47.壮年商人は平伏中
「えぇぇーーージェスパーさん、『結び目パン』食べてないんですか!?」
副料理長は厨房の隣、従業員用の食堂で声を張り上げた。
「あぁ、お嬢様と執事長さんが、是非食べて帰ってくれって…」
「おかしいと思ったんっすよねー」
副料理長はうんうん頷きながら、ジェスパーの言葉を遮るように口を開いた。
「お嬢様に対する態度デカすぎるからー」
「は?」
「あのパン食べて、お嬢様に逆らえるヤツなんていませんからねー」
「はあ?」
商業を担当する者として侯爵家に仕えて20年弱、サイモン・ジェスパーは数多くの商談を渡り切ってきた。
平易なものもあったが、困難な問題も多々あった。
そうやって培われた臨機応変さを持つ彼の頭には、多くの疑問が湧いていたが、異様に美味しそうなバターの匂いが全ての思考を奪っていった。
「さあどうぞ!」
副料理長が、嬉しそうに得意そうに差し出して来た皿の上には、半円形を曲げたような見たことのない食べ物が乗っていた。
(なるほど、真ん中が『結び目』のように盛り上がっている)
ゴクリっと喉が鳴る。
「お嬢様の偉大さが分かりますよ!」
(だから何だそれは!)
恐怖さえこみ上げてきたが、彼は目の前でツヤツヤ光る、パリパリに焼かれたパン生地の誘惑に勝てなかった。
恐る恐る、端を口に入れた。
サクッという、パンで味わったことのない音と感触……そこから記憶がなくなった。
「わたしは今…」
気づいた彼の、目の前に置かれた皿の上は空だった。
「…パンを、食べたのか?」
「もちろんっすよ! 美味しかったですか? もちろん美味しかったですよね!」
「記憶がない…」
「あ、たまにそうなるヒトいましたねー。味にうるさい人が多かったかな?」
ジェスパーは貿易なども担当する職業柄、確かにあちこちの珍味や美味を食べてきている。
「じゃ、特別にもう1個どうですか? お嬢様のお言葉ですもんねー」
ジェスパーはコクコク音がしそうな勢いで何度も頷いた。
「はいどうぞ!」
差し出された皿の上にあるパンを、彼は秒の勢いでひったくった。
「あーそういえばですねー、味にうるさい人は、食べたが最後で、お嬢様の影すら踏めなくなる勢いになってたような…」
ジェスパーに副料理長の言葉は届いていなかったが、結果はその言葉通りになった。
「お嬢様! いらっしゃっていたのですか! 申し訳ありません! このサイモン・ジェスパー、迎えにも出れない我が身を恥じ入るばかりです!」
店舗から勢いよく現れた男の、異様に腰の低い様子に、シャーロット達一行は思わず引いた。
「お、お出迎え有難う。ジェスパー」
「サイモンとお呼びください」
侯爵家の商業担当のやや低音の声は、甘く切なかった。
日に焼けた肌、癖のある茶髪、仕立ての良い服。よく見ればイケオジなのだが、非常に残念なことに焦げ茶の目が飛んじゃっている。
「話には聞いていたのですが、黒髪姿もよくお似合いですね。髪の色は隠せても、お美しさは隠せませんが。あぁ、お嬢様の貴重なお時間を無駄にしてはいけませんね、店内をご覧いただいて、ご意見をいただきたく存じます!」
ささ、と先導するジェスパー。
唖然とするシャーロット。
「随分、丁寧?な人だね…」
引きつつも、王子である自分に見向きもしない相手が新鮮でもある王子様である。
「私にもよく分からないのですが、突然こんな感じに…」
シャーロットも困惑している。
「さすがですねー」
感嘆の声に振り向くと、いつの間にか白い料理人服姿の副料理長が傍らに立っていた。
「何がさすがなの?副料理長…じゃなく、リックね」
副料理長、リック・カーソンは、屋敷勤めを辞め、このお店の店長になることが決まっていた。
元々、給料の良い侯爵家で働き、お金を貯めて、自分で食べ物のお店をやるのが夢だったそうだ。
まだ雇われの店長だけど、良い勉強になると、とても喜んでいた。
副料理長は満面の笑顔で答えた。
「今回売り出すパン…いやあの時は、厨房に正規のレシピのパンしかなかったんで、それを食べてもらっただけです! お嬢様のクッキーも食べたことがないと言っていたので、新鮮だったんですね!」
あー…と、どこか諦観したような声を出したのはシリウスだ。
「シャーロットの作った物を食べたことない人が、いきなりあのパンを食べたのか…」
王子も納得したように頷く。
「効果が凄すぎるけど、ありうる事態だね」
「こうなると、売り物にするの、コスト下げた物でちょうど良かったかもな」
そんな、人のレシピを危険薬物のように言わないで…と、シャーロットは内心焦ったが、知らない人に(知っている人でも!)いきなり額づかれるのは怖い。
「…もう少しバターの質、落としてもいいかも…」
つぶやいた声は、幸か不幸か、周囲には届かなかった。
これで41話に戻ってきました。
副料理長は結構イイ性格(無自覚)です。




