呪い
雪香は考えた。それはもう考えた。通海に相談してみようと思いもした。だが彼は本当の宦官ではない。彼が凌風に忠誠を誓う筋合いはないのだ。彼の主人は北斗星君のみ。北斗星君の意に添わぬ行動はしないだろう。今は何故だか雪香の味方をしてくれている通海だが、これから先ずっとそうだとは限らない。水琴はそもそも話さえ聞かずに断りそうだ。
とりあえず安全策として、水琴や通海には皇太后宮にまでついてきてもらう。だが人払いすることになったら――必ずそうなるだろうが――二人にも出てもらう。それでいいのではなかろうか。
そう考えた雪香は、翌朝皇太后宮を訪れることに決めた。
「よう参ったの」
翌朝、渋る水琴らに皇太后宮への案内をさせた雪香を、皇太后は驚くことなく迎え入れた。
「お話を伺いに参りました。陛下の件で」
挨拶代わりの世間話を終えて、雪香はにこりと微笑んだ。雪香の言葉に皇太后は頷き、それから手を振って周りから宦官、女官を遠ざける。それと同様に雪香も水琴と通海に部屋から出るように合図する。二人とも何か言いたげにしたが、それを飲み込むようにして頷き、去っていった。皇太后もいるこの場で反意を示すのは、他ならない雪香のためにならないと理解しているがゆえの行動だと、彼らの後ろ姿が語っていた。それに対して申し訳なさを感じる。だが、もう少し皇太后から詳しい話を聞かなければ、相談さえできないではないか。
「さて、話とはなんじゃったかの」
薄い磁器に注がれた茶を口に運び、口を湿らせた皇太后は、しかし思い当たる節がないかのように装っていた。
「陛下の呪い、と皇太后様は仰いました。そのことのお話をなさるかと思っておりましたけれど……違いましたでしょうか」
違うんなら帰る、という意志を明白に含んでいる。まだ瑞雪だった時に凌風から聞いた、この人に関する様々な話を聞くに、あまり仲良くすべきではない類いの人間に思われる。
「そう、呪い。そうじゃった。……卑しき下女から生まれた皇子が皇帝になるなど、天も憂えたことであろう。下女の血統を繋ぐなど言語道断と、呪いを下されたのじゃ。大鴉を通じて」
「……それは、大鴉が陛下を呪った、ということでございますか?」
「天も嘉された行為じゃろう。なんせあの大鴉は日輪を飲み込み、この世を闇夜にせんと図った怪物じゃ。それを倒した人間を大鴉が呪おうと、本来ならばそれほどの偉業、神々が嘉して呪いを祓おうとなされるものではないか。それなのに、呪いは未だに陛下を覆っておる。あの呪いのせいで、陛下は夜には童子に戻られる。それでは血統を継ぐことができぬであろう? やはりこれは神々も許された呪い。卑しき血を皇帝の血統に混ぜてはならぬという天意じゃ」
「…………」
もたらされた情報を咀嚼する。
日輪を飲み込もうとした大鴉を討ったのは、凌風である。その凌風を、大鴉は死に瀕して呪ったらしい。その呪いは未だに健在で、凌風は今でも夜になれば少年の姿になってしまう。
凌風の母親がどんな身分の人だろうと、大鴉を討ったのは凌風である。その凌風にもたらされた呪いなど、確かに皇太后が言うように、神々が呪いを祓いそうである。世を救った褒美として。
でも、凌風の母君の身分が原因で、その褒美がもたらされない? なんだか違和感を覚える。神々とはそんな偏狭な存在ではない、と思う。斗母玄君は慈悲深い女神と評判だが、斗母玄君ほどではないにしても、神々は功績に対して大らかだ。褒美を出し渋るなんて、そんな人間じみた卑賤な考えはなさらぬはず。それでは、何かの原因があるのではないだろうか。神々でもその呪いを簡単に解くとこができないような、原因が。
「それでも、わらわもこの手でお育てした陛下じゃ。大鴉討伐の功を挙げられた陛下の呪いを、どうにかお解きしたという思いはある。そこで道士に占わせたのじゃ。そうして出た結果を知って、わらわはそなたに声をかけた。そなたが呪いを解く鍵だという卦が出たゆえな」
「わ、わたくし……!?」
予想外の言葉を聞いて、雪香の喉から変に甲高い声が洩れた。
「あれだけ女性の趣味にうるさい陛下がそなたは側に置くのじゃ。陛下はそなたにならば子を生ませたいとお思いに違いない。ゆえに、そなたが鍵なのじゃ」
子、という生々しい言葉に、雪香の頭がかっと沸騰したように熱くなり、ついでそれを彼の養母から聞かされるという羞恥に凍える。熱くて寒い。どっちかにしてほしい。
「大鴉の死骸は廟山に封じてある。歴代の皇帝の廟墓がある山じゃ。大鴉の死骸さえ焼いて浄化すれば呪いは消えるじゃろう。呪う本体がこの世から消え失せるのじゃからな。が、わらわが思うにそれを焼く人間は限られておるのではないか。皇帝から寵愛される娘、つまりそなたじゃ。そなたが手ずから大鴉の死骸を焼くことで、陛下の呪いは解ける。神々が陛下の呪いを解かなかったのも、皇帝から愛される娘の身分を見計らいたかったからではないか。名家の出であるそなたならば、天からも認められ、大鴉の死骸を焼くこともできるのではないか」
「はぁ……」
全てが推測で成り立っている皇太后の言葉だ。だが、奇妙な説得力があった。凌風から寵愛されているかどうかの点に疑問はあるが、逆に言えば雪香以上に凌風の身近にいる女性はいない。最愛ではないが、中愛ぐらいはあるかもしれない。いや、小愛でも愛は愛である。後続がいるかもしれないし、後に彼の最愛になる女性が出るかもしれないが、現時点では雪香が、皇帝から何らかの好意のようなものを向けられている、唯一の存在である……ような気がする。たぶん。ある程度は。
「とはいえ、皇帝の許しなく後宮を出るのは大罪である。たとえそなたが未だに妃嬪ではなく、妃候補の一人に過ぎぬとしても、罪は罪。ゆえにわらわがそなたを助けてやろう。三日後は新月じゃろう。後宮の門衛に言い聞かせておくゆえ、その日に廟山に赴くのじゃ。馬車も用意しておこう。廟山までは半日もかからぬ。夜の間に出発して、早朝にでも死骸を焼き、それから後宮に戻って参れば、夕方には夜伽の準備もできようぞ」
「…………っ」
再びもたらされた生々しい言葉に、変な咳が出そうになってこらえた。いやいやいやいや、そんな呪いが解けたその夜にいきなり凌風とどうこうなんてそんな……いやいやいやいや、家族に近い立ち位置かもしれないんだから、そんな事態にいきなりなるわけ……。
これまでの男性性を表に出して距離を縮めてきた凌風の顔を思い出して煮え茹だりながらも、雪香は己に言い聞かせた。最近そういう雰囲気ないから大丈夫だって! 自意識過剰って良くないと思うの。
「――くれぐれも、わらわの養い子をよろしゅう頼むぞ」
ゆったりと微笑む皇太后に、言い返せるなんの故事も思い出せなかった雪香は、敗北感と共に頭を下げたのだった。
紅潮しつつ青ざめるというまだらな顔色をした雪香は、どうにか桐美殿に戻り、長椅子にふらふらと横たわった。
「お嬢様、どうなさいました!?」
いっそ水琴の方がよほど病人らしい顔をして、雪香の世話を焼こうとしてくれる。
「どうされた。あの女狐らしき女性に何か言われたのであろうか」
通海も気遣わしげな顔をして問うてくる。が、現在の雪香の頭には呪いと夜伽という言葉が手を取り合って踊っているのである。落ち着くまで少し待ってほしい。
「主様。どうやらお嬢様は女狐から、皇帝陛下の呪いは大鴉のせいと聞かされたようでございます」
「主様。皇帝陛下から寵愛されているお嬢様が手ずから大鴉の死骸を焼けば、陛下の呪いは解けると申しておりました」
通海の側にいる白と黒が、今度は童子の姿で跪拝しつつ、雪香と皇太后の秘密をあっさりと暴露した。
「――っ!」
がばりと長椅子から体を起こすその様子を見て、水琴が目を尖らせた。
「お嬢様……まさか、本当なんですか……?」
「白も黒もそれがしに嘘などつかぬ。それにしても、そう来るとは……うぅむ……」
天を仰いで唸った通海は、それから頭を抱えた。
「これはどうすべきか……いっそ……いやいや、むしろ……だが……くっ」
巨躯をくねらせて苦悶した通海は、不意に清々しい顔で頷いた。
「うむ。それがしは今から祈祷して参る」
水琴が呆気にとられた顔をして、あの人どこかおかしいんじゃないの、と思っていることがありありと分かる表情を浮かべている。その気持ちは分かるが、通海が祈祷というならば、それは北斗星君に祈りを捧げて忠告を聞こうとしていることなのだと雪香には分かる。何故北斗星君にお伺いを立てねばならないのか。いや皇帝の呪いのことである。もしや神々にしか分からないあれやこれやがあるのかもしれない。この件において何よりの助言者は神々である。まだ出家できていない雪香は斗母玄君のお声を聞くことはできないので、そういう意味では通海は何よりの情報源であった。
「……それにしても、お嬢様。陛下の呪い、とおっしゃいましたよね? 陛下は、呪われてらっしゃるのですか?」
水琴の言葉に、とうとう雪香は秘密を留めておくのを放棄した。元々嘘も秘密も苦手である。特にこの乳姉妹相手には。
「あのね、陛下は、果王殿下だったの」
だが、雪香は説明下手だった。あまりにそのもの過ぎて意味が分からない説明を繰り広げてしまい、水琴が理解する頃には、昼食の時間になっていたのだった。




