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妃宣下


 目を覚まして、恐る恐る目を開く。眠る――というか、失神する前の記憶を思い出していると、今横たわっているここがどこなのか、誰と一緒なのかとかが不安になるではないか。目が覚めて気づいたら大人の階段登っちゃってたなんてことはないと信じたい。ない、はず。


 うっすらと目を開きながら、手でまさぐって服の感触を確かめる。大丈夫。ちゃんと着てる。大人の階段なんて登ってない。


 部屋はどうやら桐美殿であるようだった。窓越しに洩れる光の赤さに、どうやら夕方らしいと推測する。

「――お嬢様、お目覚めですか?」

 馴染んだ声の主に今度こそ脱力して、安心しながら起き上がる。


「水琴」

 起き上がった雪香に水を渡し、水琴はにこやかに提案した。


「お嬢様、もうすぐ夜になりますので、支度いたしましょう」

「――っげほっごほっ」

 支度ってなんの支度なのか!


「いつ夜のお召しがあってもいいように、準備だけはいたしませんと。そうそう、夜には食事にいらっしゃると陛下が言い置いて公務に向かわれたので、夕食前に少し軽いものを召し上がりますか? 初心なお嬢様なら緊張して喉を通らないかもしれないと思いまして」


「……そうね……今でも現実感がないわ……」


 支度とか準備とかお召しとかいう、生々しい言葉に思考を放棄した雪香は、透明な眼差しで宙を見つめた。出家とか仙女とか、そういう話ってどうなってるんだろう。今さら出家したいんで簪くださいって言って聞き入れられるものなんだろうか。


「さぁ、では磨き上げましょうね!」


 いそいそと準備を始める水琴に、湯殿に連れていかれた雪香は心を無にした。これも修行である。精神修養というやつである。いかなる事態にも端然として相対するのが仙人、仙女としてあるべき姿である。こんな、湯浴みの一つや二つ……別になんの動揺もしていない。ないったらない。


 心を無にしたまま軽食をつまみ、これまた艶やかで胸元開き気味の嬬裙を身につけ、雪香は精神の遙かな高みに登ろうと、心を神々の世界に開いていた。端から見たら単に呆然と座っているようにしか見えない姿である。


「これだけ準備しておいてあれだけど、皇帝陛下の呪いって解けてるのか? 少年姿で夜伽ってあり得るのか?」

「できなくはないんじゃあ? 本気出せないだけで」


 呪いが解けてない、という白の言葉で正気に戻りかけた雪香は、続く黒のできなくはない発言で再び神々の世界へと精神を飛ばし始めた。


「して、妹弟子よ。陛下の呪いが解ける条件はうかがったのか?」

 そんな雪香の心を慮る風でもなく、通海は世間話でもするようなのんびりした口調で聞いてきた。


「ぇ……」

 豊乳仙女の空想をしていてぼやけていた雪香の目の焦点が、ゆっくりと合う。条件。


「再会したい方を、妃にすれば解ける、と……」


 怒濤の会話を、順を追って思い出してようやく、その条件に行きあった雪香は呟いた。再会したい人。それが瑞雪だったなんて、今でも信じがたい。ちょっと勘違いなんじゃないかなと、今でも思っている。だってあの凌風だ。寂しがり屋の毒舌家。年上だと言ったら、驚愕の視線が平たい胸に張りついていた、失礼な皇子。……やっぱり勘違いのような気がしてきた。


「それならば、妃宣下をされれば終わるわけであるな」

「っ!?」


 ちょっと待って。そんな簡単に解けそうなこと言わないでほしい。この空回りだと思われた準備が実は最適だったなんて、そんな可能性を示唆されたくはない!


 許容量を遥かに超え、現時点でさらに進行中の呪いに、再び宙をさまよい始めた雪香の視線だが、ふと物音に気づいた。皇帝が来訪するときのような、静かな緊迫感を孕んだ物音ではない。もっと混乱に満ちて、賑やかな物音だ。それが桐美殿に近づいてくる。


「……あれは?」

 お互いに訝しげな顔になり、通海が小監として表に出ていく。それを見送る間もなく、高らかな声が訪問を告げた。皇太后の。


「皇太后様のお成りゆえ、通されよ!」

 通海にそう告げる、宦官の声が聞こえる。つまりは、もうそこまで皇太后が来ているということではなかろうか。


「いったい、どのようなご用事が……?」


 雪香が廟山に行った件について、凌風は全て把握している様子だった。だがその件で皇太后が何か処罰を受けたという話は聞いていない。そう簡単には処罰できないのが、皇太后という高い身分なのだ。雪香も、己に原因のあることだと思うから、皇太后を弾劾しようとも思わないし。


 居間の扉が開き、皇太后の来訪を察した雪香は、椅子から降りて跪拝する。


「皇太后陛下にご挨拶申し上げます」

「許す。……汪家の雪香よ。陛下からの贈りものじゃ」


 皇太后は長ったらしい挨拶を交わすこともなく、雪香に向かって簪をさし出した。翡翠の簪である。


「陛下からの……?」


 凌風から、翡翠の簪が贈られた。ということは、つまり、当初の予定の最善なる結果が得られたということでは。


「お待ちください。それは本当に陛下からの賜りものでしょうか? 翡翠の簪をくださるということは、陛下はお嬢様を妃たり得る存在とは認めず、実家に帰ることを許すというご意志をくだされたということになりますが」


 そうである。翡翠の簪を皇帝から下賜されるということは、帰っていいよという意思表示に他ならない。絶体絶命な雪香にとっては渡りに舟だし、むしろ受け取りたくてしょうがないのだが、水琴や通海らが受け取らせてくれない気配が濃厚である。あと、うっかり受け取った後、なんで騙されたのだと怒る凌風を想像すると、そっちの方が絶体絶命な気もしている。


「では言い直そう。わらわからの贈り物じゃ。良いか、簪の下賜は皇帝だけではなく、皇太后から下す場合もあるのじゃ。わらわはそなたが妃になることなど認めぬ。が、瑪瑙や真珠を贈るほどでもないとは認めてやろう。汪家も翡翠の簪が下賜されたとなれば、そなたを喜んで受け入れるに違いない。それを持ってとくこの後宮より去れ」


「まぁ……」


 皇太后から受け取った侍女が、同じく跪いて雪香に簪をさし出す。そういうことならば、と雪香がそれに手を伸ばした瞬間。


「面白い趣向だな、皇太后よ」


 少年の固い、それはそれは固い声がその場に響いて、雪香は固まった。伸ばしかけた手をさり気なく引っ込めながら、皇帝に対する跪拝の礼を取る。が、誤魔化されてくれない気配がしている気がする。気のせいかもしれない。きっと気のせいである。


「まぁ、やはり呪いは解けておられぬ様子。やはり皇太子をきちんと定められませんと、ねぇ」

「私の許可なく、寵姫に簪を下賜しようなどやめていただきたい」


「そうは申しましても、陛下。未だに陛下の呪いは解けぬ様子。そのお姿では、子を成せるはずもなし。未来のあるうら若き娘を、無為に後宮の留め置くことなど、同じ女であるわらわには、忍びなくてとてもできはしませぬなぁ」


 皇帝と皇太后のやり取りを、雪香ははらはらとして見守る。心情的には皇太后に頑張ってもらいたい。いきなり大人の階段を登らされそうな身としては、本気で応援したい。展開が早すぎてついて行けないのだ。


「そうか。呪いを解けば、皇太后の愁いも晴れるわけだな」


 だが、どう見ても皇太后の敗色は濃厚である。呪いが解ける条件を、皇太后が知らないらしいのだから、致し方ない結果ともいえた。


「雪香。そなた、私と約束したな。親切にしたお返しに、私の願いをなんでも一つ、叶えてくれる、と」


 不意に凌風から話しかけられ、雪香は固まった。そんな約束、これっぽっちも覚えていないと主張したかった。あれは皇甥である果王涼風とした約束である。少年の姿に変わった、皇帝本人とした約束ではないのだ!


「わ、わたくし、あれは果王殿下としました約束で……っ」

 雪香は頑張った。大人の階段を登らないですむ方法を模索するため、必死に抗った。


「果王涼風は、私のもう一つの名だ。少年姿の私が後宮を歩くことを訝しく思われないための、あだ名のようなものだ。音が同じだろう? 私の名と」

 が、凌風は涼しい顔で雪香の抵抗を封じ込めた。


「で、ですがっ」

「私自身とした約束に違いはない。叶えてくれると約束したあれは、嘘だったのか」


 嘘だったのか、と言いながらも、嘘だったと言い逃れしても許してもらえなさそうなほど、見下ろしてくる視線の圧力が強い。


「う、うそ……」

 ぎゅっと目を閉じて、嘘だと言い張ろうとした雪香に、凌風が近づいて同じように体を屈めてくる。


「これほどの大事で、嘘をつこうとする人間が、果たして仙女になれるものだろうか」

 そう身近で囁かれ、涙ぐんだ目で睨めば、いっそ晴れがましい微笑が降ってきた。


「……約束、いたしました……」

 大いなる敗北感とともに、項垂れる。


 ははっと笑った姿は、少年だからよりいっそう、瑞雪に意地悪を言っていた凌風と姿が重なる。そう、彼はこういう風に、頭のいい少年だった。ああ言ってもこう言い返すという、どう頑張っても雪香では口で勝てない少年だった。あの時勝てたのが他にあるかといえば、背の高さでさえ彼の方が少しだけ高かったので、何もなかったのだが。


「では、私が妃に任じても、断るまいな?」

 断りたい。それは無理、と必死に目で訴えるのに、少年はとろりと蕩けたような目で囁いた。


「私の呪いを、解いてくれるのだろう?」

 妃以外の解き方が良かった! もっと違うことならば考えても良かったのに、このままだと大人の階段一直線である。


「陛下、無理強いはお止めになるべきじゃ。嫌なら嫌と言うがよい、汪家の雪香よ」


 不穏な気配を感じたのだろう。皇太后が近寄ってきて、皇帝に抗議してくれる。もう雪香の味方は彼女しかいない。まだ大人の階段登りたくない!


「寵愛する娘を妃に任じて、何が悪いと言う。あれだけ皇太后に縁の娘は妃にせよとうるさかったくせに」

 はっと嗤う凌風に、皇太后はわなわなと震えた。


「下女の血を受けた、下賤な皇帝にわらわの高貴な血筋を混ぜてやろうと思うただけじゃ!」

「高貴というならば、汪家の血でも構わぬだろう。むしろあなたの家柄よりも、汪家は古い名門だ。あなたの血縁など敵わぬほど、彼女は高貴な血筋を誇っているのでは?」


「っ、戯れ言をっ!」

「私は大鴉を討つという功績により、皇帝となった。神々がそう嘉されたのだ。それを貶めることは、即ち神々の祝福を穢そうとするに等しい」


 皇太后を見つめる凌風の目は、険しい。母を、皇太后によって殺され、虐げられて育てられたと言っていた凌風。皇子の誰もが大鴉を恐れて宮殿にこもっていたあの頃、一人だけ民のために宮殿から飛び出て、魔物を討つために辛苦をなめた少年。


 意地悪な思い出ばかり覚えていたが、彼が大鴉を討つためにどれだけ努力をしていたか、思い出した。最初は弓を引くのも苦労するほど華奢な腕だったのに、大鴉の眷属を幾つも屠るうちに、その体は逞しくなっていった。最初は雪香の方が強かったのに、あっという間に抜かれた。それは彼が、必死に努力した成果だった。守りたいのだと言って、前を向いて戦う少年の心に、その守りたいと思う対象に、雪香はいた、のかもしれない。素直になれなくて、優しくはなかったけれど、彼は雪香らも守るつもりで頑張っていてくれたのかも、しれない。


「……陛下」

 言い合う二人に、そっと口を挟む。


 意地悪だし、今でも意地悪なのはなおっていないと思う。雪香は今でもやっぱり仙女になりたくて、いきなり大人の階段を登るなんてやっぱり覚悟はできない。けれど、彼がいつまでも呪われたままでいるのは、やっぱりおかしい。彼には、褒美を受け取る権利がある。幸せになる、権利がある。


「妃にとお望みくださるのなら、拝命いたしますわ」

 それにいつか、仙女になれないとも限らない。夢が絶たれるわけではないのだから、他ならない凌風のために、人生の時間を分けてあげるというのは、それほど悪いことには思えなかった。


 拝命する、と雪香が言って頭を下げて、そこで光がさした。灯りをかき消す眩い光が居間に広がり、跪拝のために前に出していた両手で、目を覆って耐える。光は数瞬続き、それから徐々に薄まって消えていった。


「――凌風様……」

 眩んだ目を何度も瞬いて、それから凌風を見る。白銀の髪は黒に戻り、皇帝の正装を纏った青年が、そこには立っていた。


「あぁぁぁ、なんということじゃ……!」


 それを見て取るなり、皇太后が悲鳴を上げて頽れた。彼女の野望が潰えたのだと、その姿を見ただけでそうと分かる姿だった。


 皇帝の呪いが解けたことを喜ぶ直属の宦官達とは別に、皇太后に仕える者達は皇帝の姿を見るなり、静かに、しかし争うように逃げ出していった。打ちひしがれる皇太后に寄り添うのは、ほんの数人の侍女や宦官のみ。その彼らも、怯えたように皇帝を見つめていた。


「皇太后。長らくそなたの好きにさせていた後宮を、返してもらうぞ」

 少年のそれとは違う、低く鋭い声がうずくまる皇太后にかけられる。


「我が母がそうであったように、雪香までそなたの毒牙にはかけさせぬ。離宮を用意するゆえ、これから先の生涯をそこで過ごすように。先帝から頼まれた義理も、これまでだ」

「……おのれ……下賤な者が、玉座になど……っ」


「そなたのその野望のせいで、息子を死なせたとなぜ分からぬ。そなたがあのように育てなければ、兄はああはならなかった。まだ優しい所もある皇子だったのに」

「あの子は! そなたが殺したのであろうが!」


「違う。そなたの願いを聞き届けられぬと、絶望したのだ。反旗を翻すほどの胆力もなく、ただ平穏に余生を暮らしたかった兄を追い詰めたのはそなたの方だ。だから兄は毒杯を乞うた。止めても、泣きながら乞うたのだ。そなたの期待に応えられぬ。我が子を巻き込みたくないゆえ、死なせてくれ、と」

「違う!」


 皇太后は喉から血が出るような声で絶叫した。違う、違うと絶叫は何度も続いた。


「……確かに、今さら認められまいな。皇太后を、離宮に。永の蟄居とする。連れて行け」

 凌風の声で、宦官達が動き始める。皇太后は壊れたように何度も違う、と呟きながら、引きずられるようにして連れられていった。


 それを跪拝の姿勢のまま見送った雪香は、切なさに目を伏せた。憐れだと思う。元大監に感じた憐れみを、彼女にも感じる。皇太后には特に、それほど困ったことをされていないからなおさらだった。


「疲れたろう、雪香」


 そんな雪香を、穏やかな声に変わった凌風が、両手を握って立たせてくれる。跪拝していた時間が長かったので、膝が痛くて少しよろめいた。それを案じたのか、長椅子に並んで座らせられる。


 と、雪香の、というよりは皇帝の前に水琴や通海、それに皇帝に仕える宦官らが跪き、声を揃えてお辞儀をした。


「皇帝陛下にお祝い申し上げます。健やかなるご回復に、心よりお慶び申し上げます」

「あぁ、心配をかけた。だがもう呪いは解けた。案ずることはない。これからは私に仕えるのと同様の忠誠をもって、雪香にも仕えるように」

「御意」


 一斉にずらりと平伏した宦官らが、今度は雪香に対しても同じように頭を下げてくる。


「雪香、何か言ってやってはどうか」


 にこやかに促してくる凌風に、驚愕の目を向ける。いきなり何段も段階を飛ばしたようなことを言わないでほしい。皇帝と同様の忠誠を受けるって、まるで雪香が皇后になるみたいではないか。妃を拝命しただけのはずなのに、だ。……このままではなし崩しに押し通される。何だかよく分からない、本能的な危機感を覚えた雪香は、緊張で震えながらも頑張った。


「妃として、よしなに頼みます」

 妃だから。いやでもそれもちょっと早いと思うんだけど、とにかくまだ妃だから!


「もったいないお言葉、胸に刻みます」


 と一同に応えられ、とりあえず逃げ切った達成感に息を吐く。何から逃げ切ったのか、その正体を目にしたくはない。


「それにしても、こうなるのはもう少し先だと思っていたのだが、こればかりは皇太后に感謝すべきなのかもしれんな」


 くすっと笑う気配を感じて、雪香は水琴に目配せした。だって皇帝はここに夕食を食べに来たはずである。きっと空腹なはずであるのだ。食事をしよう! そして諸々の話を少しでも後回しにしよう!


「陛下、まずはお食事はいかがでしょう」

 凌風と目を合わせないように、薄笑いを浮かべながら顎の辺りを見つめる。


「ふぅん?」

 意味深な響きに、背筋に汗をかきながら耐えていると、不意にふっと凌風が微笑った。


「それほど心配しなくとも、頭から囓ったりはしないが?」

「お食事に! しましょう!?」


 ほとんど睨むようにしてそう叫ぶと、何故か凌風は嬉しげに笑った。意味が分からない。


「そうだな、食事を。話したいこともある」

 付け加えられた言葉に胃を痛めながら、それでも後回しになった諸々に安堵する雪香だった。






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