思い出の月餅
皇帝の一日は朝議から始まる。これが日の出とともに始まる会議なのだ。つまり、日の出前には起きて、会議に出るための準備をした上で出席しなければならない。世に言う昏君は昼まで寝こけている印象だが、なかなかどうして皇帝業というものは激務だった。そのぶん夜は早く就寝するらしいのだが、そういう意味で妃嬪を可愛がっている暇はあるのかと問いただしたい。無論、日中に妃嬪を呼んで戯れることはあるらしいのだが、その辺の事情に雪香は疎い。嫁入り前の令嬢が疎いのは当然でもあるが。
皇帝の執務が一段落するのが昼餐である。その頃にはたいていの重要な政務上の会議は終わっていて、余裕のある昼餐をとる。午後にも政務はあるのだが、こちらはどちらかというと宗教的な色合いが濃い。先祖を祀る、政に関する用事が主要なのだ。
その昼餐に、雪香はその日も招かれていた。正直に言って食べた気のしない昼食になるのだが、しかし天啓を得た雪香はひと味違うのだ。同性にして叔父甥という近しい禁断の恋を成就させるべく、雪香は頑張ると決めたのだ。多少皇帝の顔が美形だからと、いつまでももじもじと『恐れ多い』ばかり垂れ流す雪香ではない。ないったらない。
「来たか、雪香」
「は、はい……っ」
ないったらない。ちょっと凌風の端正な顔が嬉しげにほころんで見えるのが眩しすぎて直視できないが、凌風の幸せな結婚生活のためにこれしき……これしき、軽い軽いとやり過ごせなくてどうするのだ。
「そなたの小監に聞いたのだ。鶏が好きなのだろう? 今日の食事はそなたの口に合うのではないか」
いそいそと雪香を手招き、あれとそれ、これにあれと宦官に取り分けさせる皇帝。
「あっ、あのっ」
雪香は頑張った。ついでに言うならば、二回目でちょっとだけ抵抗力ができていた。
「どうした、雪香」
尊顔を仄かな笑みで飾った皇帝は、それはそれは麗しかった。うっかり『恐れ多い』が出そうになり、それでも雪香は踏みとどまった。
「わ、わたくしっ、陛下のお好みも知りとうございますわ……っ!」
言った! 言えた! 雪香の心は自画自賛に満ちた。男性慣れしていない雪香でも、心持ちの一つ程度で殿方に話しかけることができたのだ。成せばなる。成せばなった。
「私か? 私が好きなのはそうだな……食べ応えがあって高度な技術で調理されているものを美味だと思うことは多いように思う」
さすが皇帝。恐らくは栄養価が高く、繊細な味付けのされているものを好んでいると思われる。
「だがそうだな。大した技術もなく、素材も高価なものではないのに、不思議と美味いと感じたものはある。杏の入った月餅を昔口にしたことがあって、今でもあれ以上に心に沁みたものはなかったな」
「まぁ……」
それはもしや思い出の月餅なのでは。そうだ、果王涼風もよく懐に月餅を忍ばせていた。月明かりの中散策している二人が、仲睦まじく月餅を半分に割って口に運んでいる様を夢想して、雪香はこれが恋なのね、としみじみ感じ入った。
……そういえば杏入りの月餅といえば、実は雪香にも思い出がある。雪香の、というよりも瑞雪の思い出だ。前世の見習い仙女時代、他ならない凌風に杏の月餅を分けてあげたことがある。
『なんだこれは』
『月餅ですよ、見れば分かるでしょう?』
瑞雪の月餅製作技術はまぁあれだったので、本来なら綺麗な真円であるべき月餅が、満月から欠け始めた十七夜ほどの歪んだ形をしていたのはご愛敬である。中身もちょっと、具を詰めすぎて外の皮にまで杏がはみ出していたが、それもご愛敬なのだ。ちょっと杏が焦げていたのだが、それだってご愛敬である!
『……苦い』
『わざわざ焦げた所を召し上がらないでいただけますっ?』
文句を言うわりには完食していた凌風だが、月夜に甥と一緒に半分こした月餅の味とは比べものにならないんだろうな、と遠い目をする。そこまで思ってから雪香は、机に並べられた佳味珍肴を見渡した。
「さすがにここにはないな。あれは茶菓子にするようなものだから」
苦笑交じりにそう言われ、雪香は頬を赤らめた。だってどうせなら凌風の好きな物を食べさせてあげたいではないか。いくら美丈夫に育っていても、中身はあの小生意気だった少年凌風と重なる部分もある……はずである。たぶん。
「で、では、陛下のお好みになりそうなものを、取り分けますわね」
皿を手にして取り分けようとしたら、凌風の側に控えている宦官が首を振った。
「あの……?」
「良い」
制する皇帝に頭を下げ、しかし宦官は平伏しつつ雪香に言った。
「陛下のお口になさるものです。ご尊体を決して傷つけぬためにも、我らが取り分けるのがしきたりでございます」
一瞬訳が分からず棒立ちになったが、やがて雪香の頭にもじわじわと意味が染みてくる。つまり、皇帝に毒を盛る可能性を少しでも減らすべく、忠義心の篤い者に取り分けさせるのが習わしなのだろう。
「そ、それは不作法をいたしました……!」
慌てて小皿を机に置いて、凌風に対して跪拝する。コレはもしや、謀反を疑われても仕方のない失態なのではなかろうか。国母の期待に応えられないのは仕方ないにしても、謀反人として手打ちになったらさすがに実家の父に顔向けできない。連座とかされるかもしれない。そんなつもりなかったんですって言ったらこの度は不問に処されないだろうか。それとも鞭打ちだろうか。
ぷるぷる震え始めた雪香の手を、凌風は握って起き上がらせた。
「そなたに異心があるなど思ってはおらぬ。ここには意味のないしきたりが多すぎるのだ」
握った雪香の手を、なだめるように皇帝がゆったりと撫でる。
「わ、わたくし、存じ上げなくて……本当に、申し訳ございませんでした……!」
「気にせずとも良い。……さぁ、そなたの好きなものはどれだろうか」
気を取り直すようにそう問われ、先ほどの不作法にすっかり心を折られた雪香は、それでも頑張って笑顔を絶やさぬように踏ん張った。ここで雪香が頑張って皇帝との仲が進展しているように見えないと、凌風と涼風の仲は絶望的である。隠れ蓑になるべく奮闘している雪香なので、必然的に全く味も分からず、美味いかと聞かれて頷くだけの首振り人形になったことは、部屋に下がってからの課題になるのだった。




