舎から出てきた小僧は、この状況で力の差を感じたはずなのに、決して諦めることなく、隙を伺い、隙を作ろうとしている。肌越しに感じる焼けるような闘争心。
ただ、身体が大きいと言うだけで、この場にいる自分とは違い、こういう男こそ力士になるのだろう。
それなのに、こんなところでこの小僧の未来を奪っていいのだろうか。
この土俵から去るべきは、自分ではないのだろうか?
そんな思いが宇土の身体から、ほんの少し力を奪った。
ずっと勝ち筋を探していた小僧は、その瞬間を見逃さなかった。
小僧は一気に押し相撲に切り替えると、宇土はあっさりと土俵を割った。
「てめぇ! 何をしやがる!」
負けた宇土につかみかかったのは、勝ったはずの小僧だった。
その迫力は、しょっぱい勝負をした宇土を叱ろうと、稽古場に降りた親方の足を止めるほどだった。
「な、なにのこと?」
「何のことじゃねえ! てめえ、手を抜きやがったな。神聖な土俵の上で何を考えてやがる! おいらに情けをかけたのか? ふざけんじゃねえ! おいらは天下の横綱になる男だ。てめえなんかに情けをかけられる人間じゃねえんだよ」
宇土は怒りながら涙を流す小僧を見て、自分がしでかした事を後悔した。
相撲は神事であり、真剣勝負。男と男の誇りがぶつかり合う場所である。
そして稽古場とはいえ、この勝負は真剣勝負である。
宇土は、その勝負に泥を塗ったのだった。
そんな小僧に、親方が話しかけた。
「小僧、うちの弟子が失礼なことをしちまった。親としておいらからも謝る。申し訳なかった。それで、どうする? このまま成瀬川関とやるかい?」
普通にやっていれば、宇土に負けていたであろう小僧は、自分の実力を思い知った。このまま、成瀬川と取り合いをしても、簡単に捻られることは目に見えていた。小僧は胸を借りたいわけではない。部屋で一番の男を倒したいのだ。そのためには、もっと力を付けなければならない。
「いいや、申し訳なかった。成瀬川さん、もっと力を付けてから胸を貸してもらうよ。親方、今日からよろしくお願いします」
小僧はそう言って、初めて親方に頭を下げた。
奇しくも宇土の行為は、ただ勝つよりも、よっぽど小僧の鼻っ柱を折ることになったのだった。
「おう、分かった。おめえは、これから厳しく鍛えるからしっかりとついてこい。おう、お前ら、歓迎会は終わりだ。稽古に戻れ」
そう言うと、小僧を含めた力士達は稽古を始めたのを見て、親方は宇土を呼んだ。
親方は板間の座布団の上に座り、キセルに火をつけると、ひとつ煙を吸い込んだ。
その様子を見た宇土は口を開いた。
「何でしょうか。親方」
その問いに親方は、もう一度、大きく煙を吸い込むと、鼻から吐き出した。
そうして、ゆっくりと宇土の顔を見た。おっとりとして、どこか抜けた顔をしている。この一年で、体重も増えた。体つきだけならば、一流の力士だ。しかし、それは外面だけで、中身はただの臆病者だ。これ以上、この部屋にいる事は、宇土のためにも部屋のためにもならないと、親方は確信した。
「宇土、おめえ、相撲が好きか?」
「え、あ……いいえ」
宇土は頭が悪いが、素直で正直ゆえ、嘘がつけなかった。
それで今まで何度も怒られる事もあったが、生まれながらの性格は変えようがなかった。
「そうだろうな。おめえは真面目だが、相撲が好きって訳じゃないだろう。それにおめえ、闘争心が全く無いだろう。さっきの小僧のようにどうにかして、勝ちてえって気持ちがないだろう」
「……はい」
「おめえは身体がデカいってだけで、周りにおだてられて相撲部屋に入っただけなんだろう」
「はい」
「だからよう、おめえ、相撲止めろ」
「え、でも……」
宇土は部屋を追い出されては、メシを食っていく術を知らない。身体かデカいと言うことで相撲部屋へと誘われたのだが、宇土自身は好きなだけメシが食えるというので了承したのだった。そこを追い出されては、宇土はどうやって生きて行けば分からなかった。
「安心しろ、おいらもおめえを、ただで放り出すわけねえだろう。大工の甚六さんが、力の強い奴を欲しがってたんだ。おめえ、勝負事よりもコツコツとやる方が好きだろう」
「へえ、好きです」
「だったら、話は早え、明日からおめえは甚六さんのところに行け。話は通しておいてやる」
こうして宇土は、相撲部屋を追い出されたのだった。