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戦記 短編

戦艦信濃の奇妙な冒険

 昭和20年8月。


 それは暑い夏だった。


 8月15日正午に玉音放送があり、日本を巡る状況は一変した。


 そして、8月30日に厚木に降り立ったマッカーサーがまず質問した一言が日本中を駆け巡った。


「戦艦信濃はどこにある?」


 そう、彼は厚木に降り立つなりそう発言したのだった。


 戦艦信濃。


 大和型戦艦。いや、正確には信濃型戦艦一番艦。


 大和、武蔵の建造で得られたデータや建造中の更なる研究から一部改良が行われ、舷側装甲若干薄く、400ミリとされている。

 そして、155ミリ3連装砲は左右舷に各一基とされ、背負い式配置だったモノが廃止されている。


 これは後の超大和型、いわゆる51センチ砲戦艦のために試験的に行われた配置変更だと言われているが、対空兵装強化が主たる目的であったことが残された資料からうかがえる。


 信濃の建造は開戦で一度中止されたものの、ミッドウェー海戦の辛勝で再開され、1944年に進水、東京大空襲の最中にも工事が続行し、3月26日竣工を迎えることになった。


 しかし、もはや信濃を動かすほどの燃料は横須賀に残されていなかった。


 だからと言って、固定砲台にするのはためらわれる状況だった。


 それに対して米軍もこの信濃の竣工には懐疑的だった。


 東京が焼け野原にされたころにもはや戦力ともならない戦艦建造を日本が続けていたなど信じられなかった。

 だが、横須賀には確かに巨体がある。


 だが、米軍はその存在自体を疑っている。


 他の艦艇が砲台として利用され、中には擬装されているのに、あまりにも堂々とし過ぎている。


 米軍内でもコンクリートで作ったダミーではないのかという意見が多かった。


 その結果、数発の爆弾が被弾した以外、大きな被害を受けることなく終戦を迎え、厚木に降り立ったマッカーサーが事の真相を問いただそうと口にしたのがその言葉だった。


 まさかそんな事とは知らない日本側はすぐにマッカーサーを信濃へと案内する。


 他の大型艦艇が着底や艦橋を破壊された無残な姿の中、今すぐにでも出撃できるほど完全な姿の堂々とした戦艦の姿に、当のマッカーサーすら度肝を抜かれた。


 マッカーサーはすぐさま信濃の接収を宣言して星条旗を掲げさせた。


 そして、続々東京湾へとやって来る米艦艇であったが、信濃と並ぶことを避ける。どちらが負けた海軍か分からなくなるのだから仕方がない。


 信濃と並ぶことが出来たのはアイオワ級戦艦だけ。


 そして、9月2日の降伏文書調印でもひと悶着起きてしまう。


 なぜかマッカーサーは信濃に異常な執着を見せ、ミズーリと信濃を並べて、そこで降伏文書の調印が行われることとなった。


 その後、各国は日本からの賠償艦を得ようと様々な工作を行ったが、信濃はマッカーサーが手放そうとしない。

 米海軍すらもが、「信濃はマッカーサーのオモチャではない」と批判した程だが、それすら政治工作で黙らせてしまったほどだ。


 日本軍の解体に伴い大半の艦艇類が廃艦となり、解体や自沈処分とされ、賠償艦として引き取られていったが、その間もずっと信濃だけは横須賀で星条旗を掲げ続けていた。


 いつしか信濃はGHQ旗艦などと揶揄されるようになったが、それでも手放さなかった。


 転機が訪れたのは朝鮮半島で戦争が勃発した昭和25年6月だった。


 信濃はGHQ旗艦と揶揄されてはいたが、正式な米海軍籍にある訳でも無く、米軍人による操艦訓練など行われたこともない。


 朝鮮半島での戦争激化でマッカーサーが司令官として戦争を指揮する事になると、信濃の去就が問題となった。正式に米海軍籍として米軍による運用を行うかどうかだ。


 しかし、今更マッカーサーのオモチャを受け入れる事など海軍には出来なかった。


 それでもマッカーサーは信濃を使おうとして政治工作を行う。


 政治工作の結果、信濃は米海軍籍への編入が決まったが、あくまで太平洋軍の徴用船という事になった。

 乗り組むのは正規の軍人ではない。もちろん、システムの違う日本の軍艦を動かせと言われて動かせる訳もなく、旧日本海軍軍人を募集してその運用に当たる事になる。


 そもそも、信濃乗組員の多くはその維持管理に拘束されており、退艦が許された人員が少なかったことは、この場合幸いだっただろう。


 再募集という形式をとって米軍徴用船として燃料、弾薬を満載して動き出した信濃。竣工から5年、初めて外洋に出ることになった。


 そこからも無茶苦茶な命令は続いた。


 仁川上陸ではその支援部隊として輸送船と共に仁川へと赴いて朝鮮人民軍を艦砲射撃で吹き飛ばした。


 それから度々艦砲射撃や陽動に投入され、マッカーサー退任後も停戦のその日まで引っ張りまわされることになる。


 停戦すると徴用も解かれたのだが、では、誰が信濃を維持するのかが問題となった。


 日本には海上警備隊が発足していたが、信濃を維持する資金などない。米国もたかだか徴用船を今後も維持するのかと反対論が巻き起こってしまう。

 しかし、46センチ砲による対地支援の有効性は捨てられなかった。


 その結果、在日米軍が保管船として維持する事となり、最低限の航法設備の改修を行って、係留状態に置かれた。


 時は流れて60年代。ベトナム戦争において信濃は再度徴用される。


 と言っても、米海軍の正規戦艦が近代化改装を受けて新たな電子装置を備えているのに対し、航海設備、通信機材以外は20年前の旧式という状態だったが、とは言っても徴用船である。それで十分とされ、艦隊に随伴し、艦砲射撃にも用いられた。


 さすがに往時の乗組員が操艦していた訳ではないが、乗組員の大半はやはり日本人だった。


 ベトナム戦争たけなわの頃、日本ではベトナム反戦と共に反信濃デモが各地で起きていた。


 だからと言って、米国が維持、運用する船を日本がどうこうできるはずもない。ただ政争材料とされながらも信濃の作戦行動は続いた。

 この頃になると第七艦隊専用戦艦と言う事で、米軍も手放そうとはしなかった。


 そして、ベトナムからの撤退により、また横須賀で係留される日が帰ってきた信濃は、ドック入りして大掛かりな修理が行われた。


 だが、やはりただの徴用船でしかなく、航海や通信に必要な機材以外が更新されることなく、30年前の姿をとどめたまま港に係留され続けた。


 そして80年代。


 日本はバブルに浮かれ、そして信濃買収の話が持ち上がって来た。


 もちろん、自衛隊で運用しようというのではない。唯一残された大和型戦艦と言う事で、博物館として保存したいという話だった。


 確かにこの頃になると米国も持て余しており、1989年には貿易赤字解消の一つとして1000億円と言うとんでもない価格で日本へと売却された。


 この売却劇は日本国内でも無駄遣いとして批判が渦巻いただけでなく、中国や韓国までもが軍国主義の復活と大運動を行った。


 その後、信濃はドック入りし、武装解除に向けた作業や歴史的な、技術的な、様々な調査が行われ、大和型戦艦とはどの様なものであるかが次々と公開されていった。


 そんな1990年8月2日、イラクによるクウェート侵攻は信濃の去就を大きく揺さぶることになった。


 米国は80年代に現役復帰させた戦艦を有していたが、やはり使い勝手が良いのは信濃である。徴用船という便利さが忘れられなかった。


 そして、日本へと圧力をかけて来た。


「さっさと動くようにしてペルシャ湾へ寄こせ」と。


 時の日本政府は中国や韓国の批判を受けてまで派遣しようという意思はなかったが、総理が3人にもわたって僅か数週間でスキャンダルで退陣する異常事態となり、総理の座に就いた小澤田は信濃に限って派遣を決定した。


この時、「安保理決議に基づく派遣は合憲であり、仮に武力行使であっても国連活動は合憲である」という有名な小澤田解釈を国会で行い、以後の日本の方針を決めたというのはあまりにも有名である。


 こうしてペルシャ湾へ向かった信濃には、航海、通信設備に加えて携帯対空ミサイルが装備されていた。

 信濃だけでは無理があるとして掃海艇3隻、護衛艦2隻、補給艦1隻を同伴しての参戦であった。


 こうして湾岸戦争において、米戦艦ミズーリと共にイラク軍への砲撃を行っている。


 湾岸戦争参戦は中国や韓国の強い反発を招き、今に至るまでその対立が解消されない状態が続いているが、ミズーリと並んでイラク軍陣地を砲撃する信濃の姿はどの様なナレーションがつけられようとも日本人の気持ちを変える転機となった。


 ペルシャ湾での任務を終えて横須賀へ帰港した信濃は万雷の拍手と歓声で迎えられることになる。


 そして、小澤田総理は米国がすべての戦艦を退役させる中、信濃の現役続行を宣言し、修理と最低限の近代化改修を行った後、ユーゴ内戦へ派遣されている国連保護軍の一員として信濃を派遣する事を決定し、1995年までアドリア海での活動を行い、イタリアやフランスを訪問し、その威容は現地の人々をも魅了したという。


 国連保護軍解散の後、帰港した信濃は蓄積された疲労と老朽化によって退役を余儀なくされ、小澤田総理の意向とは裏腹に退役、その後、保存先を呉にするか横須賀にするかで政界を巻き込む大論争の中で小澤田総理が呉への保存決定と引き換えに辞任した事でようやく決着する事となった。


 こうして50年に渡った信濃は呉を安住の地として今も呉海事博物館の目玉として余生を送っている。


 


 


 

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― 新着の感想 ―
[一言] 韓国が対地支援で使いたいし。日本にマウントとりたいからよこせといってそう。>朝鮮戦争の活躍
[良い点] 御参加ありがとうございます。戦艦として完成した「信濃」が、マ元帥の執着で生き残り、その後数奇な運命を辿りつつも、日本に安住の地を得たのが良かったです。 [一言] ミズーリと並んで艦砲射撃、…
[一言] まぁ、信濃を英ソ中に渡すぐらいなら マッカーサーが接収命令を出して、政治工作して黙らせるのも無理はない 寿命にはさすがに勝てませんね 建造から50年近くして 地中海にまで行かされたうえなら…
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