02
寒い
「まさかトルミレ姉さまも、恰好馬鹿にしただけで殺されかけるとは思ってなかっただろうな」
「誰しも貶されたくない部分はあるものです」
薄暗い室内で話し合う。
ブラドとリオネラは現在、広い浴槽に浸かっていた。
着ていた服はそれぞれ別の籠に入れてある。
「報復にも限度があると思うけどな」
湯の宿す青白い光が二人の顔を怪しく照らす。
祈祷の間に似ているが別の部屋である。
こちらは巫女の消耗が激しかった際に使う、癒泉の間という。
巫女の、というよりは虚無を効率的に回復させるための処置が施された液体で、高濃度の霊子が含まれているので温度が高い。
常人からすれば熱湯と言える程に。
本来ブラドには必要ないが、レアリに化けているため一緒に入る事になったのだ。
ちなみにトルミレは別室で拘束中。
焼け爛れた顔は元に戻っているが、目を覚ましたという報告はまだない。
「限度を超えたればこそ、みなの動揺を誘う事が出来ました」
これは本当だ。
レアリの不意打ちに、あの場の誰もが呆気に取られた。
そこに便乗する形で現れたのがトットやエルマーの率いる部隊である。
予め内通者の手引きで潜入していた彼らは、衛兵たちの隙を突く事に成功。
結果として殆ど犠牲を払わずに制圧出来た。
「実際どこまで予定してたんだ?」
「そんなもの」
何を今更、と肩を竦めながら。
「全部即興ですよ」
「レアリ姉さまぶるならあれだな、もう少し計画性を持って欲しいな」
「善処しましょう」
「きっと善処しないんだろうな」
「リオネラちゃんは何でもお見通しですね」
「まーな」
うふふあははと室内に、空虚な声が木霊する。
その背後で扉が開いた。
二人揃って振り返る。
「失礼します」
二つの籠を持って入ってきたのは一人の侍女である。
「替えの服をお持ちしました」
「ありがとうステア」
「私の分まで悪いな」
「いえ、他に手の空いている者もおりませんので」
他は全員幽閉されているので、これは仕方ない。
彼女はレアリの侍女で、あの現場に居合わせながら拘束を免れた者の一人である。
元々ブラドの息が掛かっていた訳ではない。
ただあの時、驚愕と困惑に満ちた沈黙を破ってブラドに襲い掛かる者がいた。
トルミレの侍女である。
自身の主とも言える巫女が攻撃を受けたのだ。
彼女の立場からすれば当然の行動である。
それを、ステアは一撃で叩き伏せた。
その後も続々と現れるエルマーの部隊に警戒の色は示したものの、レアリの配下と知るやあっさり矛を収めた。
こちらもまた大した忠誠心である。
面白い。
それが気に入ったので、ブラドはステアを捕えず変わらぬ職務を与えた。
レアリとリオネラ、それぞれの服が入った籠を置いていく。
そして元々着ていた服の入った籠を持って立ち上がる。
「それでは、失礼致します」
「ステア」
早々に下がろうとする侍女を呼び止める。
「はい」
「あなたは驚いていないのですか。先程の事について」
好奇心から問いかける。
「いえ」
ステアという少女についてはリオネラからある程度聞いていた。
その突出した才能を見込まれ、異例の若さで御側付きの侍女に任命されたのだとか。
「私はレアリ様のなさる事に従うだけです」
それが彼女にとっての規律なのだろう。
ステアの本領は、レアリを心酔する内面にこそあった。
何も知らぬ者達の中で乱心を疑わなかったのは恐らく彼女だけだ。
レアリがこんな事をする筈がない、という違和感すらない。
言動の全てを肯定する。
ここまで来ると盲信に近い。
危うくもある。
同時に好ましくもある。
「そうですか」
当面の疑問は解けた。
「ありがとうステア。あと一つ、用を頼まれてくれますか」
「はい。何なりと」
「先程私と一緒にいたトットという子を呼んできて欲しいのです」
そう言うとステアの瞼が二人に気付かれぬ程度、僅かに持ち上がった。
「……どうしました?」
問いは生じた沈黙から。
「いえ、少し顔を思い出すのに手間取ってしまい」
「侍女の法衣に着替えるよう言っておきましたから、今ならすぐにわかる筈です」
「畏まりました」
深々と頭を下げてから、ステアは退室した。
「あの子は、昔の私に似ていますね」
「そうかー?」
「そうですよ」
含みのある笑みで。
「一途で、純粋で、健気で、そしてとても哀れです」
「それはあれだな。ちょっと自分を美化しすぎだな」
「やんちゃなお口はこうですよ」
言ってリオネラの頬を抓った。
「ごえんなひゃい……」
§
「トットさん、ですか?」
呼ばれて振り返ると、そこには侍女がいた。
「はい。何でしょうか」
レアリの御側付きと記憶している。
「レアリ様が御用があるそうで、癒泉の間に来るようにと」
「わかりました」
「あの」
踵を返すその背を引き留める。
「まだ何か?」
「失礼ですが、レアリ様とはどういったご関係でしょうか」
「関係、ですか」
トットはすぐに答えられなかった。
邪魔者は全員投獄予定だったので、表向きの設定などは用意していない。
ブラドの気まぐれにも困ったものである、などと考えてから。
「昔拾って頂いて、それからずっとお世話になっています」
一から作る必要もなかろうとありのままを教える。
「あなたが?」
「はい。エルマーさんと似たような立場になります」
「あの方との付き合いも、長いのでしょうか」
「その筈です」
断定は出来ないが。
トットも全てを知らされている訳ではない。
育てられた恩もあるので惰性で協力しているだけだ。
エルマーと懇意にしているのもブラドのみ。
トットからしてみれば彼は近所の怪しいおじさん程度の認識しかない。
「そう、でしたか……」
困惑混じりのその顔に、けれど怪訝の色はない。
ステアにしても納得できる部分があるからだ。
霊装の開発局を始め、教団の抱える下部組織はそれなりにある。
戦闘に特化した黒衣衆などもその一つだ。
だから今更巫女子飼いの組織があったと言われても不思議ではない。
ステアも御側付きになってから一年足らず。
短くはない。
けれど長くもない。
知らない事などあって当然なのだ。
頭ではわかっているが、心は追い付いてこない。
「もうよろしいですか?」
呆然としたままのステアに問いかける。
「あ、はい。すみませんでした」
頷いて、立ち去るトットの背を見送る。
しばらくそのまま佇んでから吐息を漏らす。
「っ!」
突如走った手の痛みに、思わず顔を顰める。
きつく握り締めた拳から血が流れていた。
「あれ?」
無意識にそうしていたらしい。
まるで気付かなかった。
固まった指をゆっくりと開いていく。
爪が手の平に食い込んでいた。
「やだ……」
こんな事は久しぶりだった。
一年か、もう少しか。
レアリの御側付きを任じられてからはなかった事だ。
「あの子、邪魔だな」
既に立ち去った相手を思いながら、ステアはそう呟いた。
§
レアリは目を覚ますと、ゆっくりと体を起こした。
「レアリ、平気?」
横にいたラストが心配そうに覗き込んでくる。
「えぇ、だいぶ良くなりました」
まだ万全とは言えないが。
「どれ位眠っていましたか?」
「大体三日」
「そうですか」
意外に早い。
もう少し掛かるものと思っていた。
けれど待つ側にしてみれば長い時間だったろう。
「すみませんでした。ツカサさんも……」
探そうとして顔を上げると、幸いすぐに見付かった。
少し離れているが、自分達と同じように泉に浸かっている。
「おはよう」
苦笑交じりの挨拶。
その膝に、初めて見る少女を乗せながら。
「誰、え……どなたですか?」
ツカサとラスト、どちらに聞いたものかと視線を往復させる。
余りにも違和感がないので困惑も大きい。
まるで親しい兄にそうするような自然体で、彼女はそこにいた。
「気を付けてレアリ」
張り詰めた顔で、ラストが言う。
「あれは虚無。結界の穴から入ってきた」
「それは――」
大変な事だ。
本来なら。
だが現状を見るに、そこまで殺気立った様子はない。
ラストの言うように警戒は必要だろう。
しかしまず、するべき事は他にある。
「あの、私が寝ている間に何が?」
「二日前に、あいつが急にここに来たの」
「それからずっと、ここにいるんだ」
「彼女もここで回復を?」
「そう。そのせいで最初泉の霊子が尽きかけた」
確かに泉の規模から見て複数の虚無が使うには狭すぎる。
だというのにどうした事か。
天然の源泉ではおよそありえぬ霊子の量が維持されている。
眠る前はここまでなかった筈。
「あぁ、それでツカサさんが」
足りない分は彼が供給しているのだ。
「すみません。わざわざお手を煩わせてしまい」
「いや、僕も何かしたかったから」
「そちらの方は、お名前は?」
問いかけに、少女はこちらを一瞥したあと背を向けてしまった。
ツカサに正面から抱き着くような座り方だ。
嫌われているのかもしれない。
彼女らにした事を思えば当然である。
「ウノっていうんだ」
代わりにツカサが答えた。
「あんまり喋ってくれないから、僕らもさっき知ったんだけどね」
「そう、でしたか」
自分やラストだけならともかく、ツカサまでとなるとただ無口なだけかもしれない。
「レアリ。全快まで後どれくらい?」
「もう半分といった所でしょうか」
「そう」
言ってラストが泉から上がる。
「首都の様子を見てくる。いい?」
「ええ」
勿論と頷く。
自分達が生きているのだ。
当然ブラド達も生きている。
本来なら一刻も早く報告に戻らなければならない状況だ。
やむを得えなかったとはいえここで時間を使い過ぎていた。
ラストも早々に動くつもりではあったのだろう。
それが、恐らくウノの登場でそうもいかなくなった。
逆の立場であればレアリも動けない。
自分が目覚めるまで待っていてくれたのだ。
「私は大丈夫ですから、お願いします」
「ん」
頷いて、ラストは飛び立った。
「やっと行ったか」
言いながら、ウノがこちらへ向き直る。
「おいお前」
指を差される。
「はい」
「あいつお前の子分なんだろ。ちゃんと教育しとけよ」
「あの、どういう事でしょうか?」
子分ではないし、不満の矛先も読めず首を傾げる。
「あいつな。こっちが何か喋ろうとする度に敵意剥き出しで睨んでくんのよ。ほんともう、何度ぶん殴ろうと思ったかわかんないよ? でもここでおっぱじめたら一帯吹き飛ぶし、そりゃもう特大の慈悲で堪えてやってたわけ。わかるか?」
それで黙っていたのか。
淡々としてはいるが、それなりの忍耐を強いられていた事は伝わってきた。
「それは、すみませんでした」
一緒にいる以上、余計な不和は取り除いておきたい。
そう考えてから、別の疑問に思い至る。
「あの、ウノさんは、これからどうするおつもりですか?」
「あん?」
「私達は今、敵と戦っています」
「らしいな」
「なので、私達と一緒にいると巻き込まれる危険があります」
「知ってる。加勢してやってもいいぞ」
「……本当ですか?」
少し意外だった。
「あの、私達はあなた方を締め出した――」
「それも知ってる。ていうかあのチビの様子から察した」
ラストとの身長差はあまりない、というか恐らくウノの方が小さいが。
「別にお前のためじゃないぞ。この数百年、ずっとお前ら全員殺す事ばっかり考えて生きてたくらいだしな」
「ではなぜ」
レアリが聞くと、ウノは横向きになってツカサの首に腕を回した。
「こいつの為だ」
「ち、近いよ」
顔が間近に迫ると、ツカサはやや仰け反る。
「結界の外では、正直そろそろ限界だったからな。ツカサは命の恩人だ。こいつの為なら、そりゃ何だってしてやるとも」
嘘は言っていない、ように思える。
ただその瞳には、善意以外の何かも見て取れた。
「あとはまぁ、単純に暴れる理由が欲しい。ぶちのめせれば誰でもいいんだ、実際」
どちらかと言えばこちらが本音かもしれない。
心強くはある。
ただ頭から信用するのは危険だった。
「敵が見付かるまでは、精々回復に専念するさ」
ウノは笑う。
恐らくはこの先に広がる闘争に思いを馳せて。
「楽しみだなツカサ」
「いや、僕はあんまり……」
こちらは露骨な苦笑い。
当面の脅威にはなりえない。
現状ではそれでよしとするしかなかった。