見つめたあなたは
木の葉を揺らす春風が窓から入り込み、髪の毛を静かに撫でるのを感じた。
今年は例年より寒さが長引き、先週は雪が降ったと先生が話してくれたのを思い出す。
『でも残念。雪の白さは来年までお預け』
先生の軽い口調を回顧しながら、胸中で痛いほどに繰り返される心音を抑えようと苦心していると彼女の声が響いた。
「落ち着いて」
暗闇の中、肩へ優しく置かれた手の平の感覚に微かな安らぎを覚える。
「先生」
心音は未だ鳴りやまなかったが、それでも私は少しだけ落ち着きを取り戻した。
「木の葉がね。緑色でとても綺麗なの」
「緑色」
未知なる概念を改めて聞きながら、普段であれば踊るはずの心がまるで重りを括りつけられたかのように沈んでいくのが不思議だった。
「緊張しているの?」
「はい。とても」
「そう。でもすぐに終わるから」
先生の声は歌のように淀みなく響き、数瞬の間を置いて肩から手の感触が消えた。
「本当に私で良いの?」
先生の問いかけに答えようとした言葉が喉の奥で停滞してしまい、仕切り直しとばかりに私は一度頷いてどうにか声を絞り出す。
「最後まで先生にしてもらいたいです」
本心だが全てではない。
ずっと支え続けてくれた先生にこそお願いしたいという気持ちは確かにある。
だが、それ以上に私は怖いのだ。
目が映す世界というものが。
「それじゃ、最後の手助けね」
全てお見通しだと言わんばかりの先生の笑い声と共に両目を塞いでいた包帯が静かに解かれていく。
呼吸を数度する間もない時の中で思い返す二十年にも満たない人生。
記憶さえも曖昧な内に目の光が失われ、以来闇の中を生きてきた。
過去、瞬きの間に見つめた光景を慰みにして生きていくのだろう。
そんな諦めに満ちた理解は先生との出会いにより変化した。
そして、今日。その出会いは一つの結末を迎える。
「目を開けてみて」
手を引くような言葉を受けて、私は凍り付き、失われた過去を脱ぎさるようにして恐々目を開ける。
現れる世界。
忘れてしまいそうなほどに遠い記憶の中に残る人間の姿と相違ない存在が目の前に佇んでいた。
「どう? 見えるかな?」
包帯を持った中年の女性が。
先生が私を見て微笑んでいる。
「はい。見えます」
先生の姿が。
「見えます」
繰り返される私の声を聞いて、先生は一瞬安堵の表情を浮かべると「良かった」と呟き、そのまま部屋を後にしてしまう。
残された私は辺りをぐるぐると見回した。
診療所の白い壁が。
ベッドの傍らに置かれた小さな机が。
その上に乗ったラジオが。
窓から見える木の葉が。
ただ、ありのままに存在する全てを私の目は確かに映していた。
「お待たせ」
不意に響く先生の声。
そちらを向くと歩いて来る先生の姿が見えた。
「はい。どうぞ」
言葉と共に手渡される一枚の手鏡。
「見てごらんなさい」
「でも……」
「いいから」
半ば強制にも近い言葉を受けて、私は高鳴る胸をどうにか静めると、息をするのも忘れて鏡を覗き込んだ。
私を見返す、見知らぬ女性。
「あなたの顔」
先生の言葉に無言で頷く。
これから、誰よりも長い付き合いになる相手に、おかしいと思いつつも私は言葉を口にしていた。
「初めまして」
鏡の中で同じことを言う女性。
この出会いに言い知れぬ幸福を覚えながら繰り返した。
「初めまして」