疑惑の否定
翌日の昼餐は、なんと皇帝が雪香のいる桐美殿にやって来ることになった。宦官からそのような使いが来て、桐美殿は上を下への大騒ぎになった。
「お、お食事はどのようなものをご用意いたしましょう!?」
「よもやこれほど急とは。この通海も若さの溌剌とした眩さに目がくらみますなぁ」
慌てふためきながら食菜を選定すべく頭を悩ませる水琴と、ある意味悠々自適でいつもの己を貫き通す通海。その一方で玉芳はうろうろと内装を見つめてみたり、調度を入れ替えようと部屋を出たり入ったりしていた。桐美殿の近くでは宦官や侍女達が遠巻きに見つめていて、皇帝の初の行いに後宮中が注目しているのが分かる。
やがて皇帝の側付きの宦官がやって来て、食事自体は皇帝側が用意するので、茶菓の準備だけするように告げていったので、桐美殿の恐慌は緩やかに静まっていった。いきなり皇帝も召し上がるものを用意せよと言われても、雪香らには為す術もない。
「お嬢様、まずはお召し替えをなさいませんと!」
そして当然ながら、雪香は水琴に連れられて念入りな着替えを施されることになった。まぁこの三日、ずっとではあるのだが。
それにしてもいきなり桐美殿とは、もしや昨夜果王涼風と話したことが原因だろうか。皇帝に、かつて愛した少女のことを聞けと言っていた。それをもしかして確認させるために、わざわざ皇帝を桐美殿に寄越した、とか……。そこまで考えて雪香は苦笑した。いかに皇帝と果王の仲が良かったとしても、男色家でないならば皇甥に、そこまでして皇帝を動かすほどの力はないように思う。恐らくは皇帝の気まぐれなのだろう。たとえばほら、今代の後宮の雰囲気を見てみたい、とかそんな感じの。もしかして雪香を訪れるついでに、好みの令嬢を探す目的があるのかもしれない。かつて愛した少女に面影の似た令嬢、とか。
着替えを済ませ、春らしい薄桃色の裙に白っぽい薄青色の帯、薄緑色の深衣で居間に戻る。それからほどなくして宦官の先触れが来て、皇帝の訪れを告げた。雪香を先頭に、部屋の全員が跪拝して皇帝を迎える。
「皇帝陛下にご挨拶申し上げます」
「今日も美しい姿だ、雪香」
雪香の挨拶にそう答える皇帝に、うぐっと言葉に詰まる。気の利いた言葉を返せない雪香に、密やかな笑い声が降ってきて、それから手を引かれた。引く手の力に従って立ち上がる。そういった動きに僅かな慣れを感じ、雪香の頬に血が上った。
「桐美殿がどのようなものか確認したくて、無理を言った。いきなりのことで驚いただろう。不備は問わぬ。楽にするがいい」
鷹揚な皇帝の言葉に、水琴らが安堵の吐息を洩らしながら深々と頭を下げるのが気配で分かった。
「ありがとうございます、陛下」
「無理を言ったのは私だ。そなたの宮が滞りなく美しく保たれているか、気になったのだ」
「まぁ……これほどに美しい宮を賜りましたのに、汚したりなどいたしませんわ」
ちょっぴり斗母玄君に供えるためのお香で煙い時もあるが、それだって窓を開けたりして壁を汚さないように気をつけているのだ。
「そういう意味ではないのだが……気に入っただろうか」
「それは、もう。わたくしにはもったいないほどの宮ですわ。以前賜っていた離宮もわたくし、とても好きでしたの」
桃園に近いし、他の令嬢達の鋭い視線に晒されることもない。あの離宮でのんびりと簪が下賜されるのを待つのも、それはそれで穏やかな日常だったろうと思われる。
「あの場所では、正寝殿に呼ぶのが気の毒になってしまう。やはりここを用意して良かった」
未だに手を握られたまま、そう顔を覗き込むように仄かな笑みを浮かべられ、雪香は……固まった。今生では無論、前世でもこんな美丈夫に間近で微笑まれながら話しかけられる経験など皆無である。どう返事をすれば正解なのか、それすら知らない。うっかり『恐れ多うございますわ』で連発しそうになる。そして何より雪香に緊張をもたらしたのが、この皇帝がどうやら男色家ではなさそうなことである。男色家ではないなら、もしかして万が一、雪香もその対象に入る可能性が僅かながらもある、ということではなかろうか。いや、まだ幼女趣味という疑惑は残っているので可能性の度合いに変動はあるものの、無から少という変化は大きいと思う。無なら全て自分の思い違いですんだものが、少なら思い違いではないという可能性が出てしまうではないか。すごく……すごく疲れると思われる。
「さぁ、昼餐にしようか」
そして当の凌風は固まる雪香を楽しげに見つめながら、宦官に食事の用意を命じるのだった。異性に対する熟練度の違いを、まざまざと感じた瞬間である。初恋の少女相手に猛特訓した成果だろうか。
……そう、まずはそこを確認しなくてはならない。彼が男色家か否かの重要な論証となるであろう過去である。目の前に並べられた鶏料理を小さくかじり、雪香は覚悟を決めた。たぶんこの情報は後宮内の令嬢が最も注目するだろう材料である。この情報によって令嬢達の去就が変わる。雪香自身の心構えだって変わってくるのだ。
「あの……陛下。もしよろしければ、質問をお許し願えませんでしょうか」
「なんだ? なんでも聞くといい」
至極あっさりと許可を得られ、雪香はごくりと唾を飲み込んだ。両手を揃えて膝の上に置き、ぎゅっと指先同士を握り合わせる。
「き、聞いた話ですと、陛下にはかつて仲睦まじかった方がいらしたとか……その方は、後宮にはいらっしゃらないのですか?」
そう、我に返ってまず不思議だったのがそこである。たとえば身分が低い娘だったとしても、皇帝が寵愛するのに障害になることは、恐らくない。皇后に立后するのは困難だったかもしれないが、その下の身分である四夫人辺りならば、どこぞの貴族の後見さえあれば可能になるだろう。さらにいえば、次代の皇帝の母が四夫人腹というのはありふれた話だ。他ならない凌風自身の母は、四夫人でさえない、遥か下級の妃だったのだから。
「彼女は、儚くなった。連れ帰って妃にしようと思っていたのに、あの時は天を恨んだものだ」
「まぁ……」
本当にいたのだ。つまり、幼女趣味の可能性は消えていないが、男色家ではないということではなかろうか。
「実は年上だったのだが、そうとは見えない見た目で。あの頃の彼女を思い出してつい、妃選びに参った娘に親しく接してしまったのだが、どうやら思い違いをされたようだ。彼女が大人になればこうあるだろうという姿は雪香、そなたに似ているのだが」
「……っ!」
雪香は固まった。固まった雪香の手を取って凌風が手の上に乗せる。もう片手で包み込むように握られ、手に嫌な汗がじわりと滲む。
「あ、あの……」
「うん?」
雪香の頭は混乱していた。絶対にほとんどあり得ないと思われていた方向に話が進んでいて、何故だか脳裏に『国母じゃ国母~!』と絶叫しながら踊り狂う父の姿が浮かんだ。違う! 雪香、仙女になりたいんだもん! 豊乳仙女に!
「わ、わたくし……ひ、ひすいの、かんざしを……いただきたくて……」
辿々しくしか舌が回らない。
「そなたを他家にやるのは、気乗りせぬな?」
くいっと顎をすくわれて凌風にじっと見下ろされる。今こそ思い出せ、と雪香は頑張った。あの頃の、瑞雪に我が儘で小憎たらしい態度しか取らなかった少年を思い出すのだ。こんな美丈夫じゃなくって!
「へ、へいか……」
間近に見るせいか、凌風のこぼれ落ちた銀髪がさらり、と宙を舞うのさえはっきり見えた。
「そなたは、汪家を代表して妃選びに参ったのだろう。よもや選ばれたくはない、と申しはすまい、な……?」
穏やかな、囁くほどの静かな声が雪香の耳に入り込んで、脳裏で踊っていた父の幻影をかき消す。頭は真っ白だ。あわあわと口が開いては閉じるのだが、どんな動作も言葉も形にならない。
「――恐れながら、陛下」
凌風しか視界に入っていなかった雪香は、通海の声にびくりと肩を揺らした。
「……なんだ」
部屋の隅から進み出た風に、通海が僅かに皇帝に歩み寄って跪拝していた。
「かつての決まり事をお破りにならぬよう、願い奉ります。嵐に花を散らしてしまわれぬよう」
緊張を帯びた沈黙が広がった。通海の側にいた宦官がじりじりと遠ざかって、己は無関係だと主張するかのよう。皇帝の不興を買いはしないかと、部屋中が恐れおののいているかのようだった。兄弟子の危機に、再び無駄に口があわあわと開閉する。
「――……覚えている。ただの戯れだ」
戯れ、と言い切った凌風は雪香の顎を離した。でも握られた手はそのまま。じりじりと手を抜こうと試みたが、その動きに握る力が強まったので、放心と共に力を抜いた。安心安全な後宮生活を送り、簪を持って実家に凱旋して出家、という目論見ががらがらと崩れているような気がする。気のせいだと思いたい。思いたいけれど、離されない手の強さが自覚を促してくる。
……それほど、雪香は似ているのだろうか。凌風が愛したという少女に。
愛した少女に似ているから、雪香を選びたがっているように聞こえる。そしてそのことに、雪香の胸に僅かな痛みが走った。それはそうだ。いくら小憎たらしい少年だったとはいえ、雪香は凌風の幸せを案じていた。それなのに、雪香を身代わりに愛したいと、そういうことを考えているのではないだろうか、凌風は。そして皇帝に、身代わりにでも愛されることは名誉なことだ。喜んで受け入れるべき慶事だ。父は喜ぶだろう。兄も姉も、汪家の誉れだと喜ぶだろう。
そっと目を伏せた。きっと容家の花淑ならば喜んで受け入れる厚遇だろう。雪香も、翡翠の簪を賜れないのならば父との勝負に負けたのだ。負けたからには、受け入れるべきだ。
『私を案じる者など誰もいはしない』と、寂しい目で呟いていた少年は、もういないのだと受け入れなければ。
「妃選びに参った娘達は、まだ居座っている者も多い。簪を下賜するゆえ、日程を定めよ」
雪香の手を握ったまま、自分の宦官にそう命じる凌風。まるで、雪香は簪を下賜する中には入らないのだと言い張っているかのよう。
胸にじんわり広がる哀しさに、雪香は俯いて耐えていた。




