解放
冷宮は、後宮内で罪を犯した人間を閉じ込める牢屋である。冷宮という言葉の印象よりも、僅かにましな部屋に通された雪香は、用意されていた椅子の横に立った。居間ほどの広さのある部屋で、扉の代わりに鉄格子がある。その鉄格子を隔てた外に、大監がにこやかに立っていた。宦官が大監に大きな椅子を引きずってきて、それにゆったりと腰掛けている。
「雪香殿。まさかあのような罠にかかられるとはお気の毒。このように麗しい佳人に鞭を与えようなど、わたくしめには恐ろしくて恐ろしくて。……どうですかな、雪香殿。少しわたくしめと、話を致しませんか」
好々爺のような笑顔を浮かべ、ねっとりと甘い声を出して大監がそう言う。不安と気味の悪さ、恐ろしさに総毛立ちつつ、雪香は顔を伏せた。
「お話しすべきことなど、なにも……」
何もみだりがましいことはしていない。だが、果王涼風と手を握ったというのは事実である。手を握ることが罪だというのならば、確かに雪香は罰されて当然である。
「汪家に累が及んでも、よろしいのですかな?」
肩が震えた。汪家の父に、兄や姉に迷惑をかけたくない。国母国母とちょっとうるさいところはあったが、それでも雪香を慈しんで育ててくれた。早世した母の分も、彼らが雪香を愛してくれたのだ。そんな彼らの誉れを奪うどころか、罰に連座させるなど、考えただけでつらい。
「それ、は……っ」
立ちすくんで両手を握る。えん罪だと叫びたい。汪家は関係ないのだと怒りたい。けれど、とんでもないことになってしまった恐怖の方が、どうしたって勝っていた。
「雪香殿」
蔡大監が椅子から身を乗り出すようにして、鉄格子の隙間から雪香に語りかけた。声は静かで、だが雪香の耳にはよく届いた。
「お助けしてさし上げましょうか」
柔らかで、穏やかな声。どうしても、縋るように見ずにはいられない。
「雪香殿がわたくしめと、ほんの少しだけ仲良くしていただけるのなら。まだ成人前の殿下と多少手を繋いだところで可愛らしいもの、と、不問に処すこともできますでしょう。何もいかがわしいことはなかったのでしょう。それならば陛下も、お気を鎮められることかと」
「…………」
なんの心配もいらない、とそう語りかけるような穏やかさだった。何も考えずに、『それではよろしくお願いします』と答えてしまいそうになるような、自然な親密さ。でも。間に、鉄格子がある。
「宦官とどんな間違いがあったとしても、妃がお産みになるお子の血統は確かです。なにせ男として機能しないのですから。ですから、雪香殿がほんの少し、わたくしめとお戯れになっても、それは児戯の扱い。なにも、心配召されることはないのですよ」
穏やかな声に、ねっとりと粘ついた視線。その視線が、雪香の胸元に張りついている。
「――っ」
小さく震える腕で、胸元を隠すように抱きしめた。
「おぉ、おぉ。そのように隠しても隠しきれぬ佳容。さぞかし柔らかく、温かいのでしょうなぁ。手に溢れんほどの揉み心地を思えば、天にも昇るような思いがいたします。わたくしめの寿命を延ばすと思し召せ。お優しい雪香殿ならば、人助けもお好きでしょうからな」
耐えきれず、後ろを向いてうずくまった。全身が震えている。今まで浴びたことのない、好色な視線の全てが恐ろしかった。
「雪香殿。なに、痛いことはなにもございませんぞ。なにせ男として機能していないのですからな。……さ、どうなさる。何事もなかったように桐美殿にお戻りになるか、この牢獄で一晩明かすか。陛下は明日にならねば、お戻りになりませんぞ?」
皇帝の帰還が明日と聞いて、震える雪香の胸に僅かな希望が灯る。果王涼風も言っていたではないか。くれぐれも誤解されぬよう、言上しておく、と。それならば、誤解だと分かれば、せめてこの身一つの罰ですみはしまいか。
「陛下がお許しになるとお信じか? やれ、いかに佳人とて、姦通をそう簡単にはお許しになるまい。わたくしめの擁護があって初めて、雪香殿は無事にすみますのに。……強情なあなた様がお悪いのですよ。少し寒い思いをされるでしょうが」
鉄格子の向こうで、人が動く気配がした。振り向きかけた雪香は、固まった。
――ばしゃぁん
鉄格子を通して、雪香に水がかけられた。心臓が止まりそうなほど冷たい水に思えた。
「お可哀相に。お寒いでしょう。ささ、こちらに着替えがございますぞ。炭も熾しましょうなぁ。……そこでお脱ぎになって、こちらにおいでなさいませ」
ぽたぽたと髪から垂れる水滴の向こうで、大監が温和に微笑った。その柔らかい笑顔で、服を脱ぎ鉄格子の前に立てと命じている。
床を這うように、雪香は進んだ。鉄格子とは反対の方向に。もう水をかけられても届かない、寝台と文机の間に。
「雪香殿」
呼ぶ声から温和な響きが消え失せ、苛立たしげな舌打ちが混じる。
「――っこら、なんだっ!?」
不意に大監を囲む宦官らから声が上がり、寝台の影から覗く。鉄格子の間から、白と黒の塊が、飛び込んで来た。
「どこから猫なんぞ入ってきたのだっ?」
大監が苛立たしげに周囲に問いただす。大監の機嫌を損ねないよう、宦官らが口々に弁明しているその一方で、飛び込んで来た二匹の猫は雪香に駆けよった。
「にゃぁ」
身軽に雪香の膝に乗り、未だ水の滴る雪香の頬を舐めて温かさを伝えてくれる。
「……白? 黒?」
白い猫は全身まっ白で、それなのに尻尾の先だけが黒い。黒い猫は反対に、全身まっ黒で尻尾の先だけが白い。
「にゃあ」
「なぁう」
名前に反応するように鳴いた二匹は、雪香の体に身を押しつけて、温かさを伝えてくれる。
通海道士の役鬼である彼らならば、童子にも猫にも姿を変えられるのかもしれない。
「なっ!? 鍵が開かぬだと!?」
鉄格子を開けようとして、鍵が開かなくて大監らが喚いている。兄弟子の助けを感じて、雪香の肺から息が洩れた。寒く、冷たい。けれど、それでもここは安全だ。他ならぬ兄弟子のおかげで。
「……ありがとう」
腕の中の二匹に語りかけると、二匹は再びなぁお、と鳴いた。
大監は鉄格子を叩き、脅し、喚いてからついに諦めたように去っていった。雪香はその恐ろしさに猫を抱きしめてひたすら耐えた。日は暮れ、鉄格子の向こうには灯が灯り、見張りの宦官が一人、暇そうに見張っている。
「……っ」
雪香はがたがたと震えていた。かけられた水で冷えた体が、ついに限界を訴えて震えているのだ。猫たちは水で冷えた背中にまとわりついたりして、少しでも乾かそうとしてくれはしたが、それでも春とはいえ、まだ朝晩冷えるこの気候で、濡れた服のままでいることに耐えられるほど、雪香の体は頑強ではなかった。
「にゃぁお」
すりすりと黒が膝に体を擦りつけて温め、白が襟巻きのようにして首元に巻きついている。温かさにほっと安心するけれど、彼らの体が触れていない場所から寒さが広がっていく。寝台に入れば温かいのが分かっているけれど、寝台と文机の影に隠れていなければ、身を潜めていなければならないような脅迫感に襲われていた。
「――っさむ、い……」
寒い。怖い。心細い。
このまま誰にも気づかれずに死んでしまって、幽鬼になったのも気づかないまま震え続けているのではないか。そんな不安まで心を浸す。けれど黒や白の温かい体が、途切れそうになる雪香の理性をかろうじて繋いでいた。一瞬意識が途切れ、怯えたように目を覚まして辺りを窺い、誰もいないのを確認してからまた意識が途切れる。そんな覚醒と失神を繰り返すような眠りを繰り返して、冷宮の小さな窓に、夜明けの光がさした頃。
「――っ、――っ!」
冷宮の外、だろうか。誰かが大声で話しているのが聞こえた。それが聞こえたのだろうか、見張りの宦官が不安そうに身じろぐ影が、揺れる灯りに映った。部屋の中は未だ暗闇に満ちている、それほどに、早い朝。
冷宮の大扉が音も高く開かれ、何人もの人が慌ただしげに入ってくる音が響いた。
「――っ、陛下!」
見張りの宦官が陛下、と呼びかけて跪拝をしている。その姿が影に映って見える。皇帝が来たのだ。雪香もこの隠れ家のような場所から出て、跪拝をしなければ。そう思うのに、がたがたと震える体は、雪香の意志を何一つ聞いてはくれなかった。
「雪香はどこにいる」
冷ややかな声が、その場に響いた。恐らくは凌風の声だと思う。けれどあまりに冷ややかで、激昂しているわけでもないのに強い怒りが伝わってきて、雪香は諦めて目を閉じた。きっと凌風は怒っている。目を掛けていた娘が密通したのだと聞かされて。汪家は、どうなるのだろう。
ほろほろと頬を熱い涙が伝った。せめて罰を受けるのは雪香だけにしてほしい。どうしても気が収まらないのなら、毒杯でも鞭百打でも受ける。だから、どうか。
「誰か、鍵を」
幾つもの灯りが雪香の部屋に向かって照らされて、だが物陰に潜む雪香の姿はそうと思って見つめなければ分からない場所にあるらしい。凌風が焦れたような声でそう命じ、昼間には頑として開かなかった鉄格子は、呆気なく開いた。
「雪香、どこだ」
皇帝が、呼んでいる。応えないと、という考えと、逃げないと、という焦りが荒れ狂う。両手で口元を塞いで、泣く声が響かぬよう押し殺している雪香の代わりに、猫が鳴いた。
「にゃあ」
「なぁお」
ここにいると、黒と白が返事をする。
「雪香!」
鳴き声がやむのを待つ前に凌風は雪香を見つけ、膝をついた。
「雪香……来るのが遅くなってすまなかった。怖かっただろう。泣かないでくれ」
苦しげに顔を歪めた皇帝が、僅かに震える指先で雪香の頬を拭った。それでようやく、雪香は疑問を覚える。彼は、罰しに来たのではないのか、と。
「……へい、か……?」
ひしゃげて嗄れた声で凌風を呼ぶ。さぞ聞き苦しいだろうと思うのに、凌風は声を聞けて安堵したとでもいうように、苦しげな表情を緩ませた。
「怖かっただろう……さぁ、桐美殿に戻ろう」
雪香の手を取って、そして凌風は顔色を変えた。
「これは……熱があるではないか。誰か、桐美殿に侍医を呼べ!」
隙間に体をねじ込むようにして雪香を抱き上げ、未だに湿り気のある背中に眉をしかめる。
「何故これほどに服が濡れて……雪香、何をされた?」
「ぁ、……っ」
答えようとして、大監のにこやかな笑みが蘇る。福々しい凶相。穏やかな脅迫。声を出そうとして、それなのに声が喉に詰まる。
「――いい。恐ろしかったのだろう。すまない。通海の連絡ですぐに向かったのだが、もっと馬を急がせれば良かった」
雪香を大切そうに抱え、皇帝が歩き始める。通海の名前を聞いて、兄弟子がなにがしかの動きをしてくれたのだろうと思うと、もう意識を保っていられなくなった。目が覚めて、まだ悪夢が続いていたら。そういう恐怖は健在でも、もうそれ以上、体が保たなかったのだった。




