03
目を覚ましたトルミレは、未だ朦朧とする意識のまま体を起こした。
「ここは……?」
言いながら違和感のある首元を触る。
何か、首輪のような物を付けられていた。
「お目覚めになられましたか」
「ヘリオス?」
ベッドの横に、老師が一人座っていた。
「ここはどこ?」
小綺麗だが、見覚えのない狭い部屋。
窓がないのはどういう事か、と訝しげに見回す。
「いけません。まだ休んでいませんと」
「えぇ、そうね」
記憶が曖昧だし、体には倦怠感もある。
大人しく横になる事にした。
「レアリ達は、戻ってきた?」
彼女らの帰りを待っていた所までは思い出せる。
「……覚えていないのですか?」
「えぇ、ごめんなさい。何かあったの?」
でなければこんな部屋にはいない筈だ。
判然としない意識でも、そこだけは確信が持てた。
「トルミレ様、我々は負けたのです」
「……何、言ってんの?」
唐突な言葉に、正気を疑う眼差しで返す。
「一体、何が」
あったというのか。
「私は、私はそれでも、あなただけは失いたくなかった」
ヘリオスの様子が明らかにおかしい。
何かに苛まれているような、それでいて喜んでいるような。
矛盾とも取れる感情の同居を、トルミレは不安げに推し量る。
「ですがご安心ください。ここに居る限り、あなたの身は守られる」
「だから、ここはどこなの? それにこの首に付いてるのは何?」
霊装の類だろうが、こんな物は初めて見る。
釈然としないまま再び体を起こす。
「あ――」
そこで、ようやく記憶が蘇った。
帰還したレアリ達を出迎えた、その後の事も。
「――あれは、誰?」
自分はレアリに攻撃を受けた。
それで気を失っていたのだ。
だがあれは違う。
それこそ瓜二つだが、全くの別人だ。
もしかしたらリオネラも。
――我々は負けたのです。
先程のヘリオスの言葉を思い出す。
「あの、ブラドって奴が攻めてきたの?」
「……はい」
言い難そうに頷く。
「ここは独房って訳ね」
捕えられたのだ。
首に付けられたのは力を抑制するための霊装だろう。
事実力が思うように出せない。
「じゃあ、あんたは」
同じ待遇、という風には見えなかった。
彼の言動からしても。
「トルミレ様。わかって下さい。あなたを守るにはこうするしか」
「レアリ達は、外はどうなってるの?」
ベッドから降りようとすると、肩を掴まれた。
「いけません。消息は我々も追っていますので、今はここに」
「我々って誰よ。ここは占拠されたんじゃ」
言い掛けて、更なる憶測に結び付く。
「……あんた、寝返ったの?」
答えはなかった。
ヘリオスは無言で視線を逸らす。
それが何より雄弁な肯定だった。
「何やってん――っ」
胸倉を掴もうとしたトルミレは、逆に押し倒された。
「……どきなさいよ」
正面から見据えるその瞳に、怯えの色はない。
寧ろ力任せに両手を押さえつけるヘリオスにこそ、それはあった。
「どけって言って――」
「私は、あなたを愛していた」
遮る言葉に、トルミレは目を見開く。
「気付きませんでしたか?」
「…………」
無言が肯定となる。
先程とは逆の立場。
「そうでしょうね。あなたは私など眼中になかった」
「そんな」
事はない、と言いたい所だが、否めない部分は確かにあった。
ヘリオスは四人の老師の中でも主体性に乏しく、いつもどこか頼りない印象が強かったから。
とはいえ誠実ではあったし、一角の信頼は置いていたつもりだ。
「だから私は考えた。どうすればあなたが私を見てくれるか。私のものになってくれるかを。彼らが接触してきたのはそんな時でした。私がどれ程悩んだか、あなたにわかりますか?」
その顔は、本当に悔いているようにも見えた。
「だが、彼らを選んでよかった。これであなたは、やっと、私のものだ」
かと思えば劣情を隠しもしない下卑た笑み。
これ程醜い人間を今までずっと身近に置いていたのか。
裏切られた事より、そちらの方が余程応えた。
トルミレの体から力が抜ける。
「永かった。ここまで本当に永かった。へへへ」
抵抗を諦めたと見るや、ヘリオスは嬉々として彼女の乳房を弄り始めた。
§
「しかしまさか、巫女一人差し出すだけで寝返るとは」
変わらずレアリの姿のままで、ブラドが言う。
「多分それはトルミレ姉さまが一番驚いてる所だろうな」
たった今地下の拘束室で起こっている事を思いながら、リオネラが応じる。
二人は現在、クレネのテラスでお茶を飲んでいた。
組織の掌握や回復は済んでいる。
必要な事には手を回しており、今は諸々の結果待ちである。
「そこまで叶わぬ恋でしたか?」
「近くで見てる感じ、完全な一方通行だったな」
「他の方々が協力したりは?」
「んー」
これまでの記憶を振り返るような間。
「レアリ姉さまは気付いてたっぽいけど基本スルー。ラストは多分気付いてない。気付いててもあれだし」
「あれですか」
言いたい事はわかる、と頷く。
「老師の方々は?」
「どうだろ。おっちゃんら真面目だからな。私らに対して親身ではあるけど、いつも明確な一線は引いてたな。巫女が神聖不可侵なのは信徒のみならず、自分達にとっても変わらない、みたいな」
「結界を維持してる事実があるとはいえ、そんな大したものでない事はわかっているでしょうに」
「私は気分よかったけどな」
「でしょうね」
軽く肩を竦めながら。
「傍から見ていてそれなら、彼らも内々で釘を刺すくらいはしていたかもしれませんね」
ブラド達は、その閉塞感に付け込んだ。
「リオネラちゃんから抱き込めそうな老師がいると聞いた時は半信半疑でしたけど」
「ちょろすぎて持ち掛けた私ですらしばらく様子見したくらいだしな」
長年抑圧された恋情は、それ故に些細な誘惑にすら抗えなかった。
レアリ達も、まさか老師の中に内通者がいるとは思っていなかったろう。
お陰でこのクレネは驚く程あっさり陥落した。
ブラドはティーカップを掲げる。
「ヘリオスの性欲に」
「レアリ姉さまの顔で下品な事言うのは、流石にライン超えてるな」
珍しく真顔。
「あまり酷いようだと、うっかりトルミレ姉さま達を助けてしまうかもしれないぞ?」
「失礼しました」
怒らせたい訳ではないので素直に謝罪。
直後、庭の中程で爆発が起きた。
「え?」
何事かと揃ってそちらを見る。
太い土煙が高々と舞い上がっていた。
地上で何かが爆ぜた訳でも、遠方からの砲撃の類でもない。
恐らくは地下からの衝撃によるものだ。
「あの下には何が?」
「さぁ、この辺にはあんまり詳しくないから」
「数百年何やってたんですかあなた」
話していると土煙、というよりは地面の下から巨大な狼が姿を現した。
「あ、トルミレ姉さま」
これはブラドも見覚えがあった。
虚無としての、トルミレ本来の姿である。
ヘリオスが裏切ったか。
あるいは自力で突破したか。
どちらにしても拘束の失敗を意味していた。
「きっと姉さまも今ので怒ったんだろうな」
「いや今謝ったじゃん……」
ブラドが演技も忘れて呟いた。
§
「ヘリオス、私と一つになりたい?」
押し倒された状態で、トルミレが問う。
「は、は、はいぃ。私は、ずっとそのためにっ」
ガクガクと頷くのに合わせて涎が垂れた。
「いいわ」
嫌な顔一つせず、トルミレはその頬を撫でる。
その体が、みるみる白い体毛に覆われていく。
「トルミレ様……?」
彼女の変化に、ヘリオスも気付いた。
「これで一つよ」
言うが早いか、抱き寄せたその首筋に勢いよく齧り付く。
「と、トルミレ、様」
その顔は既に獣のものへと変貌を遂げていた。
体の膨張に合わせて首輪が千切れる。
巨大化とヘリオスの傷口から溢れる衝撃とで、狭い部屋が一瞬で吹き飛んだ。
真上に開いた大穴から、結界の輝きが覗く。
地下に閉じ込められていたのだ。
ヘリオスを咥えたまま地上へと這い出る。
「トルミレ、様。私は、あなたを――」
言い終わるより先に噛み砕いた。
口中に溢れる霊子を一息に飲み込む。
久しく忘れていた転生者の味だ。
けれど少しも喜びはない。
「出てこいレアリ!」
力の限り叫ぶ。
「そんなに怒鳴らずとも、ここにいますよ」
応えは意外に近くから聞こえた。
レアリ。
その傍らにはリオネラも。
「まさかヘリオスを食べてしまうなんて、お姉さまも大胆ですね」
見慣れた筈の穏やかな笑み。
そこに潜む微かな違和感。
やはり別人なのだと、改めて確信を得た。
「お前達は誰だ。本物のレアリ達はどこにいる?」
「あいや、私は本物だぞ」
リオネラが控えめに手を上げて言った。
「他の方々の消息は現在調査中です」
「お前は何だ?」
「それ、そんなに重要な事ですか?」
「当たり前だっ!」
小馬鹿にしたような笑みに、トルミレが吠える。
気迫が衝撃となって二人を叩いた。
「……降伏してくれませんか?」
乱れた髪を整えながら。
「今のあなたは完全に孤立しています。勝ち目もないのに戦って傷つく必要はないかと」
「ふざ――」
けるな、と踏み込む直前、遠方から迫る人影を見た。
「っ!」
一直線に飛来してきたのは、見覚えのない侍女である。
大型の戦斧を構え、偽物のレアリやリオネラの前に立つ。
「……何よそいつ」
「新しい侍女のトットちゃんです」
レアリではない何者かの紹介に、侍女は無言で一礼。
トルミレは不満げに鼻を鳴らす。
「そんな小娘が何の役に」
言い終わる前に、トットという侍女が斬りかかってきた。
(速い――)
しかしトルミレも無策ではない。
複数の尾を伸ばし側面から。
そして正面からは炎を吐き出し迎え撃つ。
「っ!」
驚愕はここからだ。
トットはその全てを打ち払い、斬撃まで飛ばしてきた。
咄嗟に飛び退きはしたが、躱しきれずに眉間が裂ける。
(何だこいつ……)
傷はすぐに治る。
問題はそこではない。
今のは退かせるつもりで放った攻撃だ。
踏み止まり、ましてや反撃があるなど想定していなかった。
馬鹿な。
ありえない。
突き付けられた現実を疑う言葉ばかりが去来する。
「強いでしょう?」
悔しいが、認めざるを得ない。
僅かな応酬でも瞠目するには十分だった。
「幼い頃から徹底的に鍛え上げましたから」
一介の侍女が有する戦闘力を、遥かに超えている。
これでは並の虚無や転生者と変わらないか、下手したらそれ以上の――。
「お姉さまも、油断してると死にますよ」
§
上空から街の様子を窺っていたラストは、目を疑った。
それはトルミレが虚無の姿で戦っているからでも、総本山であるクレネの敷地内で戦闘が行われていたからでもない。
ブラド達は既に教団に入り込んでいる。
よりによってレアリの姿を借りながら。
トルミレはその正体に気付いたのだろう。
だから眼下で繰り広げられる戦闘も、別におかしな事ではない。
問題は、トルミレが押されている事の方だ。
相手はラストも戦った、トットという少女である。
確かにあの時も消極的な戦い方で、違和感はあった。
だがまさか、これ程強いとも思っていなかった。
大型の武器を持ちながら、トルミレの多様な攻撃に上手く対応している。
単純に振り回すばかりではない。
時にそれを軸に立ち回り、反撃にまで転じている。
「……っ!」
もどかしい。
徐々に追い詰められていくトルミレを見ながら、ラストは拳を握る。
本音を言えば今すぐにでも飛び出したい。
だが出来ない。
ラスト一人加わった所で、あちらの控えは二人。
戦況は覆らない。
救出に徹した所で結果は同じだ。
あちらにはリオネラがいる。
レアリに次ぐ機動力の持ち主が。
上手く隙を突けてもあっという間に追いつかれてしまう。
とても逃げ切れるものではない。
万が一逃げ切れたとしても、そこからレアリの生存も疑われる。
捜索の手も広がるだろう。
そうなれば悠長に休んではいられない。
今はまだ時間が必要なのだ。
断腸の思いで見守る中、ついに大型の獣が倒れる。
(トルミレ、ごめん……)
重傷ではあるが、虚無にとっては致命傷ではない。
必ず助けに戻る。
そう誓いながら戻る事にした時だ。
「え……?」
トルミレばかり見ていて気付かなかった。
離れて観戦していた二人。
いつの間にかそこからリオネラの姿が消えている事に。
「――ようラスト」
背後からの声に、全身が泡立つ。
「生きててくれてお姉ちゃんも嬉しいぞ」