瑞雪
廟山を出た頃に日が昇り、通海は馬車を雲の上にまで上げてから空を飛行させた。後宮の近くの丘に密かに降りて馬を鳥から戻し、それから後宮の門まで馬車を走らせた。そうなってもまだ朝靄が晴れきってはいない、早朝のことだったのだが。
「お戻りでございますか、桐美殿の御方」
門に、凌風直属の宦官が立っていた。しかもその後ろに、衛兵らしき兵士達が並んでいる。その視線は通海らに向き、捕縛する気満々の様子だった。
「これは……」
「後宮を無断でお出になることは禁じられております。お分かりですか。陛下はいたくお怒りでございます。処分はおって言い渡すゆえ、正寝殿にて謹慎せよとのお言いつけでございます」
「え……?」
謹慎というならば、桐美殿とか冷宮とかなのでは? 首を傾げる雪香の耳に、通海の呟きが降ってきた。
「……ついに可愛い妹分も大人の階段を登ってしまうのかのぉ……」
「え!?」
どういうことなのか、小一時間問いただしたい。が、宦官がそんな余裕を与えてくれるはずもなかった。
「通海殿は桐美殿で謹慎なさるよう、陛下からのお言いつけです。寵姫様を無断で随伴したことは貴殿の口からくれぐれももよく言い訳をできるよう、練習なさるべきかと」
皇帝直属の宦官からさえ、どこか丁寧に扱われる通海に対して、問答無用で正寝殿に連れられる雪香。おかしいな、立場上自分の方が上のはずなのにな、と訝しむ間もなく連れられた正寝殿で、まず侍女から湯殿に連れられてあられもなく全身洗われ、美しく装われるのは百歩譲っていいとして、その装いが露出度高めのものにされて、通海が言っていた大人の階段と、皇帝と寵姫の間に起こりうる大人の関係がようやく結びついた雪香はざっと血の気が引いた。ま、まだ早い! っていうか、まだ仙女になるの諦めてない!
事態の急変に、正寝殿から抜け出そうとほんの少し試しただけで侍女や宦官から警戒の眼差しで見つめられ、ついに雪香は泣き出しそうになった。呪いを解こうとしただけである。それなのに処刑とかじゃなくってそういう方向に進むと、いったい誰が思うだろう? そりゃ確かに凌風の呪いが解けたかどうか確かめたい。が、自分の体をもって確かめたいとはこれっぽっちも思っていないのだ! せめて覚悟を決める時間がほしい。
「雪香様、もうすぐ陛下がお出でです。……老婆心ながら申し上げますけれど、怒った恋人をなだめるには大人の階段を登るしか他にないと存じますのよ。閨で甘えれば、きっと陛下のお心もなだめられるかと存じます」
年配の侍女が心から親切そうな顔で、そう雪香に助言してくれる。全力で親切なのが分かるだけに、それしかないのかと混乱はよりいっそう大きくなった。少女時代と今日でお別れなんて、そんな展開いきなり過ぎてついていけない……!
混乱する雪香には無情なまでに時は素早く過ぎ、昼前になって朝議を終えてきた皇帝は、部屋から侍女や宦官を遠ざける人払いをして、雪香の前に腰掛けた。……恐る恐る顔色を見た感じ、いつもと変わらない穏やかな表情に見える。特に劣情を露わにしているわけでもなければ、怒りをはっきりと浮かべているわけでもない。ある意味それはそれで怖いものがあったが、それでもはっきりと分かる異常がないということは、雪香にとっては安心材料にも思えた。
「雪香。私は怒っている」
「……っ!」
怒っていた! 穏やかそうに見えるのに、怒っていたことに、雪香は二重の意味で衝撃を受けた。ちょっと胸元が開きすぎに見える上衣も、ちょっと裾が短すぎるんじゃないかと思える裙も、二重の意味で痛い。
「どうして私に相談してくれなかったのだ、皇太后のことを」
怒っていると言いつつも穏やかな声で皇太后のことを言及され、雪香はそれに少し驚いて凌風を見つめた。
「……ご存じ、だったのですか……?」
「あの女があなたに私の呪いを暴露したことか? もちろん知っている。この後宮は私の物だ。私が把握していないことなど、何もない」
ひぃっと悲鳴を上げかけて、かろうじて雪香は飲み込んだ。
「わ、わたくし、呪いをどうにかできないかと、そう思ったのですわ……!」
もう言い訳するしかない。背中で黙って語るなんてそんな余裕はどこにもない。
「それはそうなのだろうが。だがあなたは通海には相談したくせに、私にはなんの相談もしてくれなかったではないか。果王の姿で二晩も一緒にいたのに、少しも相談してくれなかった。その上、黙って後宮を抜け出して。……私が心配しないと、思ったのか? 通海が任せろと押し通して、それがどれだけ口惜しかったか、あなたには分かるだろうか」
「……陛下……」
怒っている、のは怒っているのだろうと思う。だがその口調には、怒っているよりも拗ねている、という響きの方が強いように感じた。
「それに大鴉を焼いたところで私の呪いが解けないことなど、通海は知っているのだ。それなのにあんな危険な場所にそなたを連れて行って……そなたも通海のことは信頼してついて行くし。私がどれだけ心配して、夜も眠れなかったか、全く想像もしていなかったのだろう?」
ぎゅっと両手を取られて、凌風の両手で包み込むように握られた。指先にだけきゅっと力の籠もった手が、逆に凌風の切なさを伝えているようで狼狽える。
……いや、それはそれとして、今凌風は重要なことを言っていなかっただろうか。大鴉を焼いても、呪いは消えない……?
「の、呪いは、消えません、の……?」
それでは皇帝の劉家が神々に大鴉退治の証とするための首級は、無意味に燃えてしまったということにならないだろうか。
「私が案じていたという気持ちは、通じているだろうか」
雪香の疑問に、凌風は微笑みながらやや低い声で答えた。背筋に氷が当てられたような危機感に、雪香はがくがくと頷く。
「っも、もちろん通じておりますわ……っ!」
ここで怪訝な顔をしてしまったら、人生が終わりそうな気配を如実に感じている。人生まだ終わってない! 仙女になれるかどうか、無事に出家できるかどうかは非常に不透明な先行きになっているが、それでも人生はまだ終わってないのだ!
「それは良かった」
にこり、と微笑む凌風の、そのどこか意地悪げな表情に怯えつつ、雪香はあれ、と思った。この意地悪な顔は、見覚えがある。ずっとずっと昔のことだ。
「私が大鴉を討ったことは知っているだろう? その褒賞に、と神々が願いをなんでも叶えてくださるとおっしゃった。その折に大鴉の呪いも解こうと。だが私にはどうしても再会したい人がいて。その彼女に会えないならば、大鴉の呪いなどどうでも良いと言い張ったのだ。ならば私がその人と再会して、その人を妃にできれば呪いは解けるようにと神々が取りはからってくださった。だから解くのは簡単なのだ。あんな山に行かずとも」
再会したい人、という言葉に、凌風の初恋の人を思い出した。恐らく凌風が月餅好きになった原因を作った少女。
「それでは、その方を妃になされば……?」
少しだけ。雪香の胸が痛んだ。もう亡くなって、凌風がぜひとも再会したいとまで願う少女のことを思い浮かべて、それほどまでに誰かから求められる少女のことを思って、雪香の胸がちくんと痛んだ。羨望かもしれなかったし、嫉妬なのかもしれなかった。そんな自分が情けなくって、自然に視線は膝に落ちた。
「妃になればいいと思う? その人が、私の妃になれば、と?」
凌風の顔は見えない。見る勇気もない。だが声が、低いのにとろりと甘い蜜のように蕩けて響いた。その少女を思っての声なのか、と思うと、ますます雪香の首は項垂れていく。
「それは、はい。そうなれば、何よりかと」
「君のことだ、瑞雪」
最初、その言葉の意味が分からなかった。何かと聞き間違えたのかと頭で何度も繰り返し、そしてとても都合のいい言葉に聞こえたような気がして、その誘惑を退けつつ、どうして都合のいい言葉に聞こえたのか、己の心を探ろうとして躊躇する。
「瑞雪。顔を上げて。君をずっと待っていた。神々が君を生まれかわらせてくれるという言葉だけを信じて、ずっと待っていた。一目見て分かる自信がないから、君だという可能性がある少女には幾人も声をかけて、その度に失望して。でももしかしたら君だったのに気づかなかったのではないかと思うと、心が凍るような気持ちでいて。……だがようやく君と再会できた。すぐに君だと分かって、私は私の心をようやく信じられた。姿形は違うのに、君だと分かった。それがとても嬉しかったのだよ。……瑞雪、顔を上げておくれ」
聞き間違いとかそういう状況を遥かに超えた、熱烈に甘く感じる言葉の羅列に、逆に雪香は顔を上げられなくなってしまう。
「……ぅ、うそ……」
そう、それに凌風の初恋が瑞雪だったなんて、それはちょっとあり得ないと思う。だって初恋ということはもっと甘酸っぱい関係でないと成り立たないと思うのだ。それなのに凌風が雪香に――瑞雪に対して取ってきた態度なんて、本当に小憎たらしくて意地悪ばっかりで、とてもそうとは思えない。
「あの頃の私は、女性というものに対して不信感でいっぱいだったから。一見お人良しで優しそうに見える君の本性をどうにか暴いてやろうと苦労したものだ。結局分かったのは、君は底抜けに親切で優しい善人だったということだけだった。君の隣にいたいと思ったのだ。君はすぐに悪者に騙されてひどい目に遭いそうだったから、私が守ってやらないと、と思ってね」
「ひ、ひどっ」
意地悪な物言いが誰のものかはっきり分かった。少年だった凌風のものだ。いつも瑞雪に底意地の悪いことを言ってからかって、瑞雪が怒るのを楽しそうな顔をして見ていた。あれが初恋とかちょっとやめてほしい。初恋という単語に対して失礼だと思う。
凌風は抗議のために顔を上げた雪香の顎を指先で捉えて固定する。雪香の目と凌風の目が、至近距離で見つめ合う。
「そう思っていたのに、どうにか大鴉を倒して君の元に戻れば、君はもう……。私がどれだけ嘆いたか、全く分かっていないだろう? 私がどれだけ悲しんだか、君は想像さえしていなかったのだろう」
じっと、じっと雪香の目を覗き込んでいる凌風の目が、今度こそ怒りを露わに雪香を見つめている。その怒りの中に、悲しさを見つけた気がして雪香の目が潤む。
「だ、だってあなたは……あなたはわたくしのことなんて大っ嫌いだったのだと思って……」
「嫌いになろうとして、どうしたって無理だった。どう頑張っても恋に落ちていた」
怒りに似た強さが、凌風の瞳に満ちる。国母国母と踊り狂う父と、大人の階段登っちゃえと歌う兄弟子が脳裏で手を取り合ってくるくる回っている。
「――……もうむりぃ」
明らかに頭脳の処理能力を超えていた。のぼせて目が回ったような雪香に凌風はしょうがなさそうなため息をついて、ではこれだけ、とでも言いたげに抱きしめた。その固い感触に目が回る以上の混乱を覚えて、ついに雪香の意識は落ちていったのだった。




