やだ無理帰りたい
「――前略お姉様お元気でしょうか。わたくしは最近、白昼夢を見るようになりましたの。皇帝陛下のお好みに合わないということで離宮暮らしが長かったからでしょうか。庭園で皇帝陛下に見初められ、殿舎を賜る夢を見ましたのよ……」
「お嬢様! お気を確かに!」
姉への空手紙をしたためていた雪香の肩を、乳姉妹の水琴が揺さぶった。
「しかも最初は正寝殿に部屋を用意するというような夢でしたのよ……わたくし、そんな大それた願いを抱いておりましたのね……」
「お嬢様! 現実に戻っていらしてください! これでもう、妃宣下まで待ったなしなんですから!」
ぐらんぐらん揺さぶられ、野生に放たれた桃まんじゅうも、たぷんたぷんと揺れた。
「怖い……桃まんじゅうの感触まで鮮やかな白昼夢……」
「お嬢様ぁっ!」
あの桃園での出会いからまだ二刻と経っていない。それなのに、すでに雪香は桐美殿に居を移していた。お引っ越しからして早すぎた。ようやくそろそろ昼餐を、という時間帯なのである。現実味を覚えるには全ての流れが速すぎる。
「あ~、お嬢様。白昼夢のところを申し訳ございませんが、陛下より使いが。『昼餐を共に』とのことですが……」
「お姉様! 白昼夢に音声までついておりますのぉっ!」
ついていけなくて取り乱す雪香よりも、水琴の方が青ざめた。
「な、なんてこと……っ! 早くお嬢様のお着替えをお持ちしなければ……通海殿、昼餐場所はどこなの?」
「正寝殿だそうですな」
「――うっぷ……緊張しすぎて吐き気が……いえ、正寝殿なんてお嬢様のお美しさに比べれば軽いですわ!」
両頬をぺしん、といい音で叩いた水琴は、いそいそと立ち働いた。当然、雪香には現実が追いついていない。半泣きで着替えさせられ、水琴の手に縋って殿舎を出る。
後宮の本宮では、朱色に塗られた通路が各殿舎を繋いでいる。その朱色の橋を渡っていくと、余所の殿舎の軒先を通りながら移動していくことになるのだ。その格子の向こうから、視線を感じる。閉まった窓の隙間から、下ろされた帳の影から、立てられた屏風の奥から。
湿度の高い、粘り着いたような視線を浴びて背筋が凍える。そうなってからようやく、雪香は『皇帝から召される』ということの実感を得た。
そういえば姉が言っていた。『気に入られた娘は、すぐに夜伽をすることになるでしょう』と。夜伽。つまり、皇帝と同衾するということである。やだ無理尊くない。少年だった凌風と同衾するのならばなんの気後れもないが、先ほど対面したばかりの青年皇帝と同衾するのなんて無理。
「す、水琴……っ」
どうしよう、同衾なんて無理、と涙目で見つめると、水琴が強ばった顔で頷いた。
「だ、大丈夫です……まだお昼ですもの……」
そ、そうだよね。お昼から夜伽とかないよね。なんせ夜の伽だもんね。他ならない自分にそう言い聞かせ、雪香は止まりそうになる足を無理やり動かしながら正寝殿に進んだのだった。
そうして進んだ先の正寝殿は、黒い回廊で繋がれていた。黒色の特別な杉を使った回廊で、爽やかながらも重々しい空気に包まれていた。あれほど怯んだ後宮に戻りたい気持ちでいっぱいだ。そんな風に腰の引けている雪香を、宦官が立派な扉にまで案内した。金と玉で象嵌された扉を見るだけで、そこが高貴な方の座所だと分かる。やだ無理帰りたい。
「汪家の令嬢がいらっしゃいました」
宦官が高い声で中に向けて告げた。その声と同時に扉が開かれ、別の宦官が姿を現す。
「どうぞ、こちらへ」
水琴に手を引かれたまま室内に進んだ雪香は、その広い部屋を見回す余裕もなくひたすら足元を見つめた。やがて水琴が雪香の手を離す。それに到着を悟り、跪拝する。
「皇帝陛下にご挨拶申し上げます」
見なくても気配で分かるほど、凌風の存在感は大きい。先ほどのようにぼうっとしていれば別だろうが、こうして緊張しきっていれば間違うことはない。
「よく参った、雪香」
親しげにそう呼ばれ、先ほどと同じように手を引かれて立ち上がらせる。皇帝の親しげな対応に、戸惑うばかりだ。
「そなたは何を好むか分からなかったので、とりあえず主な物を並べさせたのだ。さぁ、そなたの好みを教えておくれ」
並んだ席に手を引かれて座らされ、そう微笑み混じりに問われる。やだ無理尊い。あと、帰りたい。
「お、恐れ多うございますわ……」
再会した最初こそ目を見合わせたものの、あれ以来皇帝の美貌を見つめる気力がない。なんていうか、気力が底をついている実感がある。
「さぁ、この羹はどうだ? 体が温まるぞ? それとも蒸魚がよいか? あの鮑も美味だぞ?」
言われた食事が宦官によって皿に盛られ、目の前に並べられる。だが、取られた右手は繋がれたままだ。
「お、恐れ多うございますわ……」
やだ無理帰りたい。あと、繋がれた指が硬くて節ばっていてときめく。やだ無理しんどい。
「陛下、そのように手を繋がれたままですとお嬢様も召し上がることは難しいかと……」
皇帝の一番側にいる宦官が、そう彼に囁いた。
「あぁ……これは気づかなかった。すまない、雪香」
覗き込まれて微笑みかけられる。やだもう無理死ぬ。
「恐れ多うございますわ……」
もうそれしか言えていない。やだほんともう無理。そっと名残惜しげに手を離され、幼子の世話をするように何がいいか問われ、雪香の精神は限界だった。
皇帝が食べる食事である。そりゃもう美食のはずである。そのはずなのに、ほんの一口か二口を、心を無にして啄むしかできなかった。
なんとかして桐美殿に帰り着いた雪香は呟いた。
「やだ無理吐きそう……」
と。
夕刻、水琴が所用で側を離れた隙に、通海が寄ってきた。
「瑞雪……そなた、振られる覚悟はできていても、迫られる覚悟はとんとできておらんかったようだのぅ」
「せ、迫られ――!?」
迫られるとか言うのはやめてほしい。なんかちょっと美貌の皇帝にしては距離感が近かったが、迫るとかそういうのではないと思うのだ。
「迫られておったではないか。それとも恋をする覚悟がなかったのか? 入宮する以上、皇帝の心を射止めんとするは妃嬪の務め。その覚悟なくして入宮したのであれば、それは戸惑うであろうな」
楽しげに笑いつつも、どこか非難の響きを感じる。
「それは……そういうつもりは……」
「会いたかったのではないのか? 皇帝に」
「それはもちろん! 会いたかったですわ」
会いたかった。会って、彼が幸せなことを見届けたかった。それは真実だ。誰にだって胸を張れる。だが……考えてもみてほしい。
「ですが……わたくし、瑞雪だった折から、殿方に縁がなかったでしょう? 雪香となってからだって、知っている殿方は父か兄だけ」
父や兄はそういう種族であって、異性ではない。
「ですから、その……慣れない、のですわ。どうお話申し上げればいいのか……」
恐れ多い以外に何を言えばいいのかとんと分からない。魚よりも鶏が好きですとか、どういう言い方で伝えればいいのか。
「やれやれ、童子の相手をせねばならん皇帝に同情するわい」
通海はそうため息をつき、肩を掻きながら去っていった。前世で縁がある異性と言えば通海だが、彼のおっさん臭い仕草を見て恋をするほど飢えてもいなかった。仙人になった彼に対する尊敬はあれども。
ほとんど食べることのなかった胃が、今頃になってくぅぅ、と鳴り始める。お腹に手を当てて、雪香は切なくため息をついた。間近に美貌の男性がいて気が休まる方法を、雪香の方こそ教えてほしい。色々話しかけられて、気の利いた返答ができるならやり方を教えてほしい。
前世から生粋の箱入り娘である雪香には、難題が多すぎた。こういう時は癒やしである。いや、癒やし以前に礼を言わねばならない。雪香は夜を待った。こっそり抜け出してあの桃園に行くのだ。もしかして出会えないかもしれないが、約束を守ってくれた涼風に感謝を伝えたい。
もはや今の雪香にとって、涼風は唯一の癒やしだった。




