迷い猫を追って
「ニックスー!ニックス!…一体、どこにいってしまったの?」
姿を消した相棒を探して、庭を歩き回る。しかし、国のシンボルとしても有名な王宮の庭は広すぎて簡単に見つけられるものではなかった。
綺麗な造形を保つ植木も、生き生きと咲き誇る花々も今は探しものの障害でしかない。
結局、隅々まで意識しながら探していたが、相棒は見つからず遂に体力の限界がきてしまった。
「はぁ、駄目ね。ここは広すぎるわ…」
ちょっと休憩をしようとベンチのある場所へと向かうと、そこには意外な先客がいた。
「…リリアナ?」
「殿下…!」
透き通った金色の髪を風になびかせながら、ベンチに腰掛けていたのはこの国の第一王子レオナルド・クレゾーニ殿下だった。
ふと、殿下の膝の上で何かがもぞもぞと動く。その茶色い毛玉には見覚えがあった。
「…って、ニックス!」
探していた相棒は殿下の膝の上で横になりながら大きなあくびをする。相変わらずのマイペースっぷりに思わず苦笑いになる。
殿下は私の様子を見て何かを悟ったのか、相棒の長い毛を撫でながらククッと肩を震わせた。
「どうやらこのいたずらっ子はまた逃げ出したようですね。全く、ご主人をあまり困らせてはなりませんよ、ニックス」
殿下の撫で方が心地よいのか、ニックスはゴロゴロと喉を鳴らした。そこに反省の様子はない。
はぁとため息をつく私をいたわるように殿下は自分の隣のスペースをポンポンと叩いた。
座れということらしい。歩き回って疲れていた私は、その厚意に甘えてそこに腰を下ろした。
「また爪切りですか?」
殿下の言葉に私は首を横に振る。
「いえ、今回はお風呂です」
その言葉に殿下は盛大に吹き出した。
「あはは!今度はお風呂でしたか。…まぁ、確かに猫は水が苦手な子も多いですからね。お風呂に入れるのは至難の業かもしれません」
「はぁ。…私も嫌がることをあまりしたくはないのですが、流石に大分汚れてきてしまっているので。毛が長いので絡まるようになってはかわいそうですし、こればかりはちゃんとしないと…」
ニックスが脱走したのはこれが初めてではない。爪切りをしようとして何回か逃げられた経験がある。
その度に探し回る必要があったのでかなり大変だった。しかも、ニックスが逃げた先にはなぜか必ず殿下がいて、それで殿下もニックスの逃走癖を知っているのだった。
「…でも、貴方には申し訳ないですが、私はニックスが脱走してくれるのがちょっと嬉しいんですよね」
「え…?」
脱走が嬉しい?一体どういうことだろう?
「だって、ニックスは必ず私のところに来てくれますから。そしてニックスがいるところに貴方は必ずやってくる。こうして貴方に会えるのが、私は嬉しいんですよ」
「殿下…」
微笑みながらそう紡がれた殿下の言葉に私は困惑した。殿下にそう言ってもらえるのは嬉しいのだが、いきなりそういう甘い言葉をかけられるとどう反応してよいのか困ってしまう。
「婚約者だというのに、なかなか貴方には会えませんからね。同じ王宮に住んでいるというのに残念なことです」
そうなのだ。私たちは婚約しているのだ。しかも住まいはお互い王宮にある。しかし、殿下が住んでいるのは王族専用の住居で、私が住んでいるのは王宮で働く人が住むための寮。
当然のことだが王族の住むエリアに入れるのは選ばれた少数の人のみで、婚約者である私も殿下の許可がない限りは入ることはできない。しかも未婚の男女が婚約者の部屋で二人っきりになるというのは体裁がよくないため、まず殿下の部屋を訪れることはない。
しかも、私の職場は宮殿とは別棟にあるため仕事でばったり会うということも少ない。そのため、普段の生活で会うということがあまりなかった。
「思えば、貴方と出会ったきっかけもこの子でしたね」
そう言って殿下は愛おしいそうに視線をニックスに向けた。相変わらずニックスは撫でられながら殿下の膝の上で目をつむっている。尻尾を揺らして気持ちよさそうだ。
「彼が部屋に入ってきたとき、最初は野良猫かと思ったのですが、あまりにも人間慣れしていたので流石に気になったんです。ここは一般人は入れない場所ですから。もし、飼い主が探しているのだとしたら困るだろうと。案の定、困り果てた顔で立ち尽くす貴方がいましたね」
「あの時は助かりました。まさかあの柵を飛び越えるとは思わなかったので」
王宮の庭は一般エリアと王族エリアがつながっているが、高い柵で仕切られている。しかし、ニックスはあれを飛び越えてしまったのだ。どうやら近くに生えていた木を伝って柵の頂上に到達したらしい。
「あの出会いがきっかけで私は貴方を知ることができましたし、それから度々ニックスが貴方と引き合わせてくれたおかげで、こうして今の関係になれたのですから、彼には頭が上がりませんね」
言われてみれば何の接点もない私が、王子と出会えたのはニックスのおかげだ。彼の脱走癖には困り果てていたが、もしかしたら私が殿下に会えない寂しさを募らせていたのを察して導いてくれていたのだろうか。
「もしかしてそうなの?ニックス?」
そう私がのぞき込むと相棒は閉じていた瞳を開き、そして大きなあくびをした。のっそりと立ち上がると殿下の膝から飛び降りる。そして、私たちの住む寮の方向へと歩き出した。
「え、ちょっと!?ニックス!?」
私は慌てて立ち上がると殿下に挨拶をして、彼の後を追う。
「ふふふ、…またお願いしますよ、ニックス」
この時、私たちを笑顔で見送っていた殿下の左手に煮干しが入った袋が握られていたことに私は最後まで気づかなった。