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不在とは比べようもない


 朝食後、雪香は水琴の手を借りて胸に布を巻き始めた。


「うぅぅっ、お嬢様のふくよかなお胸が……なんておいたわしい……」

 きつく締めろと何度も言っているのに、最初の一巻きは必ず緩い。


「水琴、同情は不要よ。これも陛下にお会いするためですもの、もっときつく締めてちょうだい」


 大監に面会して名簿に載せてもらうまでは、胸を締めつけるしかないのだ。日々こうやって巻いて潰していけば、食事制限で減った体重と合わせてかなりつるぺたすっとんに近づけると思うのだ。


「あぁぁあたしの桃まんじゅうぅぅぅ……」


 さめざめと泣きながらも雪香の胸をきつく巻いていく。締めつけられたおかげで呼吸が浅くなるが、耐える。


『私を案じる者は誰もいない』


 大鴉を討つための弓矢を作るのが、雪香の仕事だった。そのための材料も、凌風は集めた。二人で作った、神々を救うための弓矢。だが、弦が弱かった。このままでは大鴉を傷つけることはできても、討ち滅ぼすことはできないのではないか。案じた雪香は考えた。仙女の髪を使えば、弦の強度は増すだろう。見習い仙女を一時だけ仙女に変える劇薬がある。それを使い、雪香の髪を使えば。


『必ず大鴉を討って戻ってくる。だから……待っていてほしい』


 凜々しい顔で出立した少年を見送り、薬の効き目が切れて倒れた目に飛び込んだ、打ち落とされる大鴉。


 彼は、やってのけた。


 もう彼は英雄だ。誰もが彼を褒め称えるだろう。顧みられたことがないと言っていた、彼の父も彼を喜んで出迎えるはず。孤独と哀しみに沈んでいた瞳が明るく輝くであろう未来を思い、笑って雪香は息絶えた。


 だから、このくらい。


 桃まんじゅうが多少潰れたぐらいで苦しいと泣いてはいられない。雪香は明るく輝く彼の瞳を見たい。見届けてから出家したい。どうせなら。


「さぁ、もっと締めて」

 浅くなる呼吸に耐え、雪香は笑った。


「あぁぁぁあたしの桃まんじゅうぅぅぅっっっ」

 ……乳姉妹の絶叫癖を治す薬はないものだろうか。





「お嬢様、お茶でございます」

「お嬢様、茶菓子でございます」

 二人並ぶ童子が揃って茶菓を差し出した。


「……白、お茶はいただくわ。黒、その太りそうな茶菓子は要らないわよ」

「そ、そんなぁ」


 項垂れる、浅黒い肌の童子。この白、黒というのは通海が召鬼法によって呼びだした役鬼である。本来の姿は皆目分からないが、見た目は十二、三の童子にしか見えない。ちなみに白の方は色白である。それ以外に両者を区別する方法はない。


「お嬢様、ほんの一口だけでもいかがです? 太りにくいよう、通海様が念を込めておいででしたよ?」

「余計に信用できないわ」


 雪香は毅然と断った。月餅に見える茶菓子が、見た目の素朴さとは裏腹に高栄養食ということはよく分かっている。雪香、騙されない。


「お嬢様……桃まんじゅうがぺったんこになってしまわれて、なんてお気の毒な……」

 隣でさめざめと泣いているのは水琴である。


「むしろこの平らかな胸をお喜びなさいな。どう? これならつるぺたすっとんに見えるのではない?」

「――つるぺたすっとんに泣いて謝れ」


 不意にぼそりと零された言葉にはっと向き直る。白から聞こえたような気がするが、当の白は雪香に見つめられてきょとんと首を傾げている。誰が先ほどの不穏な言葉を吐いたのか。雪香は己の胸を見下ろした。確かに多少……隠しきれない膨らみは見受けられるかもしれない。だが雪香の桃まんじゅうは柔らかいのだ。布で潰して延ばせば、体にぴっとり張りつく柔らかさを持っている。つまり、限りなくつるぺたすっとんに近いと思うのだ!


「お嬢様、真のつるぺたすっとんとは、そもそも膨らまないのです」

「な……っ!?」

 黒が穏やかな目で雪香を諭した。


「お嬢様の柔らかにこんもりとした膨らみには及びませんが、そこには何かが『確かにある』のです。何もない、不在とは比べようもありません」

「そ、そんな……っ」


 雪香はがくりと頽れた。こんなにお腹を空かして、胸を押しつぶしているのに殺生な。これ以上、どう減らせばいいのだ。そして過去の己の心が痛い。泣きそう。不在なんて言い方ひどい。


「……やはり斬首……」


 扉の向こうから通海の声が聞こえる。いや、いるからそこに。天からの啓示を装おうとしても、影が見えてるから。


「こ、こほん。いかに大監がつるぺたすっとん令嬢を集めていると言っても、つるぺたすっとん具合にだって個人差があると思うの。多少膨らんでいる令嬢だっているはず。桃まんじゅうでさえなければいいのよきっと」


 きりっと言い張りつつ、あともう少し痩せてから大監に面会を求めようと決意するのだった。






 その夜、雪香は空腹過ぎて眠れない己を持て余していた。日ごと空腹感は強まっている。なにか脂っこいものが食べたい。栄養がほしい。脂と肉。それに甘味。


 己の欲望を振り払いつつ、寝返りを打ってばかりの寝台から立ち上がった。そっと寝室の扉を開ける。続きの間には水琴が寝起きしているのだが、水琴は寝台に寝そべったまま動く気配を感じない。ほっと息を吐きつつ忍び出る。水琴の部屋を出た所が居間で、その隣が衣装部屋である。そこから上着を取り出して羽織った雪香は、沓を履いて居間の扉から庭園に出た。


 季節は春。冬を耐え抜いた命が輝く季節。その活気が空にまで伝わり、半月を朧に霞ませていた。


「いかがした、瑞雪?」

 不意に背中に落とされた声に、雪香は振り返った。


「通海道士様」

 夜半の微かな光の中、通海が立っていた。その両隣には白と黒。


「眠れないのか? 意地を張らずに食べれば良いのだ。人の生など儚いもの。その儚い生を過ごす短い期間を、楽しまずになんとする」


「だってお会いしたいんですもの。翡翠の簪をいただきたいのです」


 今だけだ。一目会えさえすれば、きっと満足する。そうすれば後は美食三昧してやるのだ。


「やれやれ。後宮といえど……いや、後宮だからこそ危険な場所もある。そこの庭園、この離宮が見える範囲から出るでないぞ」


「ありがとうございます、道士様」

 兄弟子の気遣いに笑って足を踏み出そうとすれば、通海が何かを投げて寄越した。


「ほれ、そなた得意であったろう?」


 寄越されたのは(たてぶえ)だった。前世の雪香が斗母元君に捧げる歌舞で担当していた楽器でもある。今生でも一番相性が良い楽器だ。


「…………」

「再会した記念だ。久方ぶりに何か聞かせておくれ」


 無為な散策を、楽しい気晴らしに変えようとしてくれる兄弟子に笑いが零れる。これで斬首とか言わなければ最高なのに。


「ありがとうございます」


 ふふ、と笑って足を踏み出す。それだけで少し空腹が紛れた気分だった。






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