1 101回目の人生
「あら、まあ……」
その瞬間は唐突に訪れた。
王立学院の卒業パーティーに向かう馬車の中、エステラ・アシェルは思わず翡翠色の瞳を見開いて呟いていた。
これから向かう卒業パーティーで自分がどんな目に遭うのか思い出してしまったのだ。
そう、思い出したのだ。
(私は何度、これを繰り返したの?)
エステラは自分が同じ人生を何度もループしていることを思い出したのだった。
「止めてちょうだい」
エステラの言葉で馬車が止まったのは王立学院へ続く通りよりずいぶんと手前だった。戸惑う御者に「少し風に当たりたいから」とその場でエステラは馬車を降りた。
冷たい夜風に水色のドレスがふわりと揺れる。今日はパーティーだからといつもより念入りに侍女のミレーヌが身支度を手伝ってくれたというのに、結局無駄になってしまった。エステラは王立学院とは反対方向へと歩き始めた。
(私は今日、卒業パーティーで婚約者のジュール様から皆の前で婚約破棄される)
『エステラ・アシェル伯爵令嬢。お前との婚約を今日この場で破棄する!』
ショックを受けるエステラを嘲笑するようにジュールはエミリー・プラスロー子爵令嬢の肩を抱く。
そんな光景を何度も見てきた。
そう、何度も、何度もだ。
思い出してしまったら、もう王立学院へと足は向かなかった。
誰だって進んで辱めを受けたいなどとは思わないだろう。
ぴたりとエステラの歩みが止まる。
今まで歩んできた100回の人生がぐるぐると頭の中を周る。
とてつもなく永い時間を生きてきた気がして、急速に心が歳を取っていくようだった。
なんだか、どっと疲れてしまった。
「……帰りたいわ」
ラコスト王国の首都から南に馬車を乗り継いで丸一日。エステラがたどり着いたのはグレーデン王国との国境であるライン川を越えた先にあるココシュカの街だった。
日が暮れた町は冷たい風が吹いていて、エステラはドレスを隠すように羽織ったマントをぎゅっと合わせた。
(少しばかりだけれどお金を持っていてよかったわ)
衝動的に卒業パーティーから逃げ出してしまったけれど、路銀が足りてよかったとほっとした。
上り坂になっている石畳の道の先には小さな屋敷があった。
今は真っ暗で塀や少しだけ見える庭は蔦が這い草が伸びている。人の気配もない。誰も住んでいないのだから当然だ。
けれどここはかつてエステラが祖母と暮らした場所だったのだ。
「おばあ様、ただいま帰りました」
エステラは産まれてすぐに母を亡くした。元々体の弱い人だったらしい。
エステラの母はグレーデン王国の貴族だった。結婚相手はラコスト王国の貴族の父だったけれど、彼にはすでに結婚前から別に愛する人がいたらしい。だから彼はエステラにも興味をほとんど示さなかった。母を亡くしたエステラはココシュカで暮らす母方の祖母パウラに預けられた。エステラにとっては祖父である夫が亡くなったのち、他に家族のいなかった彼女は屋敷を売り払いココシュカの別荘地で一人暮らしていた。
エステラは八歳までココシュカで育ったのだ。
母を亡くして寂しい思いをしていたエステラをパウラはいつも抱きしめてくれた。
『私の可愛いエステラ。大丈夫。あなたは一人ぼっちなんかじゃない。おばあ様がいるわ』
『……本当? 私、一人ぼっちにならない?』
『そうね。一人ぼっちになる日もあるかもしれない。だけどね、いつか必ずあなたのことを心から愛して寄り添ってくれる人が現れるはずよ。だってあなたはこんなにもいい子なのだから』
『わたし、おばあちゃまと一緒に居たい』
『そうねえ、おばあ様もあなたとずーっと一緒にいたいわ』
その頃エステラは優しい祖母パウラとわずかばかりの使用人と小さな屋敷で暮らしていた。その間にパウラはエステラに読み書きに家事、そして貴族の淑女としてのマナーを教えてくれた。
エステラにとってはもっとも幸せな記憶が詰まっている場所だ。
けれど、エステラが八歳になってすぐの頃、パウラは体調を崩してあっけなく亡くなってしまった。
一人になったエステラは父に引き取られることとなった。
父はその頃すでに再婚していて母……エステラにとっては義母だが、彼女との間に長男が産まれていた。
だから本当にエステラは彼らにとって無用の存在となっていたのだ。
居心地の悪い首都マルタンでの生活に不安を感じたエステラだったが、すぐに全寮制の王立学院に入れられたのでその心配は杞憂に終わった。
自分の存在は彼らにとってはただのお荷物で邪魔者なのだと幼いながらにエステラは理解した。ならばさっさと独立して一人で生きていけるようになろうと勉学を頑張った。
けれど十三歳になったある日、突然父から手紙が来たのだ。
そこにはヴィレット侯爵家の次男、ジュール・ヴィレットとの婚約が決まったことが書いてあった。
「おまえがエステラ・アシェル伯爵令嬢か。ふん、つまらなそうな女だな」
燃えるような赤髪にすっと鼻筋の通った男らしく端正な顔立ちのジュールはエステラの頭の天辺から足先までじろりと一瞥した後につまらなそうに呟いた。
勉学ばかり頑張ってきたからそんな風に見えたのだろうか。
エステラは怒る前に単純に驚いてしまった。こんな横柄で失礼な男性がいるとは知らなかったのだ。父親はエステラに対して無関心でほぼ関わることもなく、使用人たちにも距離をおかれていたので男性と話したことがあまりなかった。
「エステラ、わかっているとは思うが貴族にとって結婚と恋愛は別物だ。間違っても俺に愛されるとは思うなよ」
「か、かしこまりました」
ジュールにはすでにエミリー・プラスロー子爵令嬢という恋人がいた。
エステラは自分も母と同じように愛の無い結婚をするのだなと漠然と思った。それは少しだけ寂しいような、残念なような気持ちだった。けれど父を見てそれはわかっていたつもりだったし、仕方ないとも思っていた。
ジュールはそれからもまるでエステラには興味を示さなかった。
婚約者はエステラだったが王立学院での公認の恋人はエミリーだった。それほど皆の前でも当然のように仲睦まじく二人は過ごしていた。それを視界の端に入れても平然としたふりをしていた。本当は心のどこかで隙間風が吹いているような心地がしていたのだけれど。
そして三年が過ぎて、エステラは王立学院を卒業しジュールと結婚するはずだった。
(前回までの人生では私は卒業パーティーでジュール様に婚約破棄されていた。……今回は逃げ出してしまったけれど)
祖母と暮らした思い出のある屋敷の中でエステラは少し埃っぽいソファに沈みながら考えていた。
一体これはどういうことなのだろうか。
今までの自分の人生を思い出す。覚えている限りの記憶を数えてみるとエステラは100回同じ人生を生きていた。そして現在が101回目だ。
今までの100回の人生はまったく同じで、毎回ジュールに婚約破棄された。
皆の前で嘲笑され、ショックを受けたし父にも情けないと罵られた。そして傷心のままココシュカの屋敷で引きこもるように療養して数年で亡くなったのだ。
(百回も同じ人生を生きた……って考えるとなんだか膨大な時間を生きた気がするわ……)
身体は十六歳だけれど、心はもう何百年生きただろう?
そう考えると急に身体から力が抜けてしまった。
もう婚約破棄とか、すごくどうでもいい。
「決めた。隠居しましょう」
だってもう体はともかく心はすっかり老女なのだから。
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