第二話 宇土、相撲をとる
親方と甚六が話してから半月ほど経った頃、相撲部屋に新入門者が入ってきた。
宇土よりも頭一つ以上小さいが、何やらギラギラとした瞳をしていた少年だった。
年の近い宇土が、その少年に部屋を案内していた。
「宇土さんよ。この部屋で一番強いのは誰だ?」
荷物を置いて、宇土が回しの付け方を教えているときに、少年は尋ねた。
宇土は力任せに回しを締めながら考えた。
「成瀬川関かな?」
「成瀬川? あの青白いふとっちょか」
少年が考え込んでいるのを見て、宇土はこの少年が成瀬川関を目標にするのだろうと、優しい目で少年を見つめた。しかし、宇土の考えは裏切られた。
稽古部屋へ入った時、少年は成瀬川に突っかかり、宇土を慌てさせた。
「あんたが、この部屋で一番強いんだってな。俺と勝負しろ!」
「……宇土、こいつの教育役はお前だろう。どういうつもりだ?」
成瀬川は、狂犬のような少年を無視して、宇土に問いかけた。
焦る宇土はペコペコと、頭を下げるしかなかった。
「すみません、すみません。この子は成瀬川関に憧れているんだと思うんです。それで、一つ胸を貸して欲しいんだと思うんです」
「そんなわけねえだろう。まあ、いい。ちょっと、小僧の鼻っ柱を折っておくか。小僧、土俵に上がれ」
「お、話が分かるね」
二人が土俵に上がるのを、宇土がオロオロしながら見ていると、部屋の入り口から怒鳴り声が聞こえてきた。
宇土がそちらを見ると、親方が顔を真っ赤にして怒っている。
「何、勝手なことをやってやがる。成瀬川、てめえも安っぽい挑発に乗ってんじゃねえぞ」
「おっさん、止めるんじゃねえ。俺はこいつを倒して、一番になるんだ」
「小僧、そうやって粋がるのはいいが、順番ってもんがあるだろう。ちょうどいい、おい、宇土。こいつの相手をしてやれ」
親方はそう言って、キセルに火をつけながら、板間にどんと腰を据えた。
親方に指名された宇土は、困ったように答えた。
「ぼくがですか?」
「そうだ、おめえが相手するんだよ。曲がりなりにも一年、この部屋で修行したんだろうが! こんな小僧に負けるんじゃねえぞ」
親方はそう言って、宇土を下から睨みつけた。
その親方の言葉に、少年は文句を言った。
「こいつはまだ一年しか経ってない、下っ端じゃねえか。こんな奴じゃなく、あの白いのとやらせてくれ」
「ほう、えらく自信があるみたいじゃねえか。じゃあ、こうしようか。宇土とおめえが一本勝負をして、負けたらこのまま、荷物をまとめて帰りやがれ。勝ったら、成瀬川と本気の一勝負やらせてやろうじゃねえか。前頭筆頭の胸を借りられるなんて、贅沢だろう」
「その勝負、乗った!」
売り言葉に買い言葉。少年は親方の提案に二つ返事で承諾した。
このやりとりに困ったのは、宇土だった。
いつの間にか、真剣勝負になっている。それも自分が勝てば、少年は何をすることもなく、田舎に帰らされてしまう。それは可哀想だ。わざと負けようかと、そんな考えが心をよぎった時、親方は見透かしたように条件を出した。
「宇土、お前がこんな小僧に負けるようじゃ、力士に向いてねえ。この部屋から出て行って貰うから、本気でやれよ。その代わり、勝ったら、初場所を踏ましてやる」
宇土はこの一年、付き人と稽古しかしていない。親方はじっくりと育ててから、興行に出したいと考えていたからなのだが、興行に出ていない力士はあくまで見習いであり、給金は出ない。食べることも仕事の内だから、生活には困らないが、宇土は田舎のおっかあに金を送りたいと考えている。そのためには、番付を上げなければならない。その第一歩として、興行に出なければ話にならなかった。
これは宇土にとっても悪くない話であった。
曲がりなりも本職の力士の中で揉まれた自分が、二回りも小さな身体の小僧に勝つだけで、興行で相撲を取れるのだ。こんなにありがい話はない。
そう考えて宇土は、血気盛んな小僧を見ると、相手は視線だけで宇土を殺してやろうかとしているように思えて、思わず尻込みをしてしまった。
そんな宇土を見た親方が発破をかけた。
「宇土、戦いもせず、荷物まとめるか?」
「い、いや。頑張ります」
親方の言葉に宇土は覚悟を決めると、土俵に上がる。
がっぷり四つに組めば、身体と力に勝る自分に分があるはずだ。
親方は、これまでに何を言っていたか、宇土は頭の中で復唱していた。
腰を落とせ。すり足で前に出ろ。目を瞑るな。胸から当たれ。
「行司は俺が務めてやる」
成瀬川は万が一、小僧と当たることを考えて、近くでその取り組みを見ようかと考えたのか、ただの好奇心か、他の力士が行司役を変わろうとするのを断って、土俵に上がった。
小僧は一刻も早く取り組みをしたいと言わんばかりに、土俵の上で四股を踏んでいた。
宇土はひとつ深呼吸をすると、蹲踞の姿勢を取る。
小僧も、合わせるように蹲踞の姿勢の後、片手をつく。
宇土も片手をつき、顔を上げると、小僧はこちらを睨んでいた。
お互いの呼吸が合い、同時に動くと、成瀬川が叫んだ。
「発気揚々残った!」
小僧が宇土の胸に飛び込み、腰を落とした宇土がしっかり受け止め、がっぷり四つの形になる。
こうなれば力士としての力勝負。宇土の望んだ形だった。
小僧の体重と宇土の力からすると、しっかりと崩す必要は無かった。強引に上手投げを打てばそれで終わる。
宇土は勝てると確信した。