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ドアを抜けたその先に

作者: 静観 啓

 三題噺で作った物語です。今回の題材は、ドア、ポニーテール、ワインです。

 ドアを抜けると、そこは懐かしの風景だった。少し狭いリビングに、ダイニングキッチンの向こう側にはポニーテールを揺らしながら楽しそうに料理をする妻の姿。まな板と包丁がかなでる子気味いい音が、僕の心を躍らせる。

 帰って来たんだと、改めて実感する。

 僕は声が震えないよう努めながら、恐る恐るただいまと声をかけてみる。


 すると、妻は嬉しそうに振り返りながら

「おかえりなさい」

 と一言。


「今日は早かったのね。もうすぐご飯できるから、手でも洗ってきたら?」


「そ、そうだね」


 それ以上の会話が見つからず、僕は大人しく洗面所へと足を運ぶ。

 鏡に映るのは、三十代前半の顔をした僕。

 若いなと思わずつぶやいてしまう。手を洗えば肌は水を弾き、心なしか石鹸の泡立ちもいい。こんな時代もあったんだなと、妙に考え深いものがある。この時は、こんなこと考えもしなかったが、戻ってみれば健康とはどれだけありがたいものなのか身に染みる。

 僕は一通り済ませると、リビングに戻る。

 二人掛けのテーブルには、美味しそうに湯気をあげるビーフシチューにサラダ、フランスパンとワインが並んでいた。

 先に席についていた妻を見て、涙がこみあげてくる。それがばれたくなくて、僕は適当に口を開いた。


「今日は特に豪勢だね。何かあったの?」


 その問いに、妻がクスクスと笑った。


「なに冗談言ってるのよ。今日は私たちの三年目の結婚記念日でしょ? そんな冗談言ってないで座って食べましょ」


「あ、ああ」


 結婚記念日ということは今日は十一月二〇日。そして三年目ということは、妻は二六歳ということになる。二六という年齢に、僕の心臓が鼓動を早める。

 席に着いた僕を見て、妻はワインを掲げる。


「じゃあ、私たちの三年目の結婚記念日を祝して、乾杯!」


「乾杯」


 ワイングラスを優しく当てると、澄んだ音とともに中のワインが少しだけ揺れる。口をつければ、芳醇な香りと少しの渋みが口いっぱいに広がった。


「もう三年も経つのね。長いようで短かったわ」


「そうだね。気づけばあっという間だった」


「これからも色々なことをあなたと過ごせるのね」


「……」


 彼女のそれに、僕は思わず言葉を失う。


「どうしたの?」


「……いや、何でもないよ」


 今はこの限られた時間を楽しもう。僕は全ての問題を頭の片隅に追いやり、食事に舌鼓を打つ。彼女とこうして会話をしながら食事をするのは本当に久しぶりで、時間はあっという間に過ぎていった。

 気づけば食事を始めてから一時間近くがたっており、食卓に並んでいた豪華な食事も、そのほとんどがなくなっていた。

 楽しい時間だった。誰かと食事をするなんてことは本当に久しぶりで、好きな人と一緒にいる時間がこんなにも尊いものだとは、この年で改めて気づかされた。

 しかし。


――幸せな時間もここまでだ。


 僕は覚悟を決め、本題を切り出す。


「聞いて欲しい話があるんだ」


 今までにない重い空気に、彼女も何かを感じたのだろう。

 手に持っていたワイングラスをテーブルに置く。


「どうしたの? そんなに思いつめた顔をして……」


 言いたくない。本当はこの幸せで楽しい時間にずっといたい。その思いを無理やり頭から振り払い、僕はその言葉を口にした。


「僕と……。僕と別れて欲しい」


「えっ?」


 突然のその言葉に、彼女は驚きの表情を浮かべる。

 当然だ。誰でもいきなり、それも結婚記念日に別れを切り出されれば驚きもする。でもこれは他でもない彼女のためなんだと自分にうそぶき、キリリと痛む胸を無視して、僕は話を続ける。


「君は僕の妻にはふさわしくない。料理だって美味しくないし、いつも髪はぼさぼさだ。ばれないように一本にまとめているんだろうが、バレバレだよ。僕は……。僕はそんな君に愛そうが尽きたんだ」


 胸が痛む。こんなこと言いたくない。自分はなんて最低なんだろうと、吐き気がこみあげてくる。


「嘘よ……」


「嘘じゃない」


「嘘よ!」


 その力強い否定の言葉に、思わず彼女の方を見てしまう。

 そこには、今にも泣きだしそうな、それでいて優しい笑みを浮かべる妻の顔があった。


「嘘よ」


 先ほどとは違う、優しい声音。


「だってあなた……、泣いてるもの」


 彼女の言葉で、初めて自分が涙を流していることに気が付いた。


「あなたが何を思ってそう言ったのかは、私には分からない。それでも、あなたが嘘をついていることくらい、私には分かるわ」


 ああ、敵わないな。この人は、僕の妻は、なんて完璧なのだろう。料理が上手なところも、自分の髪よりも僕を優先してくれるところも、一本に縛っているポニーテールも、全てが完璧で、全てが愛おしい。

 自分は彼女を愛しているのだと、改めて実感させられる。

 無理だ。僕はこの人に嘘はつけない。

 その思いを見透かしたように、彼女が優しく微笑む。


「あなたのことだから、きっと私のことを思ってそう言ってくれたんだろうけど、私は何があっても別れないわ。あなたのそばで、ずっとあなたを支える」


「……それで死ぬことになっても?」


 僕の問いに、彼女は間髪入れずに答える。


「もちろんよ」


 そのしっかりとした答えに、僕は諦めにも似たため息を吐く。

 ずいぶん長い時間を一人で過ごしてきた。食事も、仕事も、生活も。だから忘れていた。彼女がどうしようもないくらい完璧の女性で、どうしようもないくらい優しく、そしてどうしようもないくらい頑固だということを。


「君は相変わらずだね」


「当然よ。あなたの妻ですもの」


 彼女の言葉に、また涙があふれてくる。


「それにね、例え明日死ぬことになっても、私は幸せよ。大切なのはどれだけ生きられるかじゃない。どれだけ一緒に居られるかじゃない。幸せのまま死ねるか、幸せをどれだけあなた残せるのか、それが大切だと思うの」


 やっぱり敵わない。僕は長い時を生きてきた。それでもやっぱり、彼女には、僕の唯一愛した女性には敵わない。

 妻はおもむろに立ち上がると、僕を抱き寄せる。


「何があったのかは分からない。それでも、私はあなたの味方よ。例え何があっても」


 この言葉に救われた。僕はもう長くないけれど、それでも、確実に、僕は救われたのだ。


「……ありがとう。君が僕の妻でよかったよ」


「それはこっちのセリフよ」


 そう悪戯っぽく言った彼女の顔は、少年のようでもあり、母親のようでもあった。

 ずっとこうしていたい。彼女の胸の中で泣きつかれ、そして眠り、起きたときにはまたおはようと笑顔で迎えて欲しい。

 でも、その夢はかなわない。

 時間だった。

 僕はまだ居たい思いを無視して、無理やりに立ちあがる。


「どうしたの?」


「用事が出来たんだ。少し出かけてくるよ」


「そう。分かったわ。気を付けてね」


 こういう時、彼女は何も言わない。遅くならないでね、夜食を準備して待ってるわね。ただそう言うだけ。そんな彼女が、僕は本当に好きだった。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 その言葉を最後に、僕は玄関へと向かい、ドアを開けた。







 ドアを抜けると、そこは見慣れた風景だった。広いリビングに、誰もいないダイニングキッチン。ただ広いだけの家は、何もなく寂しいものだった。

 その場所に一人の人物が立っていた。中肉中背のスーツ姿の男。彼は僕がドアから出てくると一礼する。


「おかえりなさいませ。時間旅行はいかがだったでしょうか? 過去を変えることはできましたか?」


 彼の問いに、僕は首を横に振る。


「できませんでした」


 自分のしゃがれた声に、戻ってきたのだと実感する。

 杖を突き、リビングにポツンと置かれた椅子に腰かける。


「それは残念でしたね」


「いえ、そうでもありません」


 僕の答えに、彼は意外そうな表情を浮かべる。


「それはどういう意味でしょうか?」


「そのままの意味ですよ」


 僕は彼女の顔を思い浮かべて、思わず笑みがこぼれてしまう。


「最初にあなたに言われた言葉の意味が分かったんです。過去を変えられる者はほとんどいないと、そうおっしゃっていましたよね」


「ええ」


「あの意味が分かったんです」


 彼は優しい笑みを浮かべて、なるほどとつぶやく。


「彼女に言われたんです。例え明日死ぬことになったとしても、大切なのは幸せでいることだと。どれだけ長い時間いられたかが大切ではなく、どれだけ大切なものをもらったのかだと」


「でも彼女はあの後死んでしまうんですよね?」


「ええ。彼女は、結婚記念日の次の日、私へのプレゼントを買うため外出し、事故にあって死んでしまう」


「それでいいんですか?」


「よくはありません」


 それでも。


「彼女は幸せだったんだと思います。なにせ、僕がこれだけ幸せだったんですから」


 彼はぼくの言葉を聞いて、彼女に似た優しい笑みを浮かべた。


 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。今回は三題噺で作った物語になります。楽しんでいただけたでしょうか。

 もし面白いと思っていただけたら、ブックマーク、評価、感想等いただけると執筆の励みになります。

 また連載物ではファンタジーを中心に執筆しています。「呪術師の弟子」「悲しくも美しいこの世界で」も読んでいただけると幸いです。

 よろしくお願いします。

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