囓られる
目を覚ますと離宮の寝台だった。寝台の紗幕を通して夕陽の赤い色が部屋を染めていた。
「……お嬢様?」
身じろぎした雪香に気づいたか、側に控えていたらしい水琴が声を掛けてきた。
一年後か、三年後か。
雪香は失神する前のことを鮮明に思い出した。
「…………」
一瞬、それもいいかと思った。というのも、それほど時間が経っていればお気に入りの妃嬪の一人や二人はいるだろうし、そうすれば皇帝が幸せでいるという確信を持てる。彼が幸福であるという確信を得ることが今生の目的なのだから――豊乳はもう叶えられたことだし――、それもいいかもしれない。
「…………?」
それに一年後はともかく三年後は雪香も十九歳である。後宮を出た後、嫁入りするあてはなくなるのではなかろうか。つまり、出家できる可能性が上がるということでは……?
「…………!」
だがしかし。そもそも三年というのも大監がそう言っているだけで、もしかしたら永遠にあてがないことかもしれない。ずっと年老いるまでこの後宮で過ごすことになるとしたら……いつ出家できるのだ!? 後宮から勝手に外出して道館で出家するなんてこと、できはしない。下手したら一族全てを巻き込む大罪になってしまうではないか。
「水琴、布を巻いてちょうだい!」
がばりと起き上がった雪香は凜々しく叫んだ。
「お、お嬢様!?」
「これまで、就寝時は解いていたのがいけなかったのよ。眠っている時もずっと巻いていれば、きっとそのうち完璧なつるぺたすっとんになるはずよ!」
寝ている時も起きている時も日常的にずっと布を巻いていれば、いつかはこの桃まんじゅうも胸板に同化するはずである。せっかくいただいた桃まんじゅうだが、出家できないかもしれないというこの非常時には切り捨てるしかないのだ。斗母元君ごめんなさい。
「あ、あたしは反対ですっ! もうこれ以上お嬢様に無理をしていただきたくないんです! 胸を締めつけているから倒れてしまわれたんでしょう? お好きなものさえ食べられず、これほどがりがりに痩せてしまわれて……もう、いいじゃないですか、お嬢様」
水琴は雪香の両手をそっと両手で包んだ。
「水琴……」
でも、凌風と再会すること、出家することは前世からの目的だったのだ。今さらそれを諦めるなんて――。
「もう、やっちゃいましょう? 大逆罪。あんな腐れ爺は世の害毒にしかなりません。あたしも今日面会してよぉく分かりました。あんなのポイしちゃいましょう? 通海にはあたしからよく言い聞かせて、一瞬で殺るように指導しておきますから」
「だ……」
雪香は呆然と口を開いた。まさか、そうくるとは。
「駄目よそんなの!」
「どうしてです? だって瑞雲と神獣がご生誕時に現れるようなお嬢様に対してあの言いぐさですよ? ……万死をもって償うべし……」
最後の言葉は低く呪詛に満ちていた。乳姉妹が怖い。
「水琴! ねぇ、落ち着いて? わたくしもちょっと真っ直ぐに請願し過ぎたと思うの。……そう、お父様にお願いしてもっと高額の賄賂を送りましょう? もっと搦め手で……そう、もっと穏便に済ませましょうよ」
渋る水琴に懇願する。もはや主従関係は逆転しているようなものだ。決定権は水琴にあった。……何故だ。
「でもお嬢様、寝ている時にまで締め上げるなんて……」
「ねぇお願いよ、水琴。もう一度だけ頑張らせて? これで駄目なら諦めるから……」
諦めるのはお妃選びである。断じて大逆罪の方ではない。
「……お嬢様……そんなに陛下と……。分かりました。あたしも協力します。でも約束なさってください。今回の挑戦で布はお終いですからね?」
「わ、分かったわ……!」
雪香は大人しく頷いた。
同様の攻防を通海ともこなし、ふらふらになりながら簡素な夕食を摂った雪香は、そのまま夜の散策に出た。癒やしがいる。武闘派の説得に疲れた心には癒やしを必要としていた。というか、ついに白と黒まで本性を露わにしないでほしい。あどけない童子のままでいてほしかった。なんだ、『巨乳好き爺め、終わったな……』とか。『一噛みで殺れますよ?』とか。殺るんじゃない。
あどけない童子の顔で殺気をだだ漏れにする彼らも怖ければ、そんな童子達の変貌に動じない水琴も怖かった。『頼もしいですわぁ』とか黒く笑う乳姉妹の変貌が一番怖いかもしれない。通海は……いつも通りだ。いつも通り『一瞬だし痛くない痛くない』の一点張りである。問題はそこじゃない。
いつもの四阿に座り、はぁぁ、と息を吐く。今夜は簫を持ってきていないため、手持ちぶさただ。満月に近い月を見上げ、再びため息をつく。一目でいいのだ。たった一目。それだけが、地上から月を見上げるように、遠い。
「――そなた、どうしたのだその胸は!?」
桃の薫りを運ぶ風を心地よく頬に受けていると、突然声が響いた。
「涼風様」
四阿の外から愕然とした様子で立ちすくむ少年に、雪香は笑いかける。
「ふふ、これなら平らな胸に見えますでしょう?」
少し胸を張ってみて、息苦しさに一瞬息を詰まらせた。
「な、何をしているのだそなたは! 苦しそうではないか。何故そんなことをしているのだ!? そなたの侍女は何をしているのだ!」
怒りも露わに歩み寄る涼風に、今度こそ雪香はにっこりと笑う。
「皇帝陛下がお好みのすっきりした体型になって、名簿に載るためですわ。もちろん、陛下とお会いする時にまでこの格好でいるつもりはございませんわよ? 陛下を騙したてまつろうとは、大逆罪にも等しい、恐ろしい罪ですもの。でも、名簿に載るためなら構いませんわよね?」
いたずらっぽく笑ってみせると、涼風はぐっと険しく眉をしかめた。
「どう考えても体に悪い。……だから腹を空かせていたのだな? 私が寄越す菓子をうまそうに平らげながらも悲しそうにしているから、不思議には思っていたのだ」
少年は怒った顔のまま、ぐい、と雪香の手を引っ張って立ち上がらせた。十三歳頃であろう少年の背は、十六歳の雪香とほとんど同じ背丈をしていて、目の高さがほぼ同じだった。その目に、真摯な怒りが浮かんでいる。
「涼風様、どうかお気になさらないでください。わたくしが好きでやっていることなのですから」
「気にするに決まっているだろう! それほど皇帝に会いたいならば手配するから、そなたはその格好を一刻も早くやめるのだ!」
雪香は驚いた。だが、涼風は皇甥である。この賢そうな少年ならばさぞ重く扱われてもいるだろう。そういえば夜の散策でも、彼を遠くから警護している様子の宦官達を見た覚えがある。中には将兵と思しき人影もあったから、さぞかし将来を有望視されているのだろう。
「……涼風様、お心遣いに感謝いたしますわ。でも、お立場に問題は……?」
一人のお妃候補に肩入れするなど、皇帝の養子を目指す涼風の立場が悪くなりはしないだろうか。誰かに迷惑をかけてまで叶えたいとは思わない……そんな自分だと、思いたくない。それぐらいなら諦めることだって、できる自分だと思いたい。あの悲しい少年の目を思い出して、雪香は俯いた。あの悲しさが拭い去られた瞳が見たかった。心から。
「問題など、あるわけがなかろう!」
涼風は未だ憤った顔のまま、雪香の手を引いた。怒った仕草だが、雪香がよろけたりしないよう、細心の注意を払っているような繊細な力加減を感じた。さらに心が曇る。こんなに優しい少年の未来を、傷つけたくはない。
「涼風様、本当に大丈夫なのです。もう少しわたくしが頑張ればいいだけで――あっ」
涼風は雪香の手をゆっくりと口元に持っていった。上目遣いに雪香を見つめたまま、近づいた指に向けて口を小さく開く。固く強ばったまま涼風を見つめる雪香の前で、薬指をかり、と噛んだ。体がびくん、と揺れる。痛みに、というよりも、驚きで体が震えた。
「ほら、そなたを私は傷つけたぞ。その詫びと思えばよい」
何事もなかったように手を握り直し、背を向けて離宮への道を、手を引いて進んでいく。
「――っ」
囓られた指が、握られた手が熱く感じて、雪香は戸惑った。一瞬だけ、涼風が大人の男性に感じた。そんなわけはないのに、雪香よりもずっと年上で、物慣れた男性に。