桃まんじゅう復活
「邪魔をするぞ」
そう言って離宮に入っていった涼風を、通海や水琴が出迎えた。通海は僅かに面白げな顔をしたが、水琴はかなり驚いたようだ。誰何しようとして、彼の衣服が高位の男性のものだと気づき、もどかしげに唇を噛むのが見えた。
「これは果王殿下。いったいどうなさいましたので」
跪拝し、そう問う通海の言葉で少年の身分を悟り、慌てて水琴も跪拝した。
「その方らが彼女に仕えている者共か。なんとも使えぬ小監に侍女だ。彼女にこのような格好をさせて平気とは」
通海や水琴を責める言葉に、雪香の方が苦しくなる。
「涼風様、これはわたくしが望んだことでっ」
「主の健康を保つことも、その方らの勤めであろう。時には主を諫めることも必要ではないのか。その方らの忠心は、その程度のものか」
「涼風様っ!」
通海も水琴も、何度も雪香を諫めてくれた。体に悪いと、こんなことはやめろと忠告してくれた。受け入れなかったのは雪香の方だ。彼らの心を思って涙声で制止する雪香を振り返り、涼風は仕方なさそうにため息をついた。
「彼女はいずれ皇后になってもおかしくない女性だ。だからこそ、その体は重んじられてしかるべきだと私は考える。主の意に逆らうのは難しいことかもしれぬが、彼女に信頼されるその方らにしかできぬことでもあるのだ。主を大切に思うならば、できるな?」
諭すように言い聞かせる涼風を、通海はともかく水琴はすっかり心酔した目で見つめていた。
「――っ、かたじけないお言葉でございます。至らぬ身ではございますが、これまで以上にお嬢様に忠誠を尽くす所存でございます……!」
これは、もしや。嫌な予感に身じろぎすると、涼風が雪香の逃走を防止するようにきゅ、と繋いだ手に力を込めた。
「では、このように胸を押しつぶすような格好を疾くやめさせよ。顔立ちもやつれているように見受けられる。滋養のあるものを用意するのだぞ? 陛下には明日、私から伝えておく。ほどなくいらっしゃることだろう。準備は任せたぞ」
涼風の言葉に、泰然としていた通海でさえ
「おぉっ!」
と喜びの声を上げた。水琴に至っては涙ぐんで伏し拝むばかりに涼風を見上げている。
「頼んだぞ」
そっと雪香の体を水琴の方に押しやりそう言う涼風。雪香よりも水琴の心を掌握しているような気がする。
「かしこまりました、殿下……!」
救いの神を見るような目で涼風を見る水琴に、己の乳姉妹がすっかり主と仰いでいそうな気配を感じ取り、ため息をつくのだった。
それからは当然のように別室で布を解かれ、さらに涼風が命じたという夜食が用意されていた。
「癒やし……癒やしはどこに……」
癒やしを求めて散策していたのに、予想外の事態に心はさらに疲弊した。それなのに体は喜んで滋養のある夜食を受け入れ、空腹に苦しむことのない、快適な睡眠へと雪香を導いたのだった。
翌朝、当然のように布は消え失せた。
「あぁぁ、おいたわしい桃まんじゅう……」
長らく――と言っても一週間程度だが――布を巻かれていた胸は、やはりたゆんたゆんさを失っていた。どことなく張りが失せ、形も平べったくなっているように思う。すなわち、潰れた桃まんじゅうである。斗母元君からいただいた豊乳だ。ものすごい罪悪感が押し寄せる。
「殿下の奏上でいつ陛下がいらっしゃるか分かりませんもの。いついらしてもよいように、華やかな格好をしておきましょうね、お嬢様」
桃まんじゅうをほわんと包む白い下衣を着せつけ、その上から薄い桃色の深衣を着せつける。帯もほとんど白に近い桃色で、下に着る裙は薄い水色だ。披帛は薄く白い透き通った布地に、薄い桃色で桃の花の刺繍が幾つもある。
「はぁぁぁん、まるで桃の精ですわぁぁぁん」
出来上がった姿をじっと凝視した水琴は、体をくねくねとよじりながら叫んだ。今日も絶好調である。
「あの……似合う……?」
胸がある雪香を、皇帝となった彼がどう思うか分からないが、できれば少しでも可愛いと思ってほしい。あの憎まれ口ばかりきいていた少年の目に、少しでも可愛らしく映って見せて、それ見たことかと桃まんじゅうを誇りたい。
「お似合いですとも! お嬢様以上にこの衣装がお似合いになる令嬢なんていらっしゃいませんとも! これで陛下も一目惚れ間違いなしでございますわぁぁっ!」
陛下が云々の下りは不敬だからやめてほしい。
「お嬢様、朝食の準備が整っております。……これはお美しい」
朝食のために呼びに来た黒が、扉の前で跪拝したままため息をついた。
「ほほほ、黒ったら正直ですこと!」
今にも高笑いをしそうなのは水琴である。我が事のように自慢げだ。
「あぁ……白の反応が予想できますね……」
遠い目をしてそう呟く黒に、不安しかない。今度暗殺されるのは雪香の方じゃないのだろうか。正体が鬼という存在に寝首を掻かれるかもしれないと日々過ごすなんて嫌だ。
と、思っていたのだが。
「っっっっっ!」
白は朝食の席に現れた雪香を見て硬直した。
「……白?」
いきなり殺気がだだ漏れになるかと覚悟していた雪香は、首を傾げた。
「――国の至宝……っっっ!」
「だよなぁ、あの胸」
悶える白の肩を軽く叩いて頷くのは通海である。彼らをじっと見つめていると、通海は面倒くさそうに口を開いた。
「白は胸に一家言ある者でございましてな。これまでお嬢様に不遜な態度でございましたのも、その天下の至宝を無碍に扱っておられたからなのです。ちなみに白は胸の大小というよりも、天然物を愛でる習性をしておりますのでな。どの胸も等しく尊重する気質でございますぞ」
「…………」
実際のところを聞いても、どう反応すべきか雪香にも分からない。それはありがとう、と言うべきなのだろうか。
「さぁお嬢様、食事が冷めてしまいますわ」
そしてそんな雪香に朝食を勧めてくる水琴は、きっと雪香に害さえなければ白や黒がどんな趣味嗜好だろうが関係ないのだろうな、と遠い目になった。
これまでと同じようにお粥と、それからこれまで敬遠していた肉類も口にする。蒸した鶏肉を噛めば、じゅわっとうま味が染みだして、生きていて良かったと心から思えた。摂食や胸を締めつける生活が終わってほっと安堵する一方、この後宮を去る日が近いことも実感する。
去れ、と命じられるのはきっと悲しい。けれど会えないまま無為な日々を過ごすよりも、前世の心残りを解消して新しい生を歩める方が、斗母元君のお心にも添うだろう。お心に添うとは即ち、仙女合格ということにならないだろうか。
「お嬢様、もう少し、いかがです?」
これまでよりも積極的に朝食を摂る雪香に、水琴のお代わりを問う声も弾んで聞こえる。
「いいえ、もうたくさんいただいたわ」
満足の吐息をつきつつ、口元を差し出された布で拭いた。
「では、いつ行幸があってもよいように、客間で書物などご覧になってはいかがです?」
「いや、庭園を散策なされては? 離宮に封じ込められた佳人が、庭園を散策中の皇帝陛下に見初められるなど、物語のようではございますまいか」
何やら文学的な己の発想に満足げな通海がそう言った。そしてその発想に感動する水琴。
「通海殿……っ、なんて素晴らしい発想なのでしょう! まさに! まさにお嬢様にぴったりの詩的な出会い……きっとこれは絵物語になりますわ……未来の国母がいかにして皇帝陛下と恋に落ちたかを後世に示す物語に……はぁぁん」
くねくねと身悶えする水琴。だがちょっと待ってほしい。皇帝が幼女趣味という話はどこにいったのだ。
「ちょっと待ってちょうだい。今日でこの後宮を去るかもしれないのに、あまり調子に乗っては……」
まぁ確かに水琴は身内だし、通海だって兄弟子であり知人の枠に入るだろう。彼の役鬼も知り合いの範疇に入れていいと思う。だから、思い上がった結果、後宮を出ることになっても、その恥を吹聴したりはしないと思うのだが、それにしてもやり過ぎはいただけない。
「大丈夫大丈夫」
通海がひらひらと手を振りながらそう言った。水琴の前でそんな気安い態度こそ大丈夫なのだろうか。
「いや、この桃まんじゅうは堕ちる」
きりっとした顔で言わないでほしい、白よ。
「お嬢様みたいな美女を振るっていうのがよく分かりませんね。そんな不可解な男はちょん切ってしまいましょう」
どこをちょん切るというのか、黒よ。
「ささ、あたしが日傘を差しますから、お嬢様は桃の花を愛でる精になりきりましょう? ね?」
だだっ子をなだめるような声で言わないでほしい。雪香がこの面々の中で唯一の常識人だと思うのに、その確信が揺らぐではないか。
「ねぇ、でも水琴……わたくし、後でがっかりしたくないのよ」
これはもしや翡翠の簪確定なのでは!? と思わせてからの簪無しとか、絶望以上の悲しさである。
「だぁいじょうぶですわ、お嬢様!」
なんの根拠もない『大丈夫』を口ずさみつつ、水琴はうきうきと外出の支度を始めた。
「……はぁ……」
胸がきゅぅぅ、と引き絞られ、腹の底から冷えていくような動悸がする。会いたい。会いたかった。でも、いざ去れと命じられた時、雪香は何を思うのだろうか。