少年涼風
ふらふらと庭園をそぞろ歩き、桃が咲き誇るただ中にある四阿を発見する。ちょうど良い、とそこに座り、じっと簫を見下ろした。
簫は、一番得意な楽器だ。一番得意で、けれど苦手な楽器でもあった。
『そなた自身は小憎らしいが、簫の音は涼やかだな』
と目を細めた少年の姿を思い出すから。……思い返してみると、けっこうひどいことを言われていないだろうか。なんで気にかかるのだろう。あまりに不幸顔だったからだろうか。
『あぁ、そなたの簫を聞くと、大鴉のことも我が身の儚さも忘れてしまいそうだ』
悲しい、哀しいと訴えていた目が、その時だけ和らいだ。その目が嬉しくて見つめると、
『ちゃんと集中しろ』
と怒られた。偉そうで、寂しそうで、悲しそうな皇子。姉のように案じる気持ちは、どこまでも消えない。幸せなのが分かりさえすれば、きっとこの心の重さは晴れるだろうに。
雪香は簫を唇に当てた。あの悲しい少年が、目を和ませて聞き入っていた曲を吹き始める。今は遠く、後宮の本宮に座す彼を思って。
「――良い曲だった」
やがて、吹き終えた雪香に寄越されたのは、高い少年の声だった。
「――っ!?」
ぱっと簫から唇を離して見上げれば、四阿の向かいの席に少年が座っていた。あの少年だ。あの、悲しい目をしていた少年だ。
「りょうふう、様……?」
呆気にとられる。一瞬、時間が巻き戻ったのかとさえ思った。けれど布を解いたふくよかな桃まんじゅうの感触を思うに、これは豊乳な雪香の生きる時代である。今の凌風は二十九歳。あの時と同じ少年姿のはずがない。
「あぁ、知っているのか。いかにも我は涼風。皇帝陛下の甥だ」
「……陛下と同じ、お名前ですの……?」
「字が違う。涼しい風だ」
「まぁ……」
改めて雪香は涼風と名乗った少年を凝視した。本当にそっくりだ。おぼろ月の中では少年だった頃の皇帝凌風と、甥だという少年涼風はそっくり同じ人物にさえ見えた。
「見事な簫だった」
少年らしくない落ち着きで端然とそう言う涼風に、雪香は慌てて立ち上がり、頭を下げた。
「恐れ入ります、殿下」
「そなた、名はなんという」
頭を下げたまま答える。
「汪雪香と申します、殿下。この度のお妃選びに参りました」
ふうん、という声が頭上を震わせた。
「そういった令嬢達は本宮に滞在するのではないのか」
少年の言葉に、頭を下げたままの雪香は苦笑した。
「わたくしは陛下のお心に添わないだろうと判断されましたので、こちらに」
つるぺたすっとんじゃないからとはとても言えない。
「それほど美しいのに? おかしな話だ。他の令嬢達の嫉妬でも買ったのか?」
お世辞かもしれないが、涼風への好感度は倍増した。
「まだ他の方にお会いしたこともございませんもの。その、官吏の方がそのように判断された、と伝え聞いております」
大監が、というと悪口に聞こえるかもしれない。凌風の面影を濃く残す少年に、告げ口のようなことはしたくないと思えた。
「ずいぶんと見識の足りない官吏もいたものだ。……外すか」
ひやりとした声に、雪香の方が慌てる。だが頭は下げたままだ。どうなだめようかと考えていると、少年が少し気まずそうに声を掛けてきた。
「すまない、顔を上げてくれ。それに座って良い。私は皇甥にすぎないのだから」
「は、はぁ……」
涼風が皇甥にすぎないのならば、雪香こそ臣下の娘にすぎないのだが。洗練された返答ができず、まごつくまま頭を上げると、涼風が手で向かいの席を示した。座れ、ということだと思う。その意図に従って腰を下ろした。
「それにしても汪家とは名家だ。その令嬢をこんなみすぼらしい離宮に追いやるとは」
「いえ、あの……歴史だけが自慢の家ですので……」
汪家は古くから続く名家ではあるのだが、ここ数代、宮廷の要職に就いた者はいない。それでも名家の地位を保っていられたのは、そこそこに要領が良く、そこそこに野心もなく、そこそこに人が好かったからではないかと思っている。だからこそ名家という誉れはあれど、後宮の官吏に融通の利く権力はないのだが。
「何を言う。皇帝の正妃となるに相応しい家柄ではないか。この扱いに不満がないとなると……そなた、もしや妃選びに乗り気ではないのか?」
何故か少年の目に傷ついたような光が浮かんだ。それにつられて雪香も言い訳を口にしてしまう。
「あの、陛下に一目お目にかかればそれで良いのです。……陛下のご清栄ぶりをこの目で拝見することが叶いましたなら、それだけでもう」
凌風のつるぺたすっとん好きがどの程度なのかは分からないが、彼がもう、孤独な少年ではないと分かればそれでいい。ついでに翡翠の簪をいただいて、今生こそ斗母玄君の元で仙女になってみせるのだ。
「つまり、選ばれても妃になるつもりはないと……?」
そう尋ねる少年の声がどことなく沈んで暗いものに聞こえた気もしたが、それよりも雪香は選ばれるという言葉に頬を染めた。
「わ、わたくしのような者が選ばれるなど、そんな、恐れ多いですわ……っ」
頬を両手で押さえつつも、ぽやんと妄想が浮かぶ。拝謁した雪香を見て、彼女の手を取り妃宣下をなさる皇帝の図である。二十九歳の凌風の逞しさ、頼もしさを妄想すると胸が妙に疼いた。この感動だけでご飯が三杯は食べられる。おかずなんて要らない。
……おかず。ご飯。三杯。
雪香のお腹が、食事のことを思い出した。
――ぐぅぅぅ
「っっっ」
頬に当てていた両手を、慌てて腹部に持ってくる。ぎゅうぎゅうとお腹を押さえ、そっと涼風少年を見やると。
「くっ」
横を向き、口元を押さえて笑っていた。
「っち、違いますのっ! ちょっと諸事情がございますのっ!」
真っ赤な涙目になった雪香は叫んだ。
「陛下はすっきりした体型の女性がお好きと聞きましたの! だから食事を控えているだけですの! 決して食い意地が張っているわけでも、夕食が足りない大食らいでもございませんわっ!」
あえて摂食しているから出た音だと主張すると、意外なことに涼風は顔をしかめた。
「食事を控える? そんなに細いのに?」
雪香は自分の体を見下ろした。……まぁ腰つきは細い方かもしれない。腕も、見習い仙女だった頃とは違い、労働を知らないために細いと言えるだろう。だが問題は、胸とお尻である。
「だ、だって、この胸を減らさなければなりませんもの……!」
「減らす!? その胸を!?」
涙目で訴えれば、それ以上の大声で涼風が叫んだ。まるであり得ないとでもいうかのような反応である。
「はい、だって陛下は――」
「陛下のことはいい。食事制限などその細い体にも豊かな胸にも毒だ。ほら、これを食べなさい」
手に持っていた袋から少年が出してきたのは……月餅だった。
「…………」
「散策中の共として持参していたものだ。なんだ? 毒など入っていないぞ?」
涼風は月餅を半分に割り、自らの口に運びながらもう半分を差し出してきた。
「い、いえ、その……あまりに、勿体なくて……」
必死に目を逸らすが、少年はくすりと笑った。
「まさか皇族が下賜するものを、断るわけはあるまいな?」
明らかな脅しだった。高栄養食を雪香は泣きながら受けとった。
「…………」
半分に割れた中身には、干し胡桃や干し杏が入っているらしいでこぼこが見えた。
「さぁ、皇甥たる私が自ら毒味してやったのだ。まさか食べぬとは言うまいな?」
少年の笑いを含んだ声に、雪香は本気で泣きながら口を開け、囓った。じんわりと胡麻餡の滋味と胡桃の食感が伝わる。乳酪の濃厚なうま味が、『俺は高栄養食!』と高らかに叫んでいた。
「美味であろう?」
ふふ、と笑いを零しながらそう問うてくる少年に、雪香は泣きながら
「美味しゅうございます……」
と答えた。ものすごく美味しかった……。