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蔡大監


 四阿からしょんぼり離宮に帰った雪香を、通海らが出迎えてくれた。


「なんだ、行く前よりもがっくりしているようだが……顔色はいいな。善きかな善きかな」

 うんうん頷いて満足そうな通海に、雪香の方が不満である。


「通海道士様、後宮に皇甥殿下がお住まいなのですか?」


「あぁ、幾人かいらっしゃるな。いずれもまだお若い。この白や黒と同じ年頃であろうか。なんだ、どなたかと出会ったのか?」

「はい。涼風様とおっしゃる方で……」


 雪香の言葉に、通海は『りょうふう、とな』と呟いてにんまりと笑った。


「それはもしや果王殿下ではあるまいか。なんだ瑞雪、陛下ではなく果王殿下に輿入れするか?」

「三歳も年下の方に嫁入りなどできません」


 いくら凌風に似ているといっても、本人ではない。雪香は凌風に会いたいのだ。会って、彼が幸せなのを確かめたい。確かめる前に三歳も年下の少年に嫁入りするつもりはない。


「年上女房も良いものだと思うがな。さて、夜更かしは美容の大敵であろう。早く休むがよい」

「はい」


 おかげさまで空腹は癒えた。癒えてしまった。今夜はよく眠れそうである。ずっしりと落ち込みながら雪香は、寝室に向かったのだった。





 それ以来、雪香の夜の散歩は恒例となった。というのも、涼風が頻繁に夜、例の四阿に現れるからだった。


「果王殿下のお年頃でこんなに夜更かししてもよろしいものでしょうか?」

 それとなく夜の散歩を窘めたのだが、


「果王殿下と呼ぶな。涼風と呼んでほしい」


 と反対に乞われる始末だった。いくら少年といえども、お妃選びに入宮した雪香である。夜の逢瀬はいかにも秘密めいていて心苦しい。浮気ではないが、なんだか浮気をしているような心持ちにもなってしまう。


「凌風様。このように陛下の妃嬪になるかもしれない者に、そう何度も会われるのは感心いたしません。もうこの四阿に参るのはやめにします」


 そう宣言もしたのだが、少年時代の凌風そっくりの顔で、

「そなたまで私を見捨てるのか」

 と言われてしまえば無碍にもできない。というか、見捨てるとか言わないでほしい。凌風に言われているような気分になってしまって、切なくなる。


 ということで、入宮してから一週間目の夜であった。


 胸の締め上げも順調で、涼風による妨害にも関わらず、体重は順調に落ち、僅かながら胸も萎んでいった。明日には大監に面会して、名簿に載せるよう乞うこともできるだろう。そうすれば凌風に会える。たった一度で終わるかもしれないけれど、それでさえ名家に転生しなければ叶わなかった望みだ。斗母元君にはいくらお礼を言っても足りないほどだった。


「雪香、何か奏でてくれ」


 出会ってから四日で涼風はずいぶんと雪香に懐いていた。初めは向かいに座っていたのが、今では隣に座って簫をせがむようになっていた。


「どの曲がよろしいですか?」

 問うと、

「長久楽」


 はにかんだ声が返ってきた。前世で、少年だった凌風に幸多かれと奏でた曲を、涼風も所望することが多かった。嬉しさと懐かしさ、切なさが胸を占める。


「かしこまりました、涼風様」


 簫を唇に当てる。曲に没頭するこの時間が、雪香にとっても何よりの気分転換ではあった。


 凌風にそっくりの少年の前で、凌風に吹いていた曲を吹いていると、時代を錯覚したような心持ちになる。憎まれ口の多い少年だった。そのくせ、雪香がその憎まれ口に心を痛めると、自分まで傷ついたような顔をする少年だった。人との距離の取り方が分からなかったのではないかと思い至ったのは、転生してからである。少年だった凌風の気遣いは分かりにくく、いたわりの言葉さえ素直には伝わらない不器用さがあった。


 一方で果王涼風は、どこか大人びている少年だった。雪香への気遣いを怠らず、そのくせ甘え上手。しかも雪香にお菓子を押しつけては意地悪そうに笑う。


 凌風に対しては苛立つことが多かった雪香だが、涼風にはいいように翻弄されているような心許なさがあった。不思議な少年だ、と思う。そして凌風と再会すれば雪香はこの後宮を去ることになるだろう。選ばれない娘は後宮を去る。それはこのお妃選びの決まり事だったし、雪香も決まり事を破ってまで居座りたいとは思わない。簪をいただいて――それがどんな簪だったとしても――出家するのだ。


 ――だから涼風との時間は、雪香の人生の中でも短いものになるだろう。


 そう思うと、何故だか胸が詰まるような思いもする。この少年に嫁ぎたいと思うわけではないが、凌風と同じように、どこか放っておけないような気分になってしまうのだ。


「――素晴らしかった」

 曲を終え、物思いに沈むままぼうっとしていると、涼風が穏やかに手を叩いて褒めてくれた。


「ありがとうございます」

 浮かぬ顔で礼を言えば、聡い少年は首を傾げた。


「どうしたのだ?」

 雪香は首を振った。


「いえ……明日、もしわたくしが名簿に載れば、涼風様とお別れする時期も早まるだろうと思いまして」

「何故? 陛下がそなたを見初めるかもしれないではないか」


 真っ直ぐな涼風の眼差しに、ふ、と笑みが零れる。


「まさか、そんな……お言葉さえ、いただけないかもしれませんのに……」


 皇帝が言葉を交わしたのは、これまでつるぺたすっとん令嬢しかいなかったと聞く。それは確かに、雪香が姿を偽れば言葉をいただけるかもしれないが、雪香は決めていた。皇帝には偽るまいと。桃まんじゅうがあろうがお尻が安産型だろうが、皇帝を偽って関心を乞うつもりはない。正直に言えば、声を聞きたい気持ちはある。けれど彼に対しては誠実でいたいと、前世の瑞雪の心が叫ぶのだ。寂しい目の少年に、誠実でありたいと。


「そなたは自信がなさすぎる」

 が、涼風の考えは違うらしい。真面目に、雪香が魅力的だと考えているらしい。


「ふふ、涼風様はお優しいのですね」


 少年の優しさに笑みが零れる。これまでつるぺたすっとんが好きだった皇帝が、雪香を目にした瞬間に嗜好を変える。そんな奇跡のようなことは信じていない。斗母元君は豊乳を与え、皇帝たる凌風の側近くにまで来ることができる家柄を与えてくださった。叶うならば翡翠の簪をいただいて、円満に出家したいものだが。


 ……あの少年だった彼に会えるだけ。それだけで、瑞雪だった頃の、心のつかえが取れるような気がしている。


「それにしても、名簿、か……」


 ふ、と洩らされた涼風の呟きは、桃林を渡る夜風にかき消されていった。






 そして翌日である。


 今日こそ大監と面会し、つるぺたすっとんであることを誇示して名簿に載せてもらうべく動き始める、佳き日である。


「あぅぅぅぅ、あたしの桃まんじゅうがぁぁぁぁっっっ」


 水琴の雄叫びは今日も絶好調だった。軽く息が止まるような衝撃とともに、胸が締めつけられる。浅い呼吸を繰り返して苦しさをやり過ごした後、雪香は居間に渡った。


「どう? これならつるぺたすっとんでしょう?」

 待機していた通海と白、黒らにそう告げれば、いずれもが苦い顔をした。


「はぁぁ、国宝が……」

「つるぺたすっとん舐めてんじゃねぇぞ……」

「やはり大監は処分すべきでは……」


 二番目の地を這う声の主に気づかないふりをする。まさかあんなに色白で可憐な童子がそんなこと言うわけないではないか。精神衛生、大事。あと、浅黒く健康的でこれまた可憐な童子から処分なんてきな臭い言葉が出てくるわけない。精神衛生、大事。


「今日までとあればしょうがありますまい。では大監に面会といきますかな」


 はぁぁ、と深いため息をついて通海が身を翻した。ぎゅうぎゅうに締めつけられた胸で後を追う。呼吸が苦しいのですぐに息が上がるが、その苦しさも今日までと思えば軽いものである。


 離宮から本宮まで休憩を挟むこと二回。ようやくたどり着いた紫の瓦の本宮は、皇帝の住む場所であるが、同時に正妻たる皇后や寵愛深い妃嬪の住まう場所でもあった。お妃選びに入宮した令嬢達の多くが滞在する場所でもある。


「……まぁ見て、あちらの方。見慣れない方ですこと。どちらのお家の方かしら?」


 大監への面会のために本宮に入った雪香を待っていたのは、そこかしこにたむろする令嬢達のひそひそ話だった。


「あら、ご存じないの? 陛下のお好みも知らずに入宮された汪家の方らしいわよ? あれほど名の知れたお家でも、そのような手落ちをなさるものね」


「最初に入宮された時よりもお胸が小さいわね? 布で巻いていらっしゃるのかしら? 無理をしてお可哀想なこと。ああまでしてもそこそこの大きさではなくて?」


 つるぺたすっとんに擬態できていると信じきっていた雪香は衝撃を受けた。あんなにあんなに頑張ったのに、まだ大きいという。白がああ言うはずである。


「無様ね」


 密やかに、しかしながら雪香の耳に届くよう交わされる会話に、不意に強い声が響いた。思わずそちらを見やると、一人の令嬢が強い目で雪香を見ていた。


「まぁ、花淑様ったら厳しいもののおっしゃりよう」

 周囲の令嬢達がなだめるように笑う。


「無様な方を無様と言って何が悪いの? ああまでして陛下の御意を得ようなんて、なんて権力欲の強い方なのかしら」

「――くっっっっっっそが」


 雪香の背後から、地を這うような声が洩れた。信じたくはないが水琴だろうか。花淑と呼ばれた令嬢に投げつけられた言葉が吹っ飛んで虹になるような衝撃である。いや、きっと気のせいだ。精神衛生、大事。


「ささ、お嬢様、こちらでございます」


 通海が大柄な体で令嬢達と雪香の間に立ち、姿を断ち切ってくれる。ほっと息を吐きながら通海の示す方向に歩を進めていく。さざ波のように広がる中傷は、もはや言葉として聞き取れなかった。


 そうして入った一室。


 まさしく豪華絢爛と形容されるに相応しい、煌びやかな部屋だった。


「蔡大監の自室でございます」


 通海にそう耳打ちされ、雪香は驚きに目を見張った。だがそう思って見れば、貴色たる紫だけはない。金銀青緑黄色、他の全ての色が使われる鮮やかな部屋だが、皇帝だけが使うことを許される紫色だけはない。紫を使えない分、よりいっそう多くの色を集めたと言わんばかりに目が眩むような鮮やかさだった。


 そこで待たされることしばし。きつく縛り上げた布のせいで気が遠くなり始め、それに気づいた水琴が背後で

「ぜっっっっったいぶっっっっころす……」

 とぶつぶつ呟き始め、さらに気が遠くなりかけた頃。


 ようやく蔡大監は現れた。


「本日はお時間をいただき光栄のいたりでございます」


 通海が大げさに跪拝し、大監の前に置かれた机に賄賂の絵画や壺を飾る。ちなみにそれらを賄賂のために持たせてくれたのは汪家の父で、ここまで運んだのは白と黒である。


「いやいや、お待たせしましたな」

 髭のないつるりとした顔に深い皺の刻まれた蔡大監は、賄賂を見て目を細めた。


「蔡大監にご挨拶申し上げます。こちらが汪家のご令嬢、雪香様でございます」

 雪香はそっと腰を屈めてお辞儀をした。


「おお、なんたる佳人でいらっしゃることか。わしも年甲斐もなく胸がときめきますなぁ」


 ほっほっほ、と口を窄め、雪香の体をじっくりと眺め回し、最終的に胸元に視線を固定して笑う大監に、反応に困った雪香はただ俯く。水琴のいるであろう背中がなんだかざわざわと寒気がするのだが、彼女の感情に連動しているわけではないと信じたい。


「それでは、名簿に――」


「いやそれは待たれよ。いかに我らの胸がときめこうが、陛下の琴線に触れるとは限りませぬ。それに入宮される令嬢方は数多くいらっしゃいまする。いつかはお召しがあると存じますが、さてそれが一年後になるか三年後になるか……」


「なっ」


 背後で水琴が呻く声が聞こえた気がしたが、雪香の体は限界だった。締め上げられ、浅い呼吸を繰り返しても誤魔化せない苦しさ。頭が真っ白になっていく。


「これほどの佳人に、そのような無為な時間を過ごしていただくのはいかにも無念。でありますれば……おや? どうなさいました?」


「――っ、お嬢様? お嬢様っ!」


 呼びかける水琴の声が遠くなり、雪香の意識は完全に閉ざされたのだった。






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