約束
「どうした。今宵も顔色が麗しくないようだが」
露台への窓を開けたのは、もしやという期待があったからだ。皇族である果王涼風に対して思うのは不遜なのかもしれないが、後宮に来てから親身に話を聞いてくれる少年との会話が、雪香にとっては心の支えになりつつあった。
「わ、わたくし、ひどい失敗をしてしまいましたの」
ちょっと水琴にも言いがたい。こういう失敗を水琴に言って、その結果の水琴の言動が予測できないというのが大きいのだが。
「何をしたんだ。どうせ大したことではないんだろう?」
笑い含みに言われ、雪香は少し頬を膨らませて少年を睨んだ。
「まぁ、どうしてそんなこと。わたくし、下手をしたら処刑されるところだったのですから」
「ふぅん?」
明らかに話半分な相槌に、雪香は本格的に眉をしかめた。
「わたくし、知らなかったのです。皇帝陛下に何かを盛りつけてさし上げるのがいけないことだったなんて」
「いけないことではないだろう。後宮の妃嬪が皇帝に手ずから食事を盛りつけるのは、愛情深い仕草だと思われているぞ」
「えっ」
えっ、じゃああれはなに? と混乱した雪香は目を瞬かせた。
「あそこは正寝殿だからな。責任の所在が違うのだ。後宮で皇帝に何かあれば妃嬪の責任だが、正寝殿では宦官の責任だ。だから嫌がられただけなんじゃないのか」
「まぁぁ……」
気が抜けた雪香は、ぺたりと長椅子に腰を下ろした。ものすごく大変な不作法をしてしまったと恐れおののいていたのだが、場所さえ選べばそれほどおかしなことでもなかったらしい。今回は場所を間違えただけ。そう思うと、やらかした度合いが下がるような気がした。
「この部屋に皇帝が訪ねてきたら、その時こそ盛りつけてさし出せばいい。きっと喜ぶぞ」
「まぁ」
どうやらこの果王涼風は、雪香をひとかどの妃嬪として応援してくれているらしい。もしかして凌風の片思いなのだろうか。それはいけない。この涼風少年にも凌風の素晴らしい所を教えて、両思いにしてあげなければ。
「殿下。陛下は月餅がお好きなのですって。もしかしてご一緒なさったことがおありなのでは?」
「うん? まぁ、一緒、ということにはなるのかな。私も月餅が好きだ。昔、杏の入った月餅を食べて、それで月餅が一番の好物になったのだ」
「まぁ!」
これはもしや、自覚がないだけで少年の方も満更ではないのでは!? 同じ杏の月餅が好きなのだし、凌風が恋心を自覚した月餅と涼風が好物になった月餅が同じ時と同じ場所で味わったものの可能性は高いではないか。いや絶対にそうだ。少年の方は奥手でそういう感情に無自覚なだけというわけだ。これは雪香がそれとなく思いを自覚する方向に促せば、晴れて両思いになるのではなかろうか。
「殿下も陛下も同じ物がお好きなんて、とってもお気が合いますのね」
相性がいいとか、なんかそういう感じの。
「まぁ……――だからな」
少年は何事かを早口で呟いた。聞き逃してしまった雪香が首を傾げるが、少年は気にするなとばかりに首を振った。
「今日こそ陛下と話せたのだろう。どうだった? 優しかったか?」
雪香の方が凌風と涼風の恋を後押ししたいのだが、少年の方は雪香の感想を聞きたいらしい。無自覚な少年を恋する少年に仕立て上げるにはどのような言葉が効果的なものか……。
そういえば。かつて少年だった凌風にも可愛げはあって、瑞雪だった頃の雪香が余所の道士達と話していたら拗ねたことがあった。あれだけ瑞雪のことをみすぼらしいだのがさつだの憎たらしいことばっかり言っていたのに、それではと距離を置いてみれば傷ついた顔をするような、繊細で小憎たらしい少年だった。あれは、仲のいい少女――見習い仙女だったので見た通りの年齢ではなかったが、凌風からすれば少女に見えていただろう――が他の友達と仲良くするのを嫉妬していたのではなかろうか。自分だけが知っていると思っていた笑顔を他でも振りまいていたことに、不愉快な思いをしていたというわけだ。……実際に言っていたのだ。『お前がそんなに余所でも笑顔を振りまいているような尻軽だとは思わなかった』とか。皇子のくせに尻軽とか下品な言葉を言われて呆然とした記憶は今でも鮮やかである。
ということで。少年以外にも皇帝が笑顔や愛想を振りまいていると知って、嫉妬を覚えれば、その原因となる感情にも気づきやすくなるのではないだろうか。
「――っそ、それはもう、お優しかったですわ……っ」
思い返すと自然に頬が赤らんだ。なんといっても雪香は男慣れしていない人生を過ごしている。異性とあんな近距離で話すということ自体が、異常な状況といえるほどに男慣れしていなかったのだ。
「ほぅ」
少年は相槌を打ちつつ、少し顔を俯けた。見ればどことなく顔が赤らんでいるようにも映った。これはもしや、効果絶大な手段なのでは。そう悟った雪香はわき上がる羞恥心を必死で打ち消した。
「わたくし、先ほど申しましたでしょう? ひどい失敗をしてしまったと。それなのに陛下は、謝罪するわたくしの手を取って、立ち上がらせてくださったのです。わたくしに異心があるとは思えぬと。その……わたくしと陛下はまだ出会ってからそれほどの時を過ごしておりませんでしょう? わたくしがどのような人間か、陛下はご存じないと思うのです。それなのに、慌てふためいていただろうわたくしを気遣ってくださってあのような物言いをされて……とてもお優しい方なのだと思いましたわ」
思い出せばますます頬の温度は上がった。未だに小憎たらしい少年だった凌風と、完成された大人の男性である皇帝凌風の姿が重ならない。雪香が知っていた彼は幻だったのではないかと思えるほどに、皇帝凌風は穏やかで立派で、威厳のある美貌の男性だった。
「そ、そうか……そなたに優しくするのは、男であれば誰でもそうすると思うが」
少年は雪香から顔を背け、それでも雪香の心をなだめるような優しい言葉をかけてくれた。かつて少年だった凌風と同じ年頃なのに、なんて大人びて親切な物言いだろうか。そして顔を背けているのは、嫉妬を感じた己の顔を隠そうとしているからだろうか。
「殿下もお優しいのですね。ですが陛下はその……少年めいた体つきの方がお好きなのでしょう? それですのにわたくしにもあのようにお優しい物言いを――」
「今、なんと?」
雪香の言葉を遮った少年は、どこか険しい顔を向けていた。凜々しい眉が寄せられて、不快だと雪香に訴えているかのよう。
「……殿下……?」
少年らしい子が好きという言葉が不快だったのだろうか。少しでも少年の自覚を促したいと、あえて少女らしいではなく少年らしいという言葉を選んでみたが、失敗だっただろうか。彼にとっては敬愛しているだろう皇帝だ。悪口に聞こえてしまったのかもしれない。
「少年めいた? どこからそんな話が出たのだ。まるで陛下が幼女趣味みたいに聞こえるではないか」
実はその通りなのだが。さらには少年性愛者とも思われているのだが。雪香は口ごもった。無自覚な恋慕から軽蔑に移ってほしくはないし、敬愛する皇帝を馬鹿にされたと怒られたくもない。
「雪香、言え。誰からそんなことを吹き込まれたのだ」
そんな雪香の顎を、少年の指がくい、と触って上げた。間近でじっと少年に見つめられ、思わぬ距離の近さにどっと動悸を感じる。いかに少年と思って気軽に接していても、しょせんは三歳差だ。もう二年もすれば成人と見なされるだろう頃合いの少年にまじまじと見つめられ、雪香は少し涙ぐんだ。だがその変化に気づいて目を揺らした少年は、それでも詰問をやめるつもりはないようだ。
「――雪香」
さらに距離を縮められてそう問われ、雪香は諦めた。できるだけ穏便にこの話題を終わらせたい。できるかどうか分からないが。
「……あの、噂で聞きましたの。陛下が、その……少女めいた体つきの方とだけお話しになると……」
「今はそなたを身近に呼び寄せているだろう? それが噂を打ち消す証拠だとは思わないのか」
少年のきらめく黒瞳が眩しくて、雪香は目を伏せた。まさか言えない。囮と思われているなどと。
「そなたもそう思っているのか。陛下がそのような趣味を持っていて、そなたを呼ぶのはただの気まぐれだと」
「そんな……そんな、ことは……」
そんなことはない、と答えるのが正解なのか、それともその通りだと答えるのが正解なのかが分からない。分からないから答えに力が入らず、それで余計にそう思っているようにも聞こえた。
「陛下にはかつて愛した少女がいたのだ。それで幼げな体つきの者につい話しかけられたのだ。だが、それだけだ。愛した少女以外の者を本当に受け入れたわけではない」
「まぁ……」
少年からもたらされた、新しい情報に驚く。凌風に愛した少女がいたというのも驚きだが、そのことを少年が知っていたという情報も驚きだ。皇帝凌風が男色家だという天啓を得た雪香だったが、その情報を聞いて少し自信を失ってしまう。もしかした凌風は男色家ではないのだろうか。それと幼女趣味でもないのだろうか。いや、彼が少女を愛していたという段階でもしかして幼女趣味に片足を突っ込んでいるかもしれないのだが、だがそれが事実ならば男色家からは遠のいているということになる。男色家でないならば、彼は単に甥に優しい親切な叔父に過ぎない。
「それは……本当、ですの……?」
これが事実か否かはとても重要だ。なんせ雪香の天啓の確実性と、これからの方向性に関わってくるのだから。凌風が男色家じゃないなら、とっとと翡翠の簪を賜って後宮から下がり、斗母玄君にお仕えすべく出家しなければ。
「陛下に聞いてみればいい」
少年はどこまでも自信ありげだった。雪香は顎に当てられた指からそっと遠ざかり、頬に両手を当てて俯いた。
「もし、そうなのでしたら……」
「そうだったら?」
柔らかく促す声に、笑みが浮かぶ。
「お優しい陛下でしたら、わたくしに翡翠の簪をくださるでしょうか……?」
妃嬪にするほどではないが、良家の子女と皇帝が認めた証である翡翠の簪を、彼はくれるだろうか。
「意味が分からない。どうして妃宣下ではなく後宮退去の許可である翡翠の簪を、そなたに下賜されるのだ」
「え?」
なんだか今、ものすごく変な言葉が聞こえてきた。
「そなた、後宮の妃選びに参ったのだろう。ならば目標は妃に選ばれることではないのか」
「まさか。わたくしが選ばれるわけございませんわ」
いかにたゆんたゆんな桃まんじゅうを持っていたとしても、それだけで妃に選ばれるわけないだろう。しかも皇帝は、少年の言葉が正しければ、とある少女を寵愛していた過去があるのだ。少女であるからには、たゆんたゆんな桃まんじゅうは障害にしかならないのではなかろうか。
「……まさか、そこからなのか……」
少年が呻いた。そうだ、この少年は今まで、何かと雪香の便宜を図ってくれたのだ。その相手の戦意の無さに、呆れてしまったのかもしれない。
「殿下、申し訳ございません。わたくし、実は父と賭けをしておりますの。わたくしは出家するのが夢なのですけれど、父はわたくしを妃にしたいのですわ。ですから、陛下から翡翠の簪をいただければわたくし、実家に帰って出家することが許されておりますの。でも簪を賜るためには、陛下に拝謁の栄を賜りませんとならないでしょう? ですからわたくし、大監に認められるようにあのような工夫をしておりましたの」
少年がこれほど雪香に親身になってくれるのはもしかしたら、彼の優しさだけではなく、いずれ妃となるだろう雪香に便宜を図ることで、なにがしかの見返りを期待しているのかもしれない……少年を見上げ、それから雪香は心の中で否定した。いや、彼にそんなつまらない思惑があったとは思えない。果王涼風はずっと雪香に親切だった。慰めてくれたし、簫を褒めてくれた。もしかすると彼は、雪香が皇帝の妃に相応しいと見込んでくれたのかもしれない。敬愛する叔父の妻に相応しいと、信じてくれたのかもしれない。雪香の胸が鋭く痛んだ。彼の期待に応えられない自分が、心苦しい。そもそも皇帝に選ばれるほどの何かを持っているわけではないし、その気概もない。
「涼風様、これほど親身にしてくださってありがとうございます。わたくしが仙女となりました暁には、殿下の願い事をなんでも一つ、必ず叶えてさし上げます。殿下のおかげで陛下に拝謁が叶いましたもの。そのお礼ですわ。きっとわたくし、立派な仙女になってみせますわ」
少年の手を取ってそう誓う。
「なんでも、一つ……?」
どこか虚ろだった少年の目に光が戻る。それにほっとして雪香は頷いた。
「えぇ。あの、人を呪うとか害するとか、誰かを生き返らせるということはできないように思いますけれど」
「別にそんなことは願わない。それにそなたに望むのはそれほど大それた願いではない。……仙女にならずとも、叶えられる程度の望みだ」
「まぁ、それでしたら今でも叶えてさし上げますわ」
ほっとして微笑むと、少年もにこりと微笑った。
「もう少し後で願うから、その時になったら叶えておくれ。けれど必ず叶えておくれ。いいな?」
「ふふ、もちろんですわ」
少年の願いを想像して微笑む。きっと可憐で幼い願いなのだろう。照れて今まで言えなかったことなのかもしれない。たとえば母代わりに抱きしめてほしいとか、そういう感じの。
少年と約束をして、それでその夜は更けていった。




