表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

11/25

侍女の帰還


 夕食を終えた雪香は、自分の部屋となった場所から窓を開けた。身を乗り出そうとしたところで、外の人物と目が合った。


「――っっっ!?」


 驚きに固まった後、月の光と回廊に吊された提灯から零れる光で、その人物が果王涼風ということに気づいた。


「……まぁ、涼風様」

「おい、まさかそこから抜け出すつもりではあるまいな?」

 険しい顔だが、少年が凄んでもそれほどの怖さは感じない。


「だって涼風様にお礼を申し上げたくて。……よくお分かりになりましたわね?」

 首を傾げると、涼風ははぁぁ、とため息をついて結った髪をぐしゃりとかき混ぜた。


「卑しくも皇帝から部屋を賜ったんだぞ? お転婆もたいがいにせよ」

「あの桃園に涼風様を探しに参ろうと思っておりましたの。まさかこちらにいらしてくださるとは」

「皇帝から部屋を賜った妃嬪候補の元に、馳せ参じるくらいのことはする」

「まぁ……」


 大人びた言い方に笑いが零れる。それを呆れたような目で見た涼風は、やがて露台に座り込んだ。雪香は窓を大きく開き、窓の桟に腕を置いて顔をもたれかけさせた。視線の僅か下に、涼風の頭頂部が見える。


「……皇帝と会って、どうだった?」

 呟きにも似た問いに、雪香は腹を押さえた。


「……お腹痛い……」

「はぁ!?」


 驚いたように振り返った涼風と目が合い、雪香は情けなく笑った。


「わたくし、殿方と親しくお話しすることなんて一度もなかったのです。ですから、せっかく陛下からお言葉をいただいても、ろくな受け答えができず……きっと呆れておしまいになったわ……」


 なんとなしに口に出した言葉に、己の方が衝撃を受ける。きっと、呆れられた。なんと面白みのない女だろうと、そんな女に桐美殿を与えてしまうなどと、きっと今頃後悔なさっている。そう思うと、じわりと涙が滲んだ。


「どうしてそういう感想になるのだそなたは……」

 はぁぁ、と重々しいため息をついた涼風は、すぐに明るい声で問うてきた。


「そなた、会いたいと言っていただろう。会ってみてどうだったのだ? 期待通りだったか?」


 会いたい人に会わせてくれた礼がまだだった。雪香は桟から腕を外し、居住まいを正して涼風に頭を下げた。


「涼風様、ありがとうございました。おかげさまで陛下にお目通りが叶いました。それどころか本宮にお部屋まで賜ることになって……お口添えに感謝しております。まだ三十人も令嬢方がお待ちだったそうですもの、いつお目通りできていたか分かりませんでした。本当に、ありがとうございます」


 じっと頭を下げていると、涼風がふ、と笑った。


「そなたは真面目だな。礼を受け取ろう。……それで、そなたにはどう見えたのだ、皇帝は?」

 涼風に問いを重ねられ、雪香はぐっと詰まった。


「……お腹痛い……」

「だから! 男慣れしていないそなたが苦しむほどに見苦しい男だったということか?」

 しくしく痛むお腹に手を当てながら、雪香は首を振った。


「まさか! 眩しいほどお美しいご尊顔でしたわ。ですがそんなに玲瓏とお美しい陛下がすぐ側にいらして、何くれとなく話しかけてくださるのです」

「……何か問題でもあるのか?」


「あります! 落ち着かなくて居たたまれなくて、この方の隣にわたくしなどがいてはいけないのではないかともう、そればかりが頭を駆け巡って……」


 先走った父から国母教育を受けてきた。が、美貌の皇帝と楽しく会話を弾ませる方法なんて教えてはくれなかった。しかもどちらかというと、皇帝に愛される方法よりも、生まれた我が子をどう正しく教育するかの方に重きを置いた教育だった。今さらながらにあれは意味がなかったのではなかろうか。


「皇帝がそなたを側に招き、そなたと語らったのだ。なぜそなたがそんなことを気にする必要があるのだ? それよりもそれが苦痛ということは、今後皇帝の身近に招かれたくはない、ということではないのか?」

「そ、そんなことはございませんわ……!」


 慌てて否定しながら、じっと涼風の顔を見つめる。そう、雪香にとって皇帝凌風は、未だに少年のままなのだ。成長した彼をぼんやり夢想したことはあっても、実際に二十九の彼を目の前にすると、凌風の面影を宿す彼の肉親にしか見えないのだ。彼の兄とか、父とか。


 だから凌風に勝手に抱いてきた親しみがどこかに隠れてしまったような気がする。彼に近づけて嬉しいというよりも戸惑ってしまうのは、まだ雪香が皇帝を凌風と認識できていないからに違いなかった。


「……わたくしは……陛下のことを、何も存じ上げないのですわ」


 今の凌風がどのような人物なのか、かつての少年とどれだけ変わってしまったのか、あるいは変わっていないのか。それを実感するまでは、皇帝と楽しく語らえる気がしない。……とはいえ、それではこの厚遇に対する不敬でもある。


「ならば聞けばいいではないか、皇帝に。知りたいことを、知りたいだけ」


 雪香の悩みにあっさり答えたのは、涼風である。至尊の位に座す皇帝に、好きなだけ質問せよとはいかにも皇族らしい傲りであった。


「まぁ、ふふ、そうできたらよいですわね」

 大人びた少年が垣間見せた幼さに、目を細める。


「おい、なんだその馬鹿にしたような目は」

 むっとして咎める少年に、雪香はついに笑いを零した。


「あら、馬鹿になんてしておりませんわ……ふふ、そうですわね、もし上手にお話を伺うことができれば、その折には……」


 今のままの、『恐れ多うございます』の連発では、皇帝の情報を知る自然な流れに、会話を誘導できる気がしない。が、そう心積もりがあるだけでも違うかもしれない。


「ありがとうございます、涼風様。わたくしなどの相談に乗ってくださって」

 にこりと微笑めば、涼風はさっと目を逸らした。


「別に。そなたは頼りないゆえな。私が支えてやらねばと思っただけだ」

 どこか固い語調だが、その言葉が内包している優しさを感じて、雪香はさらに頬を緩ませた。


「……本当に。ありがとうございます」

 涼風はこくん、と頷いて立ち上がった。


「帰る」

「はい、お気をつけて」

 立ち上がって頭を下げて、見送る。


 明日は皇帝がどのような人物なのか、調べよう。そう固く決意をしながらも、緊張の解けた雪香は眠りについたのだった。






 翌日、皇帝の情報収集を頼もうとした雪香だったが、命じる前に怒りを露わにした水琴が雪香の前に立ちはだかった。


「どうしたの、水琴」

 朝食を終え、さて今日はこれから何をしようかという頃合いであった。


「お嬢様、あの離宮に到着したその日に出て行った侍女が、戻っておいでなんです」

「……え?」

 離宮初日で脱落した侍女というと、例の六人だろうか。


「ねぇ水琴、六人全員なの?」


「いえ、一人です。これまでどこにいたのか聞いたんですけど、言えないって! あたし、あの人達がお嬢様のお役に立つなんて、旦那様みたいにはとても思えないんですけど!」


 ちらりと視線を流すと、通海も重々しく頷いた。


「わたくしめが調べましたところ、どうやら他の令嬢方にどうにかして仕えようと悪戦苦闘していたようですな。しかし令嬢方にもそれぞれの実家から連れてきた侍女がいるものですから、どうやら冷たい対応をされておったようで。そこにきてお嬢様が本宮入りを陛下直々に命じられ、さらには昼餐を共にされたと聞きつけ、ここぞとばかりに舞い戻ったのでしょうなぁ」


「そうなの……」


 父は、雪香に国母教育を施してくれた。が、その実態は幼児教育である。後宮に入って皇帝の歓心を買うことや、他の妃嬪との競争に勝つことについて、父はほとんどまともに教えてはくれなかった。


『良いか、国母たるもの、下位の妃嬪にも慈悲深くあらねばならん。が、その慈悲を利用され、逆に追い落とされぬようにもせねばならん』


 と言っていたのだが、実際にどのように振る舞うべきかは教えてくれなかったのだ。慈悲深く、というのは、失敗を許し、不調を案ずることだろうと思う。が、慈悲を利用する女性をどのように判別するか、追い落とされないように何をすべきかなど、実際のところは何も教えてくれなかったのだ。そして父もそんな国母教育の穴を感じていたのだろう、その辺りを実践で教えてくれる侍女らを雇ってくれたのだ。何代も後宮に娘を入れたという家の娘達である。没落した彼らは、娘を侍女にすることで家の体裁を保っているとも聞く。つまり、ここで侍女達を迎え入れなければ、彼女らの家が困窮することになる……かもしれないのだ。


「……わたくしに、どのように陛下と向き合うべきか、教えてくれるかしら?」

 個人的には、高慢で堅苦しい彼女達は苦手だ。だが、今こそ彼女らの知恵が必要なのかもしれない。


「あの人達にそんな知恵があるとは、あたしにはとても思えません。実際に後宮に入ったことはない方々なんです。知ったかぶりで振り回されるのが目に見えてます」


 雪香は困ったように笑った。水琴を侮って軽く扱おうとする彼女達の姿勢は、確かに好きになれない。


「そんな自称物知りよりも、宦官を籠絡した方がいいと思われますがな」


 通海も侍女を戻すことに否定的だ。やはりやめるか、そう言おうとした時、無断で部屋の扉が大きく開いた。


「――お嬢様……っ! どうかお許しくださいませ。わたくしはあの離宮を冷宮と勘違いしたのでございますわ。冷宮はお嬢様もご存じの通り、後宮内の罪人を捕らえる場所。わたくし、そんな場所とても恐ろしくて怖くて、訳も分からないうちに走り出しておりましたの……!」


 元侍女が走り込んできて、桐美殿の居間に跪拝した。


「……その割にはきちんと荷物も持って去られましたんですね」

 水琴のぽつりと呟いた言葉が聞こえなかったように、侍女は泣いた。


「わたくしが間違っておりましたわ…… 大切なお嬢様を置いたまま走り去るなんて、なんて罪深いことを……」


 大げさに嘆いてみせるのは、沈玉芳(しんぎょくほう)という侍女である。二十を過ぎた女性で、高く結った髷が華やかだ。一方で化粧は薄い。少し顔色が悪く見えるほどだ。


「水琴さん、今までごめんなさい。あなたはお嬢様からとても信頼されてるでしょう? だからわたくし、悔しかったの。それで意地悪をしてしまって……ごめんなさい。心から後悔しているわ。どうか許してくださいな……?」


 玉芳は水琴にも跪拝したまま頭を下げた。


「え、あ……」

 ぷりぷりと怒っていた水琴も、下手に出られると弱いらしい。困ったように雪香を見てくる。雪香は困って通海を見た。通海は素知らぬふりで余所を見ている。


「……分かったわ、玉芳。これからまた、よろしくね?」


 息を吐いて雪香は笑顔を浮かべる。何が最善かは分からない。けれど困って泣く人間を突き放すのは、ひどく難しい。そうならずにすんで、ほっと安堵する気持ちも大きい。


「……次に、出て行ったらもう帰ってこないでください」


 ぽつり、と水琴が玉芳に告げた。それに関しても雪香は賛成だ。一度なら許せる。でも、二度目は無理だ。違う場所で頑張ってほしいと願うしかない。


「はい……はい。ありがとうございます」

 玉芳は雪香らを伏し拝んだ。伏せた顔は表情を隠し、彼女が何を考えているかを見せることを、拒んだ。







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ