【番外編】ラルフベーカリーの陽だまりで 前編
電子書籍発売記念の番外編になります。
番外編というか本編の裏側でのミレーヌとオリバーの話になります。
「おや」
「あら」
早朝から賑やかな市場の喧騒にまぎれて二人の声が重なった。
開店前の『ラルフベーカリー』の前にはすでに数人の行列ができていた。その最後尾にミレーヌは見知った顔を見つけて内心少しだけ後悔していた。
「おはようございます、オリバー様」
「おはようございますミレーヌ殿。偶然ですね」
長い黒髪に眼鏡が特徴的な背の高い美丈夫……フェリクスの従者であるオリバーが頭を下げる。パン屋の行列に並ぶ主婦やおじさん達の中では少々目立つ彼の後ろにミレーヌは仕方なく並んだ。
「まだ早い時間ですのにもうこんなに人が並んでいるんですね」
「そうなんですよ。朝一番に出される食パンが人気でして」
「実はそれ目当てで来たのですよ。買えるといいんですけど」
後ろに並んでしまった手前、何も話さないわけにはいかず当たり障りない雑談をする。まさかこんなところでオリバーに会うとは。そういえば彼の主人であるフェリクスがラルフベーカリーの店主と知り合いだと話していたのをミレーヌは思い出していた。
「そういえば今日はエステラ嬢はご一緒ではないのですね」
「早朝ですからね。お嬢様は屋敷で先に朝食の準備をされていますよ……と、いいますかオリバー様はどうしてこちらに?」
「私もここのパンが好物でして」
ミレーヌの訝し気な視線にオリバーは澄ました表情を変えずに答えた。
そもそも、彼の主人であるフェリクスは現在ココシュカの騎士学校の学生寮に入っている。オリバーも従者専用の宿舎を利用しているようなので、本来であれば朝からパンを買いに来なくても食堂があるはずだった。休日はシュトラウス家の屋敷に帰っているという話だったが、だとしたらなおさらだ。そもそも貴族の男性が朝からパン屋に並ぶということがあまり考えられないのだが。
(どういうことなのかしら)
ミレーヌはどうもまだフェリクスと、彼の従者であるオリバーのことを信頼しきれない。その育ちから人に心を閉ざしがちだったミレーヌの主人であるエステラが偶然出会い親しくなった見習い騎士のフェリクス。シュトラウス侯爵家の跡継ぎだという彼は今のところ優しく素直でとても誠実な青年に見える。
先日共にブルーベリー摘みに行ってから、二人の距離は少し近づいたようだ。エステラはフェリクスと過ごす時間が楽しいように見えた。
けれど、だからこそミレーヌは心配になる。
エステラは実の父と、そして元婚約者であったジュールに不当な扱いを受けて傷ついてこのココシュカにやって来た。
ミレーヌはこれ以上彼女に傷ついてほしくなかったのだ。
「騎士学校の宿舎にも一応私達が利用できる調理スペースがありましてね。以前いただいたブルーベリージャムがあったでしょう。あれに合わせるならこちらのパンが一番ですからね」
「まあ、そういうことでしたか」
「あと、固めのパンですが全粒粉の物も美味しいですよ」
「全粒粉……美味しそうですね」
オリバーの言葉に思わずミレーヌは反応した。
ラルフベーカリーで一番有名なのは朝一で店頭に並びあっという間に完売してしまうと言う食パンだが、全粒粉のパンも美味しそうだ。
「こちらの店で売っているバターもコクがあって美味しいですよ。ココシュカ周辺の牧場から取り寄せた新鮮なミルクを使ったものでして」
「そんなものもあるのですか? パンにつけたら美味しそうですね……!」
想像するだけで涎が出てしまいそうだ。ほうっとため息をついてそこではっと我に返る。自分は一体何をやっているのだと軽く咳払いをした。
ミレーヌは美味しい物が大好きなのだ。ココシュカは国境の街ということもあって様々な店がある。いつか食べ歩きをするのが夢だった。
オリバーは前を向いたまま淡々と続ける。
「あとぶどうパン」
「まあ!」
「クリームパンも」
「いいですわねえ」
「あとくるみパンなども」
「す、素敵ですわ……ってオリバー様? 揶揄ってません?」
ついオリバーの言葉に一々反応していたら、気がつくとオリバーの背が震えていた。気になって覗き込むと口元が笑っているではないか。
「……すみません、反応があまりにも良かったもので」
「どうせ私は食い意地が張っていますから!」
恥ずかしさで頬が熱くなる。食べ物のこととなるとつい気が緩んでしまう。エステラにもよく『ミレーヌは本当においしそうに食べるわね』と言われているくらいだ。俯いて地面の石畳を見ているとすっと紙が差し出された。
「揶揄ってすみませんでした。お詫びにこれを」
「これは……食パンの一斤サービス券? いいんですか?」
「ええ、常連だと時々貰える物なので」
オリバーが差し出したのはラルフベーカリーの食パンが無料で貰えるサービス券だった。先ほど笑っていたことなど忘れたかのような無表情に思わずミレーヌはぱちぱちと瞳を瞬いた。
「ありがとう、ございます……」
どういたしまして。とオリバーは淡々と答えた。
フェリクスは明るく爽やかな青年だが、従者のオリバーはいい人なのか嫌な人なのかわからないな、とミレーヌは首を傾げたのだった。
偶然オリバーに会ってからしばらく経った頃、ミレーヌは再び足取りも軽くラルフベーカリーへ向かっていた。
以前無料券で貰った食パンは香ばしく小麦の風味が豊かでほんのり甘く中はふわふわと柔らかくしっとりとしていてとても美味しかった。朝並んでもすぐに売り切れてしまうというのにも納得だった。
今日は屋敷での家事を終わらせてから出てきたので時刻は日中に差し掛かっていた。他の食料の買い出しがてらラルフベーカリーにも寄って行く予定だ。食パンはもう売り切れているだろうが、他にもおいしそうなパンがたくさんあった。そういえばまた明後日にはフェリクスとオリバーが食事にやって来る予定だから日持ちがするパンを買わなければ。
そこまで考えてミレーヌは浮足立っていた歩調を少し緩めた。
(うーん……。このままでいいのかしら)
腕を組んで考え込みながら歩く理由は、エステラとフェリクスのことだった。
ブルーベリー摘みをきっかけに親しくなった二人は時おり一緒に過ごすようになったのだ。主にフェリクスが従者のオリバーを連れてエステラの屋敷にやって来るようになった。もちろんミレーヌも同席している。ミレーヌにはエステラを守る義務があるからだ。
エステラはなぜかフェリクスとの関係を『おばあちゃんと孫』のようなものだと言うが、そんな理由で世間は納得してくれない。年頃の若い令嬢が男性を家に招けば周囲から何を言われるかわからない。ただでさえジュールとの婚約解消問題でまだ揉めているのだ。
しかしせっかくエステラの笑顔が戻ったというのにそれを奪うようなことはしたくなかった。
「おや、また会いましたね」
「……オリバー様」
ラルフベーカリーの入口で出会ったオリバーにじっとりとした目を向けてしまったとしても仕方がないだろう。
「……どうかされましたか」
「いえ、おかまいなく」
完全に八つ当たりだがむすっとした顔でミレーヌは答えた。
フェリクスが悪い人間でないことは短い交流の間によくわかっていた。ただ自分ばかり気をもんでいるような気がしておもしろくなかったのだ。オリバーも当初は二人が親しくなることに良い顔をしていなかったが今のところ放任しているようだし。
相変わらず感情の読めないオリバーの顔を見た後に手元のトレーに気がついた。紅茶とパンが乗っている。
「あら、今日はテラスでお茶ですか」
「ええ、ここの紅茶は美味しいですよ。良かったらミレーヌ殿も一緒にどうですか?」
「え!? ……でも」
「お急ぎですか?」
「いえ、今日はお嬢様もゆっくり屋敷で読書中なので……じゃあ、少しだけ」
ラルフベーカリーにはオープンテラスがあり、そこで店内で売っているパンを食べることもできるようになっていた。
急にお茶に誘われてミレーヌは一瞬慌てた。そもそも、男性にお茶に誘われる経験自体があまり無かったからだ。けれど相変わらず表情の読めないオリバーを見て冷静になる。
(まあ一応、侍女と従者同士で情報交換はしておいてもいいわね)
一人でエステラとフェリクスのことを心配しているよりも、オリバーと話し合った方がいいこともあるだろう。彼もそう考えてミレーヌに声をかけたのかもしれないと思った。
「そういえば、エステラ嬢は一人にして大丈夫なのですか?」
「本来は良くないのですが、時には一人になりたいこともあるようなので」
昼時を過ぎた市場周辺は普段よりも人通りはまばらでのんびりとした時が流れている。オープンテラスから見えるライン川を眺めながらミレーヌはブルーベリーパイを一口食べった。パイはさくさくとしていて中に入っているブルーベリーソースは甘みと酸味のバランスが絶妙だ。
「それにこちらは王都と違って平和ですからね」
マルタンはココシュカよりもずっと人口が多い。その分やはり貧富の差も激しく物騒なところもあった。基本的に高貴な身分の人間には数人の従者が付き従っているのが当たり前だった。
ただエステラは特殊で実の父親から省みられていなかったので、基本的にはミレーヌ以外の専属の侍女や従者というのはいなかった。だからだろうか。エステラは当時から一人になりたがった。周囲に心をすっかり閉ざしてしまっていたのだ。
そう考えると、ミレーヌは己が情けなくなる。
(可哀想なお嬢様。……私がちゃんとお守りできていればこんなことには)
「ミレーヌ殿?」
「……っ。は、はい?」
一瞬思考の海に沈みかけたミレーヌだったがオリバーの声に我に返った。ぽろりとフォークからブルーベリーパイの欠片が皿に落ちる。
「……急に黙られたので。口に合わなかったのですか?」
「え? いえいえ! これはとっても美味しいですわ! 申し訳ありません。少し考え事をしてしまって。……ところでオリバー様こそフェリクス様のお側についていなくて大丈夫なのですか?」
慌ててミレーヌは誤魔化した。オリバーがいるのにぼんやりするなんて恥ずかしい。エステラの侍女として恥ずかしくない態度でいなくては。
それから気になっていたことをさりげなく聞く。オリバーこそ大事な主人を放って呑気にお茶などしていて大丈夫なのだろうか。けれど、オリバーは落ち着いた様子で紅茶を飲んでいた。
「フェリクス様は今頃座学の授業で頭を抱えて悩んでいる頃ですよ。私は教室には入れませんからね。授業中は基本的に周辺の警護や実家との連絡係なので。今は休憩中です」
「あらそうなのですね」
ということは結構暇人なのだろうか? などと内心失礼なことを考えつつミレーヌはもう一つ買ってきたクッキーを摘まむ。さくっとした軽い食感にミレーヌは丸い瞳を輝かせた。
「……! これ美味しいです! ただのシンプルなクッキーなのにどうしてかしら。小麦粉? バター? 配合かしら」
「焼き菓子ですか。それは食べたこと無かったですね」
「まあ、それはもったいないですよ! 良かったら一枚どうぞ……」
今まで食べたどのクッキーよりも美味しくて、感激のあまりついはしゃいでしまった。クッキーをオリバーに差し出したところでミレーヌは我に返って赤くなった。エステラの侍女として恥ずかしくない姿勢でいようと決めたばかりなのだ。慌てて居住まいを正してコホンと咳をする。
「なるほど、これはなかなかの美味しさですね。知りませんでした。ありがとうございます、ミレーヌ殿」
「いえ……忘れてください」
「いやこの美味しさは忘れるわけには」
「そうではなくて……! はあ、もういいです。私はどうしても美味しい物に目がなくて……」
「それは悪いことではないと思いますが」
淑女としてどうなんだ、と恥ずかしく思うが特に笑うこともない淡々とした態度のオリバーが少しだけありがたかった。けれどこれではそれとなくフェリクスの本心など聞きたかったのに、ただ己の食いしん坊がバレただけになってしまう。
ミレーヌは気を取り直して背筋を正した。
「あの、オリバー様。単刀直入にお聞きします。フェリクス様はどのようなおつもりなのでしょうか?」
「というと?」
「エステラお嬢様のことをどう思ってらっしゃるのか、ということです」
膝の上で拳を握って前のめりになる。陽光を浴びてきらめくライン川から小鳥たちが飛び立っていく。のんびりとした空気が流れる中、相変わらずオリバーは感情の読めない表情でふむ、と頷いた。
「侍女である私がこのようなことを言うのは差し出がましいのはわかっていますが、今お嬢様をお守りできるのは私だけですので」
この田舎町のココシュカに突然侍女一人だけを連れて移り住んできた伯爵令嬢、という時点で訳ありであることはオリバーもフェリクスもわかっているはずだ。無いとは思うが万が一エステラの心を弄ぶようなことがあれば許すわけにはいかない。
長い睫毛を伏せて思案するように俯いてからオリバーは顔を上げた。
「……フェリクス様はそうですね、エステラ嬢によく懐いているように見えますね。それこそ孫のように」
「孫って……」
思わずミレーヌは半眼になる。
ココシュカに来てからというものエステラはなぜか自分のことを『おばあちゃん』だと言ってフェリクスのことも可愛い孫のようだと慈愛の眼差しで見ているようだった。王都にいた頃はこんなことなかったのに、とミレーヌは首をかしげるばかりだ。
「……失礼ではありますが、私も最初は警戒していました。フェリクス様の立場上、下心を持った者達が近づいてくることもありますから。エステラ嬢のことも最初は疑っていました」
「……」
それは仕方のないことだろう。ミレーヌだってそれは同じだった。
特にフェリクスは将来このココシュカ周辺の国境付近を治めるシュトラウス家の跡継ぎなのだ。オリバーが警戒するのも仕方ない事だった。
「しかしフェリクス様は彼女のことをそんな風には思っていないのでしょう。主人がそう考えているなら、私が言うことはありません。……と、まあ今のところはそんな感じですがエステラ嬢と出会ってから毎日以前より楽しそうですよ。早く会いに行きたいと勉学にも身が入るようになりましたし」
「そうですか……」
「幼い頃から見ていますがあんな一面もあるのだなと新鮮な気分です」
オリバーが珍しくふっと口元を緩めて笑った。周囲を通りかかった女性が何人か視線を奪われている。さすが貴族の美丈夫は違うなあとミレーヌは感心した。
「もちろん立場のある方ですから、私も目に余るようなら止めるつもりです。ですが今のところこちらの目の届く範囲で会う程度ですからね。美味しい食事も出してもらっていますし」
「なるほど。オリバー様は現状は見守り続けるということですわよね。……というか、私もそれしかできないのですけど」
ううん、とオリバーの話を聞いていたミレーヌは腕を組んで考え込んだ。フェリクスとの交流に不安が無いわけではないが、エステラも彼と一緒にいると楽しそうなのだ。だからこそ強く止めることができない。
「提案なんですが、もしよろしければまたこうやって会いませんか?」
「……は?」
「ミレーヌ殿の不安は私もよくわかりますので。お互いの主人が傷つかないよう私達で情報交換や共有をするのはどうかと」
「な、なるほど! それは助かりますわ!」
一瞬思考停止してからミレーヌは赤くなった。一瞬デートの誘いかと勘違いしてしまった。自意識過剰すぎる、と反省した。そもそもオリバーはおそらくフェリクスの従者というくらいだから貴族だろうし、周囲から注目されるほどの美丈夫だ。ミレーヌなど眼中にも入らないだろう。
(なんだか妙なことになってしまたけど、でもこれでフェリクス様の情報を知ることができるのは助かるわね)
エステラを守るためにも大切なことだ。
そんなわけでミレーヌとオリバーは定期的に会うことになったのだった。
「ミレーヌ、このクッキーとってもおいしいわ」
「そうでしょう? 今度はお嬢様も一緒に行きましょうね」
オリバーに会ったその日の夜。
夕食後のデザートにラルフベーカリーで買ったクッキーを出すとエステラも気に入ってくれたようだった。洗い物を終えたミレーヌも一緒にソファに座る。侍女の立場であれば本来はありえないことだが、二人の仲だからできることだった。
「ココシュカには美味しい物がたくさんあるのね。長生きしてみるものだわ」
「何言ってるんです。お嬢様はまだ十六歳でしょうに」
「あ、そ、そうだったわね。私ったら何を言ってるのかしら」
ぱちりと若葉色の瞳を瞬いてエステラが苦笑いする。王都を飛び出してココシュカに来てからというものエステラはのびのびとしているが、少し様子がおかしいのだ。何かを隠しているような……。けれど彼女は家族や元婚約者のことで酷く傷ついているのだ。そう思うと深く詮索する気にはなれないし、様子がおかしくなるのも仕方ない気がする。
(お嬢様の心は私が守らなくちゃ)
「ねえ、ところでミレーヌ。今日は少し帰りが遅かったみたいだけど」
「え、ああ……その、市場が混んでまして」
「そうだったのね。……あの、でもね、私のことは気にせず少しは息抜きしても大丈夫なのよ?」
密かに決意をしていたミレーヌだったが、エステラの言葉に内心飛び上がりそうになった。オリバーとお茶をしていたことは秘密なのだ。エステラは優しく微笑んで首をかしげる。
「お嬢様……」
「いつも一人で私の世話は大変でしょう?」
「……そんなことお嬢様は気にされなくて大丈夫です。ココシュカに来たのだって私がお嬢様と一緒にいたいからなんですし」
「ミレーヌ」
むっと唇を尖らせてエステラを覗き込む。
彼女は特殊な環境で育ったためか、すぐに一人で無理をする。辛いことを辛いと正直にあまり言えないのだ。それを知っているからミレーヌは少々強引でもエステラのそばにいることを選んだのだ。
「お嬢様は私が守ります」
長かったので二話に分けました。
よろしければ後編も読んでいただけると嬉しいです。
また電子書籍の方もまだでしたら購入していただけると嬉しいです。




