2 エステラ、隠居すると決める
朝。
エステラは埃っぽい寝床から起き出すと居間の窓を開けた。優しい陽光と涼やかな風が気持ちいい。
パウラと暮らしていた昔を思い出す。
父に引き取られてからもこの屋敷の管理はエステラがしていた。とは言っても年に一度の墓参りの時に少し掃除をするぐらいだったので、すっかりどこもかしこも傷んでいるし埃が溜まってしまっていた。
「……まずは掃除をしなくちゃ。でもその前に腹ごしらえかしら」
外の空気を吸っていた窓からくるりと踵を返し台所へと向かう。今のエステラはパーティー用のドレスを脱いで押し入れから見つけたパウラの薄紅色のワンピースに着替えていた。少々デザインは古いがこれなら汚れても大丈夫だし動きやすい。
綺麗に結い上げられていた金の長い髪も今は無造作にひとつにまとめられている。
今日は一日、この屋敷での生活環境を整える予定だ。
「隠居するためにもここを住み心地良い場所にしないとね」
エステラは人生がループしていると気づいた昨夜に決めていた。
祖母パウラと暮らしたこのココシュカの屋敷で隠居するのだ。
だってもう心はおばあちゃんだ。
すっかり疲れてしまったのだ。
台所に食料はもちろん無いので朝食は近くの商店で買ったパンとミルクだけだ。
埃をかぶったテーブルを拭き、持っていたハンカチをランチクロス代わりに敷いて食事にする。
(王都では今頃大騒ぎになっているかしら。急に申し訳なかったわね)
パンを齧りながら考える。
貴族の令嬢が突然失踪したのだ。きっと今頃王都マルタンのアシェル邸では大騒ぎだろう。後で謝罪の手紙を書かなければ。きっと父や義母は居所と生死さえわかればあとはエステラのことなど興味がないだろうから放っておいてくれるだろう。
ジュールはどうしただろうか。むしろエステラがいなくなったのだからエミリーとの婚約の障害が無くなって都合が良いと喜んでいるかもしれない。
「ああでも、ミレーヌはきっと心配しているわね……」
食後のミルクを一口飲んで思い浮かべたのはエステラの唯一の侍女のミレーヌのことだった。ミレーヌはエステラがパウラの元に居たときから仕えてくれていたのだ。エステラのことを唯一親身になって心配してくれるのは彼女だけだ。
きっと今頃エステラを捜しまわってくれているだろう。
すごく申し訳ないことをしてしまった。
彼女にも謝罪の手紙を書いてこちらへ呼び寄せて……と考えていたところで外から馬車が停まる音が聞こえてきた。
屋敷の門の前に停まった馬車から少々ふくよかな赤毛の女性が飛び降りてきた。
「お嬢様! エステラお嬢様!」
「み、ミレーヌ!?」
慌てて屋敷の外へ飛び出すとはっとこちらを見つめたミレーヌが今にも泣き出しそうな顔をして抱きついて来た。エステラは慌ててその身体を受け止める。
「やっぱりここにいらしたのですね! ああもう、お怪我はございませんか? 体調は? 心配したのですよ!!」
「ごめんなさいミレーヌ。私は大丈夫よ。……その、どうしても王都にいたくなくて」
人生がループしていることを思い出した、などとは説明できないのでエステラは言葉を濁した。元々家族やジュールに冷遇されていたので、不思議には思われないだろう。
「……ジュール様とお会いになりたくなかったのですね。わかりますが、せめて私にだけは教えておいてくださればよかったのに」
「本当にごめんなさい。なんだかねえ、急に疲れてしまったのよ」
「エステラ様……?」
「ミレーヌ、とりあえず中で話をしましょう」
急に遠い目をして呟いたエステラにミレーヌが不思議そうな顔をする。まさか自分の仕えている主の中身が生真面目な少女からおばあちゃんに変わってしまったなんてわからないのだから無理もない。エステラはミレーヌを促して屋敷の中へと戻っていった。
ミレーヌはアシェル家にエステラが王立学院の卒業パーティーに出ていないと連絡が入ってすぐ街に飛び出して捜しまわってくれたらしい。そしてエステラに似た令嬢がココシュカ方面の馬車に乗ったと聞いてすぐにこのパウラの屋敷へと向かったのだという。
街中で貴族の令嬢が一人で歩いていたら目立つので、すぐに情報が掴めたのだろう。
「そう……。本当に心配をかけてごめんなさい。私、気がついたらここにいたようなもので」
「いいのですよお嬢様が無事なら。それに私はあの男が許せません」
「ジュール様?」
「ええ……その、落ち着いて聞いて頂きたいのですが」
エステラがジュールの名前を出すと、急にミレーヌが気まずそうに俯いた。それがどうしてなのか、なんとなくエステラには予想がついていた。100回も繰り返した人生なのだ。
「婚約を破棄されたのかしら」
「……! はい、正式にジュール様からアシェル家に書状が届きました」
「私がエミリー様に意地悪をしたとか、色々書かれていたのでしょう?」
「どうしてそれを……?」
100回の人生でエステラは卒業パーティーの最中に公衆の面前でジュールに罪を着せられた。エミリー子爵令嬢に嫌がらせをした、他の男に取り入ろうとした、テストをカンニングしようとした。もちろんすべてエステラとの婚約を破棄するためにジュールがついた嘘だった。
おそらく今回は直接婚約破棄を言い渡す場が無かったため書状になったのだろう。
「ジュール様がエミリー様と結婚するためには私が邪魔だったのよ」
「だからといってこんなこと許せませんわ! お嬢様がこんなことするわけがないではありませんか!」
「ありがとうミレーヌ。私のために怒ってくれて」
エステラは正直、もう王都でのことはどうでもよかった。
「でもそんなことはもうどうでもいいの」
「お嬢様……?」
「だって王都に戻るつもりはないからね」
「ど、どういうことですか?」
困惑するミレーヌにエステラはにっこりと微笑んだ。
「私、隠居することにしたの」
「隠居!? 何をおっしゃっているんです? こんなにお若いのに。いくら婚約破棄されたからって自暴自棄になられなくても……」
どうやらミレーヌはジュールから婚約破棄されたことでエステラが自棄になっていると思ったらしい。状況から考えればそう思われても仕方ないかとエステラは苦笑した。
「ジュール様とは元々家が決めた婚約だったし、そんなに気にしてないわ。ただ今までの人生を振り返ったら急に疲れてしまって……少しゆっくりしたいのよ」
嘘は言っていない。
もう永い永い人生を生きたからいい加減隠居したいだけとは言えないけれど。
ミレーヌはエステラがパウラを亡くしてから王都で家族や婚約者に冷遇されて生きてきたことを知っているので、それで傷ついているのだと思ったようだった。
「……わかりました。お嬢様の心が癒えるまでこちらでゆっくりいたしましょう。もちろん私がお世話しますよ」
「ありがとうミレーヌ」
ぐっと涙をこらえたような顔でミレーヌが微笑んだ。エステラのために気丈にしてくれているのだ。まだ彼女だって若く不安だろうに。
思わず抱きしめるとびくりとミレーヌが驚いた。
「お、お嬢様?」
「ああごめんなさいね。つい、嬉しくて……」
実際の年齢はミレーヌの方が十歳上なのだ。だけど人生を百回も生きた記憶のある今のエステラから見ると小さな女の子も同然だった。だから、そう思うと愛しい気持ちが募って抱きしめてしまったのだ。ブラウンの大きな瞳をぱちぱちと瞬いて不思議そうにミレーヌはエステラを見つめた。
「お嬢様、何か雰囲気が変わりましたね……」
「そ、そうかしらねえ。婚約も破棄されてすっきりしたからかしら。ああそうだ、王都のお父様へ当分の間こちらへいると手紙を書かないとね。婚約破棄も了承しますと」
慌ててエステラは話題を変えた。
まずは父に急にいなくなったことへの謝罪と無事の連絡を、それからジュールからの婚約破棄への了承の手紙をさっさと書いて出すことにしたのだった。
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