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皇太后


 その夜は、果王涼風として彼は雪香を見舞った。

「涼風様……」


 まだ寝台から出ることは許されていない雪香は、戸惑いつつも少年の名前を呼んだ。

「どうした、雪香」


 雪香の言葉に応えつつも、少年は少年らしからぬ余裕に満ちた笑みを浮かべた。こうして見れば、少年の外見と比べて、中身が異常なほど成熟して感じる。気づく余地はあったのではないか、と自分でも思うが、振り返ってみてもそれで気づけた自信は全くない。単に早熟な少年だと思う程度で。


「どうして、そのようなお姿なのです……?」

 少年の姿だったせいだろうか、雪香は疑問を素直に口にした。気になってしょうがない、という事実もある。


「この姿か? ……呪い、のようなものだな。日が差す間は年齢通りの姿に、日が落ちれば少年の姿に、という」

「まぁ……いったい、誰がそのような?」


 呪いというのは、人口に膾炙しているわりには、それほど容易い術ではない。普通の仙人ではできないし、普通の仙人が誰かを呪おうとすれば、仙人ではいられなくなってしまう。呪いを専門に扱う、邪仙ならば簡単なように思えるが、彼らにとっても呪いは繊細で、下手をすれば彼ら自身の命に関わるような、危険なものであるらしい。


 それなのに、皇帝の姿を変えるほど強力な呪いである。そんなことができるなど、どれほど恐ろしい存在であることか。そんなことをするぐらいなら、毒殺とか暗殺とかした方が、ずっと手間が少ないんじゃないかと雪香は思う。


「さて、誰であろうな」

 少年は空とぼけた。その姿からは、知っているのか知らないのかさえ不透明だ。


「呪いとおっしゃるからには、解く方法はないのですか?」

 詳しくはないが、呪い返しとかあるではないか。そういう方法で呪いを解くことはできないのだろうか。


「さぁ、どうだろう」

 ゆったりとした笑みを浮かべたまま、少年の姿をした皇帝は雪香に持参した菓子をさし出した。


「以前から思っていたが、そなたは少し痩せすぎている。少しは滋養のいいものを食べなければ、体調も崩しやすくなってしまうのではないか?」


 さし出された月餅を見て、雪香は沈黙した。そうだ、あの月餅事件の当時から、彼は皇帝だったわけだ。胸を締めつけていたことや、皇帝が幼女趣味ではないかと疑っていたこと。そうだ、あの時涼風が憤っていた様子だったのは、己の性癖を誤解された怒りもあったからではないのか。


「陛下、の……」


 そして。他ならない彼は、知っていたのだ。皇帝の求愛に気乗りしない己の姿を。その原因まで言ったことはないけれど、翡翠の簪を下賜されればここを去って出家したいと告白したこともあった。彼は知っていて、だから翌日の皇帝は簪の下賜をする気がないことを示した。


「私の?」

 聞き返されて口ごもる。何を言いたかったのか。違う姿をしていたのを卑怯だと詰ればいいのか、教えてくれれば良かったのにと怒ればいいのか、それとも己は初恋の少女の身代わりなのかと問えばいいのか。


「――黙っていてすまなかった。だが、それでも不安だったのだ。皇帝の私と会ってそなたがどう思ったか、探らずにはいられなかった。嫌われたらどうしようと。……卑怯な探り方だった。すまない」

 真っ正面から謝られて、それにも困る。


「いいえ、そんな……」


 言いたいな、と思った。凌風はもしかして覚えていないかもしれないけれど、自分はかつて瑞雪だった。中身が瑞雪と知れば彼はもう求愛してこないような気がするけれど、それでも彼を案じていたと、彼の幸福を祈っていたのだと、知ってほしい気持ちもあった。覚えていない。それは誰だ、と問われるかもしれない。あの孤独だった少年時代など、彼にとって捨て去りたい過去なのかもしれない。けれど。


「……そなたはまだ病が癒えておらぬ。もう少し養生するといい。それと、私の呪いのことは、あまり公言せぬようにしてくれると助かる」

「それは、もちろんですわ」


 もともと凌風は身分の低い皇子として、皇帝になる可能性はとても低かったと聞いている。それが大鴉を倒した功績により、皇帝となったのだ。いきなりの即位で、それに納得できない政敵もいただろうし、兄弟皇子の嫉妬を買っただろう。そこに呪いなどという材料を持ち込んでは、彼の在位はますます苦しいものとなってしまう。彼の足を引っ張るつもりは、雪香にはない。


「もうすぐしたら皇太后が療養から後宮に戻ってくるようだ。後宮といっても皇太后宮は離れている。そうそう顔を合わせることもないと思うが、あれは女狐だ。近づかぬように気をつけるといい」

「はい」


 そういえば少年だった頃の凌風も、育ての親である皇后、今の皇太后のことをひどく嫌っていた。実の母をいびり殺したのが皇太后だとも言っていた。当時の雪香は、とても恐ろしい、鬼のような形相の女を思い描いたものだった。


「皇太后の息子の嫡男を、私の跡継ぎにせよとうるさくてな。取り合っていなかったのだが、ついに業を煮やして後宮にやって来たようだ」

「まぁ……」


 果王は凌風が少年の姿をしている時の号だ。だが後宮には本当の皇甥も複数人滞在していると聞く。そのうちの一人が皇太后の孫ということになるのかもしれない。そして凌風の皇太子となるべく働きかけているのかも。


「呪いのせいで、夜にはこの姿だ。これで世継ぎは望むべくもない。といって、皇太后の孫を皇太子に指名することは決してないのだがな」

 くく、と嗤った凌風は、その笑みをすぐに消して立ち上がった。


「何かあったら私に言うといい。そなたに嫌がらせをする者は遠ざける。少しでも居心地よく過ごしてほしいからな」


 皇甥だと信じていた頃とは違って、皇帝であることを隠そうとしない凌風の言葉は、雪香を皇帝が望んでいるのだとあからさまに感じさせるようなものだった。その言葉に、身が縮むような思いがする。皇帝の望みに、嬉しいと応えられない己が見苦しい。そのために来た妃選びなのに。


「お気遣いに、感謝します……」


 選ばれるなんて、思わなかったのだ。本当に。会って、再会を懐かしんで、それで清く手を振ってお終い。本当に、そういう風景しか思い描いてこなかった。それが情けない。国母国母と踊り狂う父の方が正しかったなんて、不本意きわまりない。


「では、また」


 颯爽と服を翻した凌風は、果王の姿のままで部屋を出て行った。部屋の前に控えて凌風を出迎えた宦官が、確かに皇帝に仕える宦官と同じ人物だったことに今さら気づき、己の盲目さに雪香はため息をついたのだった。






 春が深まり、雪香の風邪も完全に癒えた頃、皇太后が後宮に帰還した、らしい。というのも、雪香は正式に妃嬪に任じられたわけではない。未だにお妃選びに来た令嬢の一人という立ち位置なのだ。少しばかり皇帝と親しくしているが、公式に何か宣言されたわけではない。だから皇太后の帰還を、嫁として迎える必要もなければ資格もないのである。


 皇帝には相変わらず二日に一度、昼餐を一緒に誘われ、夜には少年の姿で世間話をしたりする。平穏な日常、と言えるだろう。お妃選びに来た令嬢がことごとく簪を下賜されて、雪香以外は後宮にいなくなったという事実を除いて。


 正直、雪香もどう反応すればいいのか決めかねている。父からはいかにもわざとらしい、実家に帰るのはいつになるのか、なんて手紙が来て、くれぐれも陛下に失礼のないよう、と結んである。端々に陛下から何か勅命があったらすぐに教えなさい、準備が間に合わないからね、とか書いてあるので、実家に帰ってこさせる気はないのだろう。父の期待に応えられそうで、それ自体はいいことなのかもしれない。少なくとも今生の令嬢生活を送れたのは、父のおかげなのだ。その父の望みを叶えられるのは、嬉しくないと言えば嘘になる。が、問題は豊乳仙女計画である。やはり妃嬪になったら仙女計画は遅れてしまうではないか。


 それと最近になって新たな悩みとして出てきた問題があった。皇帝が、雪香を望んでいるのかどうか、という問題である。親愛の情はあると思う。思うのだが、どの程度まで本気で妃嬪にしたいと思われているのかが不明だ。


 冷宮の件があるまではわりと積極的に見えた皇帝も、近頃では穏やかな世間話をすることが多くなったのだ。お互いのこれまでの過去を、楽しい思い出や面白おかしい思い出を語り合ったりして、ときめく会話というよりも、熟年夫婦のような会話になっている。もしかしてもう、異性として見えなくなってきているのかもしれない。なにせ彼は、夜は少年の姿になるのだ。心や精神もそのような幼い姿に引っ張られている――のかも、しれないではないか。


 本気で妃にしたいと思われているかどうかも分からないのに、雪香一人がもうすぐ妃だと思っているのは奇妙なことだと思う。思うが、水琴などがすっかりその気になっているのも困りものだ。


「はぁ……」


 どうにも宙ぶらりんな身分である。公的には雪香はただの客人なのだ。客人が主人と食事を共にしているだけなのである。


「お嬢様、お顔色が優れません。お疲れですか?」

 昼餐を皇帝と共にした後、桐美殿に下がる道筋で思わずため息をつくと、すかさず水琴に気遣われた。


「いいえ、そんなことは――」

「もうすぐ立后なさるお嬢様に何かあっては一大事。少しの異常も必ずこの水琴にお伝えくださいまし」

「……ありがとう……」


 ついていけない。ただご飯食べて世間話してるだけなのに、もうすぐ立后だと思える根拠が不明だ。


「おや、あのように弱々しげな娘が、次代の妃になろうと言うのかえ? 時代は変わったのぉ。かつての後宮ならば、あのようにひ弱げな精神の持ち主では、半日と暮らせなかったであろうに」


 回廊の角からほほほ、という笑い声が響き、驚いて立ちすくんだ雪香の前に、ゆったりとした歩みで一人の女性が、大勢の共を連れて歩み寄ってきた。その大ぶりの簪を見て、雪香は慌てて回廊の脇に寄り、跪拝する。簪には鳳凰がかたどってあったからだ。この後宮で龍は皇帝、鳳凰は皇后もしくは皇太后のみがその意匠を身につけることが許されている。


「皇太后様にご挨拶申し上げます」

 恭しく頭を下げてそう言上する。


「許す。――そなたの名は?」

 名を問われ、答える。


「汪家の雪香と申します。皇太后様にはご機嫌麗しく存じあげます」


「機嫌、のぉ。あまり芳しくはないの。それにしても、汪家と申したか。汪家の当主は歴代、権勢に興味のない、浮き世離れした者が多いと思うておったが、なかなかどうして。駒さえあれば使う程度の頭はあったのじゃなぁ」


 ほほほ、とうっすら掠れた笑い声が響いた。それを聞きつつ、雪香は……感動していた。これだ。これぞまさしく雪香が想像していた後宮のやり取りではなかろうか。嫁と姑の確執。息子の養育権を賭けた戦いを繰り広げるアレである。


「百聞は一見にしかずでございます。この後宮に集われた令嬢方から美点を学ぶようにと、父は申しておりました」


 あくまで情操教育のために来たのだと申請してみる。国母国母と踊り狂っていた姿は脳裏のみでいい。


「それでは令嬢が下がってさぞかし寂しい思いをしておろう。わらわの宮に来ればよい。この後宮でどのように振る舞うのが賢いやり方か、わらわ自ら教えてやろうぞ」


「それはあまりに恐れ多いことでございます。それに趨君の舞といいますように、あまりに舞いの上手い方に教わっても、心得のない者にはさっぱり舞い方が分からぬと申しますではございませんか。きっとあまりに素晴らしすぎて、この雪香には理解することも叶わぬように思いますわ」


 国母国母とうるさい父からは、こういう故事を用いたやり取りなどは教わった。というのも国母となったそなたを妬む者は多いだろうから、その時に黙って言い返せないようでは国母に相応しからぬだろうとのことだった。今になって初めて役に立った気がする。これはこれでありがたいが、殿方との気の利いたお喋りの仕方も教えてほしかった。


「――小賢しいことよな」

 ぽつりと皇太后は呟いて、跪拝する雪香の側に近づいた。半分に閉じた扇で雪香の顎をすくい取って眺めた皇太后は、雪香にのみ聞こえる小声で囁いた。


「……皇帝の呪いを知っているのであろ。詳しきことを教えてやるゆえ、明日の朝にくるのじゃぞ」

 言い終わると扇はすぐさま雪香の顔から外れ、皇太后は何事もなかったように居住まいを正した。


「さて、陛下に言上するのも何度目か。我が孫にはや宣下をくだされと申し上げねばなるまいなぁ」

 ほぅ、と、四十代ほどに見える皇太后は艶めかしい吐息をつきつつ、雪香から去っていった。


 皇帝の呪い。


 それを、恐らくは政敵だろう皇太后が知っていることに、まず雪香は驚いた。


「…………」

 歩み去っていく皇太后の姿は、大勢の共の姿によって瞬く間にかき消えていった。







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