捕縛
狂喜乱舞するかと思われた水琴は、だが沈む雪香の感情をくみ取ってくれたらしい。夕食を終え、一人にしてほしいと願った通りに部屋を出て行った。
窓を開く。部屋から洩れる灯りの中に、少年の姿は、ない。それを寂しいな、と思った。今は少年だった凌風を思い出させる、果王涼風に無性に会いたかった。
「――大丈夫か」
窓辺に腕を乗せて長く息を吐いて、そこに声がかかる。間近に聞こえた声に体を起こすと、窓の下にうずくまるようにして、少年がいた。なんだか、傷ついて悲しんでいるような姿に見えた。
「どうなさいましたの、そんな場所で」
いつものように、露台に置かれた椅子に座ればいいのに。まだ春は浅い。底冷えするだろうに、少年は動かなかった。
「陛下は、どうだった。どう、思った?」
悄然としつつ、それでも聞かずにはいられないように問われ、雪香は口ごもった。妃として選ばれそうで、それが身代わりだと聞いて寂しい。仙女になりたい未来が閉ざされて、悲しい。そう答えるわけには、いかない。
「……翡翠の簪は、いただけないのかも、しれません」
真珠でも瑪瑙でも良かった。凌風が幸せに暮らしているのを見届けられたなら、後のことは実家に帰ってどうとでも出家してやると思っていた。
「悲しそう、だな」
少年の声に、ふ、と微笑みの欠片が口の端に上った。
「いいえ。我が家の、誉れですもの」
斗母玄君は願いを叶えてくださった。豊かな胸と、凌風に再会できる身分。それ以上のことは、雪香として生きている自分が叶えなければならない。妃になって、それでも永遠に出家できないということもないだろう。飽きられたり、年を重ねることで出家への道も開かれるかもしれない。ただ、その過程に物思う。身代わりに愛されるということ。気がかりだった、大切な少年にそう扱われるということ。
「……嫌か。どうしても」
「いいえ」
あまりに果王涼風が必死な声を出すから、雪香はふふ、と笑った。凌風の好む振る舞いができているかどうか、分からない。むしろできていないのではなかろうか。そうとなれば、身代わりに手を出しただけの相手に、いつまでも寵愛が続くとは思えない。遠からず、凌風は雪香から遠ざかる、かもしれない。それを思うと哀しいと感じる。身代わりが哀しいのに、飽きられるのも苦しい。あれも嫌だ、これも嫌だと駄々をこねる幼児のよう。
「雪香」
少年が立ち上がり、窓から体を乗りだして、雪香の手を握った。
「涼風様」
「どうしても嫌なのなら……陛下に、言上する。そなたの心が動くまで待ってほしいと」
少年の顔には固い決意が浮かんでいた。その優しさに微笑みつつ、それでも首を振った。
「いいえ。陛下のなさりたいように……わたくしの、望みでもあるのですから」
身代わりでも、側にいて凌風が笑顔になれるのなら。たとえ一時でも。
「違う、そんなことがしたいわけでは、ないのだ……っ」
苦しげな涼風の声に被せるようにして、扉が開く音が響いた。
「――誰っ!?」
慌てて振り向く。そこには、玉芳がいた。大きく開いた目が雪香と涼風を見比べ、そして視線が斜め下に下がる。握り合っていた手を凝視されているのが分かって、つとめてさり気なく手を振りほどく。
「いきなり、どうしたのです、玉芳」
「雪香様、その方はどなたなのです? 妃に選ばれようというあなた様が、どうして殿方と手を握っていらっしゃるのです……!?」
「果王涼風だ。汪家の令嬢とは話していただけ。憶測を呼ぶようなことは何もしておらぬ」
少年の声は年齢にそぐわぬほどの落ち着きをたたえていた。凜として威厳のある声に、玉芳が慌てて跪拝する。それでも投げてくる視線が、好奇心と険しさを等分に孕んでいた。
「――何をしておる、玉芳殿」
扉の向こうから通海の声がして、玉芳は振り向く。通海に何かを訴えようとしている。玉芳の関心が逸れた隙に、雪香は少年に囁いた。
「どうか、今夜はお帰りを。ご迷惑をおかけしてしまいました」
「だが……」
「どうか。これ以上の騒ぎは、殿下のためになりません」
皇甥として後宮に迎えられた少年である。それはなんのためかというと、凌風の後継になるためだ。凌風の子供がいない今、太子として選ばれるなら涼風がいい。それなのに、こんな騒ぎになってしまっては、涼風のためにならない。
「……分かった。陛下には私から言上しておく。くれぐれも誤解されぬように、と」
「お心遣いに感謝いたしますわ」
囁き交わし、少し安心をもらってから去っていく少年を見送る。小さく息を吐き、視線を戻すと玉芳の強い視線が雪香を待っていた。
「……やましいことは、何もしていません」
「陛下に見初められた以上、宦官以外の男性を近づけるなど、あってはならないことと存じます」
険しい声に、笑みが苦くなる。
「気をつけます。叱ってくれて、ありがとう」
玉芳はそれでも非難の眼差しを雪香に送り続け、そんな玉芳の背中から現れた通海は、軽く肩を竦めていた。気にしすぎだとでも言うかのような兄弟子に、ようやく心の強ばりが溶ける。
「どうなさったのです? お嬢様」
そんな頃に水琴が現れ、玉芳の抗議を聞いて首を振った。
「あの果王殿下はそのような方ではありません。玉芳さんも、あまり大事にしないでください。少し話されてただけでしょう?」
「それでも、令嬢の寝室ですよ。変な噂が立っても仕方のないことじゃありませんか!」
「噂話をするのがあなたじゃなければいいんだけど」
水琴に言い返され、玉芳は悔しげな顔をして部屋から去っていった。
「――雨が降りそうであるな」
玉芳が去っていく背中を眺めつつ、通海はそう呟いた。不穏な雨にならなければいいけれど。そう雪香も願いつつ、せめて果王涼風にその雨がかからぬよう、祈るのだった。
翌日の昼餐は、皇帝が祭事のために宮殿から出かけているため、呼ばれることはなく、雪香は久しぶりのゆったりした昼食を味わうことになった。のだが。
「――やっぱり出て行きましたね、あの人」
水琴のかりかりした声に苦笑する。朝になった時にはもう、玉芳は桐美殿から姿を消していた。
「調度品まで取っていった」
白が忌々しそうにそう言って、黒が
「明け方まで荷造りしてましたねぇ」
とうっそり笑った。どっちも怖い。
「果王殿下は大丈夫かしら……」
もし玉芳が噂を広めたとして、将来に痛手を負うのは果王涼風である。少年だった頃の凌風にそっくりなあの少年が、将来不遇な目に合うのは耐えがたい。
「それは大丈夫でございましょうな。それよりもお嬢様の方が心配でございます。わたくしめはしょせんこの後宮では下っ端。表立ったやり方では太刀打ちできませぬからなぁ」
「しっかりしてくださいよ、通海殿」
水琴が不安そうに通海の袖を引き、黒と白はくすくすと
「裏めいたやり方では無敵ですもんねぇ主様は」
と笑っている。安心していいものか悪いものか。
不安ながらも穏やかな昼食を味わい、食後のお茶を飲んでいると、桐美殿の前の通廊が賑やかな声で満ちた。何事かと思っていると、桐美殿の扉が開かれた。下働きの宦官が門番をしているのだが、それらに命じて扉を開けさせたらしい。命じたのが後宮の宦官の長である大監ともなれば、致し方ない仕儀でもあった。
「汪家の令嬢、雪香殿。あなたには密通の疑いがかけられておる」
大監の前に進み出た、若い宦官がそう言って、書状を読み上げた。裏地が紫色の書状は、皇帝が詔勅を下す折の正式な書状に見えた。慌てて書状に向かい、跪拝する。
「汪家の雪香。密通により、冷宮に幽閉の後、鞭十打とする」
鞭とは、鞭打ち刑のことである。十回鞭で打たれるという刑だ。刑は宦官の中でも体格のいい者が担当するという。そんな宦官に、鞭で十回も打たれるのだ。
「まだ正式な妃になる前ですからな。このような温情と相成った次第。ささ、大人しく冷宮に向かわれよ」
大監の後ろから宦官が何人も進み出て、雪香を取り押さえようとする。それを水琴が抱きしめて庇った。
「密通などお嬢様はなさっておられませんわ!」
「こちらの侍女が現場を見たと申しておる。夜に? 寝室で? 手を取り合っておった、と申したな? これが姦通でなくてなんだと言うのだ」
雪香は真っ青になっていた。雪香でこのような罰ならば、果王涼風はどのような罰に処されるのか。
「果王殿下はまだお若い。年上の令嬢の色香に惑わされたのだろう。だが、雪香殿が無罪を言い張るならば、殿下に話を伺わねばなるまい」
大監の言葉に、むしろ雪香は安堵の息を吐いた。水琴の縋りつく腕を外して、立ち上がる。
「殿下とお話しただけでございます。それを密通とお疑いならば、罰を受けましょう。冷宮に参ります」
「お嬢様!」
縋りついてくる水琴の腕を振り払い、難しそうな顔をして腕を組む通海に視線をやって微笑う。兄弟子が絶望ではなく難しそうな顔をしているという点に、安心した。兄弟子が絶望するところなんて、見たことはなかったが。
「物わかりが良くて何よりですな」
大監は機嫌良さそうに笑った。人に罰を言い渡す時にこれほど機嫌良くあれるということに、薄気味悪さを感じる。が、恐れる間もなく宦官達に取り囲まれ、桐美殿を後にした。回廊を渡る雪香を遠目に見守る令嬢達からは、冷笑や嘲笑が投げかけられてくる。回廊の行く手に立っていた令嬢が、雪香らが向かってくるのに気づいて袖で口元を隠す。そうしながら通る声が言葉を奏でた。
「まぁ、妃にと願われた方に密通されるなんて、陛下もお可哀相に。これで汪家も終わりね」
ころころと転がすような音色で嗤った容花淑は、後ろを振り返った。
「ねぇ、あなたもそう思うでしょう? 玉芳」
「本当に。お嬢様」
丁重に花淑に頭を下げる、昨夜までの侍女に目を伏せて、雪香は彼女らの横を通り過ぎた。果王涼風は、皇帝凌風に誤解だと訴えてくれるだろうか。それとも、誤解されてしょうがないことをした罰を、受けねばならないだろうか。鞭十打。恐ろしさに体が震える。ふらついた体を側の宦官が支え、腕を掴んで引っ立てる。そうしてようやく、今まで己がどれだけ優しい世界で生きてきたか、雪香は自覚したのだった。




