竜神様へのカエリミチ
『竜神様へのカエリミチ』
ここには竜神様が祀られている。
小さく、古ぼけた社を前に祖父はしゃがれた声で教えてくれた。
社に向かって、深い皺だらけでゴツゴツした手を合わせ祖父は頭を下げる。噎せ返るような土の香り。滴る汗。響き渡る蝉の重奏。何もかもが騒がしい中、祖父だけは神秘的なまでに静謐であった。
ここで遊ぶのは構わない。だが、竜神様を起こしてはいけない。
竜神様に起きると、『帰らされて』しまうから。
私は『帰らされる』のが何故いけないことなのかわからず、祖父に聞いた。だが、祖父は目を伏せて、小さく首を振るばかり。
わからない。ただ、それはとても恐ろしいことだと昔から伝えられている。
顔を上げた祖父の真剣な眼差しに何か恐ろしいものを感じ、私は、帰ろう。と祖父の手を引いた。汗ばむ私の手に対して、祖父の手はとても乾いてザラザラしていた。
帰り道、とても不思議な光景を見た。
通りがかった池のほとりに一匹の大カマキリがいた。体をゆらゆら揺らし、まるで水面に映る自分の顔を覗いているようだった。
昆虫が好きだった当時の私は捕まえようと慎重に近づいたが、そのカマキリを捕まえることは出来なかった。
なぜなら、私が手を触れる前に、カマキリは池へと自ら飛び込んでしまったからだ。
まるで、自殺であった。
*
祖父の話を思い出したのは、故郷の開発計画のプロジェクトを進めていた時であった。
大人になった私は地方公務員の試験に合格し、地元の市役所に就職した。以来、10年間波風立てずに務めてきている。
そんな折に、市内に高速道路を通す計画が上がり、故郷の部分の調査と開発は(地理に詳しそうという単純な理由で)私が抜擢されたのだ。
夜ごと地図を眺めながら、連日故郷へと赴き、地元民から地道に協力を得て、ようやく、ここに通すなら特に問題は起きない、と合意したルートを再確認していたときに、ふと、
『ここには竜神様が祭られている』
遠い昔の、夏の記憶が、鮮明に蘇った。
道路を地図のルートに通すなら、『あの社』を壊す必要があるかもしれない。
だからなんだ馬鹿馬鹿しい。と我ながら思った。ただ。記憶の祖父の顔を、ザラついた手の感触を思い出し、背筋に怖気が走る。
……事前に確認しておいた方がいいかもしれないな。
私は二人の若い職員を連れて、『竜神様の社』の調査に向かうことにした。
*
地元民へと聞き取り調査は芳しくないもの……いや、開発を進めようとしている市役所職員としては、嬉しいものであった。
竜神様のことを誰も知らなかったのだ。
『社? そう言えばそんなものもあったわねぇ……管理してる人もいないし、壊しちゃっていいんじゃない?』
これが三人で炎天下の中駆けずり回って得た、社に関する唯一の情報であった。
私の祖父はもう10年も前に亡くなっている。竜神様とは、ただ私を脅かすために作った祖父の与太話であったのか。その真偽を確かめる術は既に無い。
額に浮かぶ汗を腕で拭いながら若い職員二人は、どうするのか、と半ば呆れたような視線を向けて私に聞く。
私はさんざ迷った挙句、最後に社を確認しよう、と二人に提案した。
何か言いたげであった(真夏に散々外を連れまわされた挙句、まだ何かするというのだから、不満を持つのは当然だ)二人だが、これで最後、という私の言葉を信じたからか、不承不承頷いてくれた。
*
社はあった。
昔のまま……というわけではなく、昔よりも明らかに荒れ果てていた。
建屋は屋根も扉も壁も半壊し、取り壊す必要もなく、今にも崩れ落ちんばかりだ。
あれ、井戸じゃないっすか。建屋を指し、若い職員の一人が言った。
確かに、その指の先には井戸があった。
壊れた壁の隙間から、屋内の中央辺りにぽつんと一つ。苔むした、古びた井戸。分厚い石板で蓋がされている。
社の中にそんなものがあるとは知らなかった。息を飲む私をよそに、若い職員達はほとんど用を為していない扉を力づくで開け、社の中へと入っていく。
『起こしてはいけない』
私は震える声で止めたが、調査しにきたんでしょう? と至極真っ当に反論され、二人を止めることが出来なかった。
二人は井戸の蓋となっている分厚い石板に既に手をかけている。
『起こしてはいけない』
私の記憶の中の祖父が警鐘を鳴らす。
『起こしてはいけない』
ガタン。と重い音がした。気付くと井戸の蓋が外れていた。
暗くて底は見えないけど、多分何もなさそうですよ。若い職員の一人があっけらかんと言う。
『起こしてはいけない』
ゾワ。
ゾワゾワゾワ。
逃げろ、と叫んだ。
ゾワゾワゾワゾワゾワゾワゾワゾワ!
一瞬。何かが、黒い糸こんにゃくのような何かが井戸の中から大量に、噴出するように飛び出した。
それらは驚き竦む私達へと向かい、ゾゾゾゾ、と、腕を、足の間を、頬を、あらゆる場所を撫でて通り抜けていく。
本当に一瞬だった。今は、蓋の外れた古びた井戸が静かにあるだけだった。
何だったんだ、今のは。
コウモリですかね?
二人の若い職員はそんなことを言い合って首を傾げている。
コウモリなどではない。二人より少し遠巻きに見ていた私にはわかる。もっとおぞましい別のものだ。
だが、それ以上は何もわからない。
……帰りますか。
二人の内の一人がなんともなしに言う。
そうだな、帰ろうか……
もう一人が頷く。
うん、帰ろう。
私が頷いた。
帰ろう。帰らなくてはならない。
私達は帰る。
知らない道を歩き、帰る。
知らない場所へと、帰る。
これが我等の帰り道なのだ。
私の中の何かが、そう言っている。
帰るのだ。帰るのだ。カエルノダ。カエルノダ。
竜神様ヘトカエルノダ。
*
池へと飛び込むカマキリの自殺。
いつだったか調べたことがある。それはカマキリに寄生した『ハリガネムシ』という寄生生物に操られてのことらしい。
ハリガネムシの成虫は水中で一生を過ごす。なので、ハリガネムシの幼虫は元々水生昆虫のヤゴなどに寄生している。しかし、宿主の昆虫が羽化してカマキリに食べられると、陸上生物のカマキリに宿主が変わってしまう。このままではカマキリが死ぬと、陸上では生きられないハリガネムシも一緒に死ぬことになる。そこでハリガネムシは自身が過ごす水中へと再び戻るため、宿主のカマキリを操り水場へと飛び込ませるのだ。
つまり、水場に飛び込むのは、カマキリにとって違っても、ハリガネムシにとっては『帰るべき場所』に戻っているということだ。
*
帰ってきました。帰ってきました。
#####わたし###わたしわたし??わたしたちは帰ってきました。
孵り還ります。
あなたのなかへ、あなたのなかへ、あなたのなかへと還ります。
竜神様、竜神様、ワレラを###をお食べ下さい。
###はあなたへとカエリマス。
わたしはアナタヘト
【竜神様へのカエリミチ 終わり】