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やだ無理尊い


 足を引きずるように庭園に出た雪香は、四阿の近くに咲き誇る桃の花を見上げていた。たわわに咲き誇る桃が、朝の日差しにふわふわと揺れている。差しかけられる日傘のせいで、日差しが肌を焼くこともない。


「……綺麗……」

 そっと差し伸べた指先で、桃の花びらにそっと触れる。




『母上は、花のような人だった』


 不意に、少年だった頃の凌風を思い出した。彼のための弓を削り、磨いている作業中だった。その翌日、彼は矢羽根を手に入れるために、神鷹を訪れ、羽根を賜ることになるのだが、その前日のことだった。


 斗母元君の廟に宿泊していた彼は、大鴉を討つための武器を作る手伝いをしていた。その弓矢の材料集めがない時は、雪香の工房で彼女の作業を見るともなく見つめることが多かった。


『お母上? 皇后様ですか?』

 王宮のことも、後宮のことも知らない雪香は、弓を磨きながら無邪気に問うた。


『皇后! ははっ、母上があんな悪女なわけがない!』

 少年は、引きつったような笑い声を上げた。そこで初めて失言に気づいた雪香は、顔を上げた。


『あの、ごめんなさい……』


『母上は父上の寵愛を一時得ただけの下女だ。身分が低いために、皇后やその他妃嬪の嫉妬を一身に受け、私が幼い頃に命を落とした。その私を母代わりと言って育てたのが皇后だ。……なんとおぞましい存在(もの)だろうか。己が虐め殺した女の息子に、母と呼べなど。挙げ句には愚鈍な兄に仕えよなどと』


 少年の目は怒りに煮えたぎっていた。怒りと、哀しみ。彼が目に浮かべる感情は、この二つ。


『……ねぇ、どんなお花でいらしたの? 彫ってあげる』

 だから、その目の色を少しでも穏やかなものに変えたかった。


『……蝋梅』

 冬に咲く、甘い香りのする黄色い花を言われて頷く。


『とても美しい方だったのね』

 磨いていた弓に、小さく蝋梅を彫る。彼の母が彼を守りますように、と。


『そなたとは似ても似つかぬがな』

 皮肉めいた声に、苦笑する。


『皇帝陛下に選ばれるような方と似ていたら、とっくに妓楼で稼いでるわ』


 雪香を捨てた両親は、雪香が器量よしであることを祈っていただろう。だが、そうではなかった。だから斗母元君の廟の前に捨てた。……元君廟の前という場所が、彼らの最後の情けだったのだと思っている。


『そんなつもりじゃなかった……』

 苦い声に見上げると、少年が顔を逸らして眉をひそめていた。おや、と思って雪香は笑う。


『大丈夫、別につらい話じゃないから。今は幸せだもの』

 この元君廟で、雪香の居場所がちゃんとある。だから、別につらくもなんともない。


『……私が大鴉を討ったら……』

『え?』

 首を傾げると、少年は俯いて言葉を濁した。


 あの弓は、彼を守っただろうか。雪香が命を賭けて張った弦は、立派に大鴉を射たのだろうか。結果が分かっていても、どこか心が落ち着かない。




「――見事な桃だな。それに、桃の精がいる」

 だから響いた、低い声にもどこか夢うつつだった。


「桃の精……?」


 ぼんやりと疑問に思いながら振り返り、黒い服に身を包んだ男性を認めた。黒地に龍紋が描かれた服を見て、一瞬で頭が冷える。


「――っっっ」


 さっと跪拝して、礼のために顔の前で掲げた手で顔を覆い隠す。袖の影からそっと様子を窺うと、すでに水琴や通海も跪拝している様子だった。いったい、いつの間に。


 男性――皇帝である凌風であることは間違いないだろう――の後ろには、何人もが随伴している気配もあった。どうして気づかなかったのか。いくら過去に思いを馳せていたとしても、こうまで気配に鈍感だったとは、自己嫌悪さえしてしまう。


「そなた、名はなんという」


 ひたすら狼狽えながら跪拝している雪香に、低い声が降ってきた。先ほどは顔を確認する暇さえなかった。しっかり見分けたのは、胸に描かれた龍紋だけ。今の凌風はどんな顔をしているのだろう。そう考えが及んだ途端、狼狽えきっていた頭に冷静さが戻ってきた。これが、最後の機会だ。凌風の顔を見ることができる、という。


「――皇帝陛下にご挨拶申し上げます。汪家の、雪香と申します」

 名乗って、深く頭を下げる。


「汪家の……もしや妃選びに参ったのか? 本宮で見た覚えはないが……」

「最近いらした令嬢ですので、陛下」

 彼の傍らに控える宦官が、そう皇帝に答えた。よくよく声を聞けば、蔡大監である。


「そうなのか? 汪家の令嬢?」

 皇帝に問われ、雪香は戸惑った。応と言えば蔡大監への弾劾になりはしないだろうか。


「失礼いたします、陛下。お嬢様は一週間前からこちらにいらっしゃいました。ですがずっとお呼びいただけず……!」


 水琴が雪香の斜め後ろからそう訴え、その不敬さに体が凍える思いがした。咄嗟に非礼を詫びようと身じろぐが、その前に蔡大監が声を張り上げた。


「陛下、お妃選びに参った令嬢方はこちらのお嬢様以外に三十名も陛下のお目通りを待っております。ですがそれらのご令嬢といっかな面談しようとなさらないのは陛下でいらっしゃいます。そのため、こちらの汪家の令嬢も無為に過ごされたのですぞ」


 水琴以上に不敬に聞こえる言葉だが、その言葉に皇帝は押し黙った。頭を下げたままはらはらしていると、やがて皇帝は小さく息を吐いた。


「……なるほど。その方の言いたいことは分かった。……さて、汪家の雪香と申したか。面を上げよ」


 許されて、顔を覆っていた手を下げる。そっと頭を動かし、皇帝となった彼の膝、腰、胸、首へと視線を上げていく。だが、皇帝と目を合わせることもまた、不敬である。本来ならば胸元以上から視線を上げるべきではない。皇帝にただ、己の顔を見せるためだけの、『面を上げよ』であるのだ。


 だが、雪香にとっては最後の機会である。このために生まれかわったのだ。皇帝への不敬の罰としては、鞭打ち十打が最も軽い。背中に振り下ろされる鞭を思って体は強ばったが、心は怯まなかった。


 顎から口元まで視線を上げる。父のそこだけはいかめしい髭とは違い、綺麗に剃られている。そのおかげで端正な顔の輪郭がよく分かった。そこから鼻筋を辿って、その形が昔と変わらないことを懐かしむ。そしてついに――目が、合った。


 雪香と同じ、黒い瞳。穏やかな海を思わせるような、凪いだ目。その奥に、確かに情動が動くのを感じるが、それを悟らせるほど浅くはない。なおも懸命に瞳を見上げる。そこに、かつて深い傷跡のように残されていた、寂しさと悲しさ。それが残っているかどうかをじっと見つめ……雪香は、息を吐いた。慟哭するような目は、そこにはなかった。彼は、もう寂しくはないのだ。悲しくも。そう分かって、自然と肩の力が抜け、頬が緩んだ。


 皇帝の目に集中していた焦点が、離れる。そのことでようやく、皇帝の額から上も認識される。


「――!」


 彼の髪が、白銀に変わっていた。


 綺麗に結い上げられ、爵弁という頭に被る帽子のようなものに全貌は隠されていたが、それでも彼の髪が日差しに煌めく白銀ということはよく見て取れた。


「――っ」


 その彼が、ゆっくりとした仕草で、だが意外なほど素早く雪香の前に歩み寄り、跪拝する彼女の手を取って上に引いた。まるで立ち上がれ、とでもいうような仕草に、戸惑いながらも従う。視線はすでに胸元の龍紋に固定している。


「蔡包、正寝殿に、彼女の部屋を」


 じっと雪香を見下ろす視線を感じる。握られた手の大きさ、力強さに神経が注がれ、ざわめく周囲に一拍遅れて意味に気づく。


 正寝殿、とは皇帝の私室である。後宮とも違い、皇帝が誰にも邪魔されずに過ごすことのできる宮殿で、妃嬪達の住む後宮と、大臣達と政務をする太極殿の間にある、大きな宮殿である。そこに雪香の部屋を用意しろと言った……?


 聞き間違いを確信した雪香は、そっと周囲を見回した。斜め右後ろの水琴は、跪拝した姿のままあんぐりと口を開けている。通海は斜め左後ろにいたが、その通海もさすがに目を見開いている。仙人だけあって日頃動揺した姿など見たこともない通海が、驚きを露わにしている。そのことでようやく、雪香はもしかして聞き間違えていないんじゃないかという疑惑を持った。


「――っな、何をおっしゃいます陛下! 皇后でさえ正寝殿に部屋を賜ることなどございませんのに、妃嬪でさえない令嬢になんたる厚遇を命ぜられますのか! 君臣の違いを弁えない寵愛は、他ならぬ汪家の令嬢のためにもなりませぬぞ!」


 蔡包と呼ばれた蔡大監の反論に、雪香は心の中で激しく頷いた。好みじゃないから、と帰宅を命じられると思っていたところに、後宮どころか正寝殿への逗留を命じられるとは、想像の斜め上すぎた。それとも、鞭打ち刑の執行のために正寝殿に呼ばれるのだろうか? でもそれなら先に罪状を読み上げられるべきと思うのだが。


「……雪香、そなたは正寝殿は、嫌か?」

 手を引かれ、覗き込まれるようにして目を合わせられて雪香は頭が真っ白になった。雪香の頭の、処理能力を越えていた。


「お、恐れ多いことと存じます……」

 やだ無理尊い、の宮廷言葉である。嫁に行った姉がそう言っていたのだ、間違いない。


「後宮の方がいいか?」

「お、恐れ多いことと存じます……」


 腰をかがめ、雪香と同じ目線の高さになった皇帝にそう問われ、そう答えるしかできない。やだ無理尊い。


「そなたがそう言うならば仕方ない……蔡包、後宮に部屋を準備せよ。……桐美殿がいいだろう」

「桐美殿ですと!? しかしあそこは寵愛深い妃嬪に与えられる殿舎で――」

「――蔡包。その方の失態に、私は目を瞑った。これ以上、私に何かを言わせたいのか」

「――っ、かしこまりました、陛下」


 ひやりとした空気が一瞬だけ皇帝から放たれ、雪香は想像の遥か上をいく事態に、ただただ呆然としていたのだった。






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