大団円
ゆっくりと食事をしつつ、凌風は思い出すようにぽつりぽつりと語った。
「大鴉を討った後、神々に話しかけられて。だが別れた時の君の顔色が、悪かったように見えた。だから話を後回しにしてもらって、先に君の元に帰ったのだ。大鴉が落ち、日輪は力を取り戻した。燦々と降る陽光の下で、君の体は冷えきっていた」
「弓に張る弦に必要だったのです。仙女の髪が。でもわたくしはまだ見習い仙女に過ぎなくて、それで一時的に仙女になれる薬を使って、弦に張ったのです」
「劇薬だった」
「はい……」
ぽつり、ぽつりとあの時の痛みを、二人で共有するみたいな時間だった。
雪香にとって――瑞雪にとって、あれは必要なことだった。大鴉を討つために、世の中の人のために必要なことで、あの時、あの場所では雪香にしかできないことだった。それを雪香は喜びをもって受け入れたのだ。自分の命が役に立つ。それが、とても嬉しかった。自分を喪った誰かが悲しむとは、思っていなかったのだ。
「私はあの時、絶望した。何も伝えられていなかった。自分の心の一欠片さえ、言葉にできていなかった。それなのに、もう君に伝える術さえない。もし君が転生しても、もう瑞雪の記憶はないだろう。私の後悔は、ずっと終わらない。死んで、新しく生まれ直したいとも思った。君の隣に。……そうしたら北斗星君が、君を瑞雪の記憶を持ったまま輪廻に戻すと提案なさって。必ず私の側に連れてくるから、それをもって褒美としたいと交渉なさって」
それまで苦しげだった凌風の顔が、口元にうっすらと笑みを浮かべている。
「神々と交渉した者など、私が初めてだろうよ。神々に注文をつけたのも」
雪香は少しだけ反省した。あの生まれかわる時、斗母玄君に願ったのは豊乳たる桃まんじゅうのことだけで、言われなければ凌風のことは思い出しもしなかったのだ。いや、凌風も言っていたではないか。伝えていなかったと。だから伝わっていなくてもしょうがないのだ。ちょっと後ろめたいけど、でもそれは凌風の態度が悪かったのもいけなかったと思うのだ!
「待って待って、あの桃園で君の簫の音を聞いて、君にまた会えた。皇帝ではない振りで君と会うのも楽しい時間だったけれど、まさか君が妃になるつもりもなく、さらには私が幼女趣味であると勘違いしているとは思ってもみなかった」
「っごほっげほっ」
そこまで言われるとは思ってなかった! でも確かに皇甥果王と信じていたあの時には、色々と余計なことまで言っていたような気がする!
「仙女になるのは、もっと後でもよくはないか」
肘置きに腕を置き、その上に顎を乗せた凌風は上目遣いのようにして雪香の顔を斜め下から覗き込んだ。
「え……?」
「仙女になるのが夢だったのだろう? それは、人間としての役割を終えてからでも、よくはないか」
「……凌風様」
まさか、仙女になりたいという夢を、肯定的に認められるとは思わなかった。
「今すぐではなくても、いいだろう? 私の妃として、私の側にいてくれてもいいではないか。私が輪廻に還るのを見届けてからでも、いいのではないか?」
甘えるように、強請るように乞われる。少年だった凌風と、皇帝の凌風の姿がゆっくりと重なって、一つになる。これほど立派な美丈夫の中に、あの小憎たらしい少年がいる。それが分かって、雪香はふふ、と笑った。
「わたくしの方が、先立つかもしれませんのに」
「そうなったら出家はできないから、諦めてほしい」
「まぁ」
そこは意地でも認めないらしい。自分勝手でずるいのに、どうしてだかそんなところも可愛く見えてしまう。
「凌風様、一つお願いしたいことが、ございますの」
今まで、青年の凌風と少年だった頃の凌風が、どうしても重ならなかった。全く別人の、親しくもなければ見も知らぬ大人に見えていた。だから急激な変化に戸惑って、言いたいことも言えなかった。けれど、どちらの凌風も同じ人間なのだと感じた今は、ようやく口を開ける。
「なんだろう?」
「わたくし、前世でも今生でも、男性と親しく接したことがございませんの」
「そうでなければ発狂している」
大げさな言い方に苦笑して、言葉を続ける。
「ですから、慣れていないのです。凌風様とこのように……近い距離でお話しますことや、その、接しますことが。ですから、少しずつ慣れる時間をいただきたいのです。いきなり妃として相応しく過ごせとおっしゃっても、わたくしにはできかねますわ」
「十八年も待ったのに?」
拗ねている、とは思う。思うが、拗ねている目の色に、穏やかならない不穏な色も混ざっているような気がする。それどころか妙な色香が漂い始めているような気も。
「わ、わたくしには学ぶ時間が必要なのですわ……!」
思わず長椅子の端に逃げて、叫ぶように主張する。本当にいきなり生々しい展開とかやめてほしい。もう少し手前からゆっくり初めてほしいのだ。ほら、手を繋ぐとか。
「雪香が学習する頃には、私はすっかり老爺になっていると思うが」
「っそ、そんなにお待たせはいたしませんわ!」
そんなに何十年もかけてまで学ぶほど男女の仲は深いのだろうか。ちょろっと囓る程度でいいのだが。
「では一ヶ月でいいかな?」
「無理ですわよね!?」
一ヶ月で何を学べと。一ヶ月の学習で大人の階段に登れるものなのか。
「ならば半月」
「どうして縮むのか、理解に苦しみますわ!?」
やいやいと、もはや恋人同士のじゃれ合いに発展し始めた皇帝とその寵姫を見て、通海はふぅ、とため息をついた。邪魔にならぬよう、そっと退出するが、お互いに夢中な二人は通海の行動に気づいていないだろう。
すたすたと回廊を歩いていると、後ろから駆けよってくる気配が二つある。
「道士様」
「道士様」
役鬼の二人に向かって通海は頷くと、二人の姿は煙のように溶けて消え、代わりに通海の手の上に二枚の札がひらりと降ってきた。それを掴んで懐に入れ、後宮の庭に出た。すたすたと歩き、やがて桃園に出る。そこで新たな札を取りだし、ふっと吹く。それは大きな鏡に姿を変えた。
通海は鏡に向かって跪拝する。
『ご苦労だったな、通海よ』
鏡の向こうに映った姿は、一見すると皇帝によく似ていた。だがよくよく観察すると、皇帝よりも色白で、星々をかたどった服を身につけ、さらには威厳のある髭が生えていることで別人だと分かる。
「ようやく星君の契約が終わりましたな」
『母の協力があったゆえのことだな。そうでなければこうはならなかった』
北斗星君の母君である斗母玄君の協力がなければ、北斗星君が大鴉討伐の褒美を皇帝凌風に与えることは叶わなかっただろう。
「瑞雪が生まれた折に瑞雲やら聖獣やらで合図を出しましたのに、凌風坊主ときたら少しも気づかずに。一目ぐらい確かめに参ればいいものを」
通海は大鴉討伐時の凌風とも見知っている。ゆえにこの件に巻き込まれた被害者ともいえるのだが、彼は北斗星君の忠実な配下である。北斗星君の頼みを断れるはずもなかった。
『あの子は私に似ている。私の血を遠く受け継いでいるにも関わらずこれほど似ているから、母もあの子のために一肌脱ぐ気になったのだろう』
北斗星君は凌風の母の、遠い先祖である。神々の世界の見方でいえば、皇帝よりも凌風の母の方がずっと尊い血筋であるといえた。とはいえ、遠い子孫であるからには、その身に流れる神の血は薄いはずなのだが。
「瑞雪は未だに仙女になる夢を捨てておりませぬなぁ」
瑞雪が出家と騒ぎ始めたら、また一騒動ある気がしてしょうがない。
『母があの子に仙骨を授けなかったから、仙女になれる体ではないのだが。……そろそろあの娘も気づかないのものか。あれだけ執着されていて、それでそうやすやすと出家などできるはずもないと』
星君がため息をつきつつ言った。瑞雪が死んだと知った時の凌風と交渉していたのは星君である。つまり、何も伝えていなかった初恋の君を喪って半狂乱になっている凌風と話していた、たいそう貧乏くじを引いた神でもあるのだ。
「ずいぶん大変な思いをされたとか」
『本当に大変だったのだよ。今すぐ生き返らせろとか、それでは屍鬼になってしまうと伝えれば斬りかかられそうになるし。あのままでは大鴉の跡を継いだ大妖に変化していてもおかしくはなかったのだ。それをどうにかなだめて言いくるめて約束もして、現状の平穏を確保したのだ。いくら遠い子孫だからといって、この我に全て任せっきりにするなど、他神も情が薄いとは思わないか』
北斗星君の忠実なる部下の通海は、黙って何度目かの愚痴を拝聴した。たぶんあと数百年は愚痴を言い続けられると覚悟している。
『我がこれほど苦労して勝ち得た平穏だ。通海、そなたはあの二人がこのまますんなりと落ち着くと思うか』
通海は、このままの流れではこの先二人が熱愛関係になるまで宦官でいさせられると察した。案外そういう関係になるのは早いかもしれないが、もうこれ以上宦官に擬するのは嫌だ。もう女性と無縁の生活には飽きた。正確にいうと、女性の多い職場ではあるのだが、その女性から異性と認知されない存在でいるのがいやなのだ。
「そう心配なさらずとも大丈夫と存じまするが。というのも瑞雪は、自他共に認める箱入りです。これまでいかなる男とも親しくなったことはないと明言しておりますし、彼女の中ではそれが真実なのでしょう。が、それがしは前世から瑞雪とはそれなりに親しくしておりましたし、さらにいうならば妹分として可愛がってきてもおりました。それなのに男性の圏外なのですぞ。そんな瑞雪が凌風坊主には意識し過ぎというほど過敏になっております。……星君がお望みになる関係となるに、そう時間もかかりますまい」
別に妹分から恋い焦がれたいと思ったことはないが、男性と親しく接したことはないと言い切るのはどうかと思う。これでも瑞雪のいた玄君廟の、他の見習い仙女からはちやほやされていたし、なんならちょっと一歩踏み出した関係の者だっていたのに。
『兄は男ではない、という考えなのかもしれぬな。女好きのそなたにはいい薬になったのではないか』
「恐れながら、一般的な程度に過ぎぬと自覚しておりまする」
そんなに、病的なほど女好きなわけじゃない。
『そうであったか?』
星君の返事は、笑いを含んだものだった。大変遺憾である。
『それでは、大義であった。通海よ』
星君からこの一件が落着したことを宣言され、通海は完爾と笑った。
「ははっ」
妹分も弟分も幸せになれて大変めでたいことである。大人の階段を登る時期は任せるが、お互いの認識をすり合わせてくれればいうことはない。
大鴉を討った皇帝の御代はそれから長く続く。その広大な後宮には、たった一人の后が暮らしたという。
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