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果ての果てにあるこの場所で  作者: 豆田 麦
果ての果てにあるこの場所で
6/9

前編

前編・後編の二話分を同時投稿しています。

 思えば物心ついたときにはもう、自分はどうやら何か他のコドモとは違うようだ、とは感じてた気がする。鼻水を自分ですすりあげられない子、ひっきりなしによだれがあふれている子、後ろに振り向くためには一度座り込まないとできない子。そんな年齢くらいのコドモと同じ目線の自分に気づいた瞬間が、おそらく「物心」ついたときだ。軽く引いた。鼻水とよだれに。


 まあ、おそらくぼくは普通ではない。それも感じてはいた。その一方で、ぼくの体は、周囲にいるよだれたらしと同じように一歩踏み出すごとにふらつき、座り込んでいた。別にそんな記憶はないのだけど、自分の手足がもっと思い通りに動いて、視界ももっと高いところから広がっていた気がしてならなかった。気がするだけで記憶はない。思い通りに動かない手足にむかむかしつつ、かといって周囲のコドモと同じように癇癪を起こすのもためらわれて、地面に這いつくばってどうしたものかとじっとしていると、優しげな声で囁く女に抱き上げられる。それが日課だった。


 おかあさんですよと頬擦りしてくる女はかなり好きだ。いい匂いがするし温かいし柔らかいし。居心地はとてもいい。何かと比べて思ったわけではないけどそう思う。夜遅くに帰ってくる男はよくわからない。口きかないし。だけど、ぼくの頭をくるんでもまだ余るような大きな手で、時々なでたりさすったりしてくる。女と違って、ごつごつとしている感触ではあったけど、それはそれで悪くはなかった。この二人に対して、ぼくは少なからぬ好意を持っていたと思う。たどたどしく歩いてるのか走ってるのかわからない速さで「おかあさん」や「おとうさん」の足元にしがみつく他のコドモほど、あふれでる好意ではないような気もしたけれど。そのあたりは今でもよくわからない。


 視界の大半を占める地面から、抱き上げられたときに広がる世界。

 幾重にも重なり影を落とす葉が織りなす緑の色調。その隙間から零れ落ちる柔らかな光の粒。

 じりじりとする日差しで汗ばんだ額にあてられる濡れた手ぬぐい。

 ひんやりと頬をなでる風が運んでくる、どこかの家から香ばしい匂い。

 鼻の奥を刺す空気と、空の星が静かに落ちてくるような冷たい雪。

 その雪はやがて舞い上がる薄桃色の花びらに変わり。


 ぼくは自分の中にある「感じたこと」を、ひとつひとつ言葉に置き換え整理していく。


 周りのコドモの中でも、よくうちに来るコドモがいた。他のコドモと比べて動きも反応もゆっくりな割りに、何が面白いのかひっきりなしにころころと笑っている子だった。つやつやとした細い薄い髪がはりついた広いおでこを、ぼくに向かって突っ込んできては床に激突していた。てっきり男の子だと思っていたけど、ある日桜色のリボンで髪を一束結んできてて、そのとき初めて女の子なんだと知った。とても申し訳なさそうな一束で、いつもどおり突っ込んできたはずみですぐそのリボンは取れた。

 あゆむ、と呼ばれているその子の手足がすらりとしてきて足取りもしっかりしてきた頃、ぼくも同じように手足をかなり思い通りに動かせるようになっていた。


 そのあゆむがいつも口をあけてみとれている人形が、うちにはあった。

 ぼくが気づいたときにはもう当たり前のようにあったそれは、明るい緑色の巻き毛で金色の瞳、陶磁器かなにかでできていたと思うのに、その頬はやわらかそうに輝くばら色で、多分その時代にはあまり見かけないタイプの人形で。普段は大事そうに飾り戸棚の高いところにしまわれていて、ぼくとあゆむを見下ろしていた。おかあさんは時々その人形をおろしては髪をなでタキシードの襟を整えてまた戸棚にしまった。


 「このお人形がおまえをうちに連れてきてくれたのよ」


 おかあさんはそう言って、人形にしたのと同じようにぼくの髪をなでた。


 ぼくたちは小さな山のふもとに住んでいた。五歳程度ではコドモだけで山に入ることは許されていなかったけど、そんなことは近所のコドモたちはまるで気にしてはいなかった。一番の年長のコドモは十歳かそこらだったと思うけど、ぼくと同じくらいの年のコドモたちは、その子がいればコドモだけじゃないからいいんだと思っていたのだ。

 狩りという名の野いちご摘み、漁という名の川遊び、探検という名の虫捕り。

 正直、他のコドモたちのように真剣に取り組んでいたわけじゃないけど、自分のカラダがどこまで動くのか、何ができるのか、昨日できなかったことが今日はできるようになっていたり、湧き上がるような突き動かされるような衝動のままに走り回って疲れ果てるのはとても気分が良いことだった。いつもあゆむがぼくのシャツの裾をぎゅうと掴んで離さないのも。


 そうはいっても、別にあゆむが常にぼくの後ろにいたわけじゃない。むしろぼくのシャツの裾を握り締めたまま、自分の興味のある方向へずんずんと進んでいくほうが多かった。ぼくは当然道に迷うことなどないし、他のコドモたちとはぐれたとしても、いつでも合流できた。なので年長のコドモもぼくとあゆむのことは放っておいてくれていた。


「ねえ、これなあに?」


 あゆむが指差した何かを調べるために、おとうさんの部屋にある本を漁っては、また知識と言葉を吸収していった。そして次の日にはこともなげに教え、すごいねえと単純な賞賛を受け取る。


 一日一日が飛ぶようにすぎていって、けれどぼくの中には圧縮された情報が確実につみあがっていった。世界はとんでもなく広くて、走っても走っても果てにたどりつくことなどないように思えた。


 だけども、こんなに世界は広くて明るくて綺麗だっただろうかと、まるで違う記憶をもっているかのような驚きがいつも片隅にあることが、痛みのない小さなできもののように気にかかってはいた。これは一体なんなのだろうと思うのだけど、洪水のようになだれ込んでくる毎日に押し流されて、ほんの少しの恐怖もなぜかあって、それ以上考えることはしなかった。この頃にはもう完全にぼくは周りのコドモたちとは異質のものだと自覚していた。そのことを意識するとき、ぼくの足元はなにかとても不安定なものに変わり自分の体重がかき消されていくようだった。


 そうすると決まってあゆむの小さな手がぼくを力強くひっぱるのだ。


「今なんかあの木の上にいた!キツネかも!キツネ!しっぽおっきかった!」

「キツネは木の上にいないと思うよ。リスかなにかかなぁ」

「リス!リス!リス!」


 ぼくのシャツの裾を握ったまま足がかりもない木の幹にしがみつくあゆむ。ぼくのシャツはどれも決まった場所だけ伸びきっていた。実はあゆむはあまり体が強くない。運動も得意じゃないし、体力もない。季節の変わり目や寒い日が続くとすぐ熱を出していた。年長のコドモがぼくとあゆむをほうっておくのも、多分あゆむにあわせると遊びたいように遊べないせいもあった。ぼくはあゆむの手が届かない高いところになった桑の実をとるために木登りも上手くなった。他のこどもと同じだけの数のざりがにをあゆむがもてるようにいっぱいとった。とんぼも、ちょうちょも。


 雨の日にはぼくのうちかあゆむのうちで遊んだ。あゆむのおかあさんとぼくのおかあさんも、いわゆる幼馴染というものらしく、「あゆむがお嫁さんにきたらいいのに」なんていいながら二人でくすくすと笑いあっていた。ぼくらは喧嘩なんてものはほとんどしなかった。あゆむのしたいことを止めたいと思うほど、ぼくにはしたいことなどなかったし、あゆむが笑うのがうれしかった。


「あゆむ! またオマエは自分のしたいことばっかり!」


 時々あゆむのおかあさんがそうたしなめていたけども、顔は怒ってはいなかった。あゆむが、はっと気づいたようなばつの悪い顔でぼくを覗き込むのが面白かったんじゃないかと思う。意地悪だなぁと思いつつもぼくもその顔が好きだった。


 そんなわけでぼくは大体のことにおいてあゆむがしたいことをしたいときにしたいようにさせてたんだけど、たった一つ困ることがあった。あの人形。ぼくのおかあさんがあゆむにねだられたときは、時々戸棚から降ろして抱かせてあげていた。それがどうしても怖かった。ぼくらの小さな細い腕にはちょっと余る重さの人形。落としてしまえば割れるであろうことが簡単に予想できる材質のそれ。あゆむは数分その人形を抱きしめるだけで満足して返すのだけど、その間はずっと腰のあたりがふわふわして落ち着かなかった。


「あゆむはそのお人形だいすきねぇ」

「だってかわいいもん。髪もきれい。目もきれい。あったかくてやらかいよ」

「ええ? やわらかくはないでしょう」

「やらかいもーん」


 あゆむはそう言い張って頬ずりをする。ぼくはなんだかくすぐったくてそれも居心地が悪くて嫌だった。いつも必ずあゆむを座らせて抱かせていたけど、手をすべらせて人形が壊れる映像が脳裏に浮かぶ度にざわざわとした。いっそ壊れてしまえばそんな感触もなくなるのにとも思った。異質であることを自覚する程度に賢いぼくにとって、そのわけのわからない複雑さが気持ち悪くて気持ち悪くて。




「ちょっとおしょうゆ買ってくるからお留守番頼める?」


 あゆむのおかあさんのおなかには、あゆむの弟か妹がいた。多分妹。なんとなくだけど。いつも検診に行くときにはあゆむはぼくの家に遊びにきていて、その日も検診で、雨が降っていて。ぼくは出来のいいコドモだから留守番なんて平気だし、おかあさんたちもそれはわかっていた。


「すぐ戻るからね」


 そういってぼくのおかあさんが出かけた後に、またあゆむがあの人形を見上げた。


「あゆむんちにはねえ、赤ちゃんがくるんだよ」

「うん。知ってるよ。おなかすごくおっきくなったよね」

「あゆむ、おねえちゃんになるんだぁ」


 もうちょっと先の未来にうっとりとするあゆむ。


「おかあさんのおてつだいもするんだ。おねえちゃんだから。あかちゃんのおせわもするんだよ。おかあさんがあゆむおねがいねっていったもん」

「あゆむに似てるのかなぁ」

「うん。たのしみなの。あかちゃん、かわいいよきっと。おとこのこかな。おんなのこかな。あゆむいもうとがいいなぁ」

「妹だよ」

「わかるの? なんで?」

「んー、なんとなく。内緒ね」

「そっかー! きっといもうとだね! いもうとかー……」


 あゆむは唐突にうっとりとした顔から真面目な顔になった。


「あかちゃんきてもさ、いちばんのなかよしなのはあゆむだよね?」

「……ダレと?」


 あゆむはうつむいたけど、ぷうと膨らんだほっぺが前髪の向こうに見えた。

 あゆむはあんまり頭はよくない。どっちかというとぼんやりというかのんびりというかマイペースというか。お昼寝したら、寝る前のことは昨日にカウントしてしまうくらい。もっとも、周りのコドモも似たり寄ったりではあったけど。なので、こんなこと思うのかと、ちょっと驚いた。


「ぼく、あかちゃんとどうやって遊んでいいかわかんないよ。でもきっとあゆむと遊ぶほうが楽しいと思うなぁ」

「いちばんなかよし?」

「うん」

「やくそく!」

「うん。約束」

「じゃあ、あかちゃんもときどきかしてあげる!」


 ……なんでそうなるんだろう。一瞬でご機嫌に戻ったからよしとするけど、ぼくにもわかりにくいことはたくさんある。

 いつもどおりにじゅうたんの上に座り込んで、もうすでにひざもくっつくくらいにそばにいて家には二人だけなのに、あゆむは顔を寄せてきて内緒話のトーンで囁いた。正確にはあゆむだけがそのトーンのつもり。いつも声の大きさは変わってない。これはお願い事だ。いつものことなんだけど、このときだけは嫌な予感がした。


「あのね、あかちゃんのだっこれんしゅうしない? あゆむね、おにんぎょうさんだっこしたい」

「……ダメ」


 ぼくからお願い事を断られたことがないあゆむは目を丸くした。


「……おかあさんが帰ってくるまで待って。ぼくらじゃ手届かないし」

「いすもってきたらとどくもん!」

「ダメ」


 確かに椅子をもってきたら手は届く。ぼくなら飾り戸棚の戸を開けて、慎重に人形を降ろすことはできる。でもだめだ。


「だってだっこしたいんだもん! いま! れんしゅうもしなきゃだもん!」

「練習はおかあさんが帰ってからでもできるじゃん。すぐ戻るって言ってたよ。ちょっとだけまとうよ」

「いやなの!」


 普段あゆむはそんなに聞き分けのないコドモじゃない。普段お願い事を断らないぼくに断られたことが、あゆむを珍しく意固地にさせていたのかもしれない。


「あの人形は、おかあさんが大事にしてるから。ぼくだって勝手に触らない約束なんだよ」


 触ろうともしたことないけど。あの人形を触るのは嫌いだ。


「あゆむとだってやくそくしたもん! さっき! いちばんなかよしってゆった!」

「なかよしだけど、それとこれとはちがうでしょ」

「ちがわないもん! うそつき!」

「うそなんてついてないよ」

「うそつきだ! ばか! もうかえる!」


 あゆむの家はうちから五軒ほど向こう。普段から一人で遊びにきてるから帰ることはなんてことない。だけど今は雨がひどくなってきてるし、あゆむのおかあさんも病院から帰ってきてない。鍵だってかかってるかもしれない。かかってないことも多いけど。他のお願いならいくらでもきいた。いつもどおり。いつもなら、引き止めた。絶対に。


 どうせすぐ戻ってくると思ったんだ。そしたらタオルで拭いてやればいいと思った。十五分待って戻ってこなかったから追いかけた。思ったよりもずっと雨は冷たくて風も強かった。もっと早く追いかけたらよかった。引き止めたらよかった。ちょっとくらい人形抱かせてやればよかった。

 鍵のかかった家の前でしゃがみこんでいたあゆむを連れて帰って、タオルで拭いてやって着替えさせたけど、そのときにはもう高い熱がでていた。


 ぼくは何もかも知ったつもりになっていたけど、あゆむがすぐ熱を出すのも体が弱いのもなんでなのか知らなかった。心臓に生まれつきの障害があるなんて知らなかったんだ。


 あゆむは入院をした。あゆむのおかあさんはぼくを責めなかった。ぼくのおかあさんは「どうして」とつぶやいてぼくを抱き寄せた。お見舞いにいけたのは入院して四日目。あゆむは、ぼくの姿を見て、いつもどおりにっこりと笑い、手をつなごうとした。その腕から伸びる細い透明の管。鼻にも管がついていた。笑うときにもちあがる頬につられて動く管。


 次の日、ぼくは突然鼻血を出した。おかあさんが慌ててティッシュで押さえてくれる。ずっと外には遊びに行っていなかった。あゆむもいないし。体が少しだるい。思うように動かなくて、階段の最後の一段を踏み外して転んだ。お昼ごはんのとき、牛乳の入ったコップを倒した。確かにコップをつかめるように手を出したはずなのに、ぼくの手はコップのわずか左側を掴んで、そのままコップを倒した。


 戸棚の中から、人形が見ている。ああ、と突然わかった。ああ、そうなんだ。




「手術、することになったみたい」

「……そんなによくないのか」

「もともとね、心臓よくなかったでしょう。体力がつく年頃になってからって話だったみたいなんだけど……」


 真夜中、台所でおとうさんとおかあさんが話していた。手術。難しいのかときくおとうさんに、おかあさんは涙をこぼして答えなかった。


「おかあさん」


 二人は廊下の暗がりから声をかけたぼくに驚いて振り向いた。


「あのね、あの人形、あゆむにあげてほしいんだ。明日、持って行ってあげたいんだ。お願い。ぼくが抱かせてあげなかったから、あゆむ怒って家に帰ろうとしたの。お願い」

「……あの人形? でも」

「あの人形、ぼくをつれてきてくれたんでしょう? じゃああゆむのこともつれてきてくれるよ」


 ぼくにはその確信があった。あの人形は必ずそうしてくれる。

 その先に起こることもなんとなくわかるような気がしてたけど、見ないふりをした。


 ぼくには、あゆむを助けることができる。


 総ての記憶が戻ってきたわけじゃない。

 自分が異質であることの理由がわかったわけじゃない。

 わかったのは、ぼくがもともといた場所。ぼくができること。

 あの人形は、ぼく自身。ぼくの器。

 今のぼくの手よりも小さい手、足。あゆむが赤ちゃんをだっこする練習にちょうどいいと思えるくらいの小さな人形。

 けれども、あのカラダに戻れば、ぼくはヒトが持つことのできない力を持つことができる。


 今、人形はあゆむの病室にある。

 あげるといっているのに、あゆむはおうちに帰ったら返すねと、人形をいつものように抱きしめた。

 ぼくは、おとうさんとおかあさんの布団にもぐりこんだ。


「どうしたの? 珍しいね」


 おかあさんはぼくの頬をなで、おとうさんはぼくに腕枕をしてくれた。

 必ずこのカラダに戻ってくるつもりで、ぼくは目を閉じて深く息を吐いた。



 カーテンごしに月の光が透かし通っている。

 こんなに明るい夜なのに、この人形のカラダでは美しく感じることができない。

 あゆむは静かな寝息を立てている。けして抱き心地がいいはずもないこの人形を、あゆむはいつものように抱きしめたまま眠ったらしい。「ボク」の胸に小さな手がおかれている。

 どうしてきみは、こんなにもこの人形を気に入ったんだろうね。


 ぼくは胸におかれたあゆむの手に手を伸ばそうとする。

 なかなかこの人形の手を動かせない。ヒトの体を動かすのとは、どうやらコツが違うのか。

 試行錯誤してなんとかあゆむの手をそっとどかし、上半身を起こしてみた。一度立ち上がりかけて座り込んだ。まあ、慣れだろうな。もっともぼくはすぐにあのカラダに還るのだからそんなに慣れる必要もない。

 あゆむの胸、心臓のあたりに左手を置く。ことん、ことん、と小さな脈動。時折リズムを崩す。


「……?」


 あゆむがうっすらと目を開けた。とろりとした視線はまだ焦点を結んでいない。ぼくは右手の人差し指であゆむの唇を押さえる。


「……ゆうちゃん?」


 驚いた。この月明かりの下でなら、緑の髪も金の瞳も確認できるだろうに。

 あゆむの心臓は、時折足並みを乱しながらもほぼ規則的に脈打ち続けている。だけど、ぼくの左手は、その心臓の左よりに黒い影を感じる。これ、だ。


「あゆむ、静かにね。いいかい? 朝起きたら、もう一度ちゃんと検査してってお願いするんだ。わかる?」


 あゆむがわずかにうなずいた。

 いくつもの青あざができている腕を、左手でなぞる。


「もうこんなのいらなくなるからね。みんなと一緒に走れるようになるから」

「ほんと? じゃあゆうちゃんにも桑の実とってあげるよ」

「桑の実は、もう今年は無理かなぁ」

「じゃあね、じゃあね、いちばんおっきなどんぐり」


 どんぐりは、拾うだけだから今でもできるじゃないかと吹き出しそうになった。


「うん、じゃあ約束ね。あゆむはぼくにどんぐり、ぼくはあゆむに元気なからだ。とりかえっこ」

「うん。とりかえっこ。やくそく」


 右手に意識を集中させる。生きた体がもつぬくもりとはまた別の熱さがこもる。ぼくの手のひらとあゆむの胸の間から、じわじわと金色の薄い光が、震えながら漏れ出る。あゆむの心臓にうずくまる黒い影を飲み込み、そして蛍光灯が消えるように余韻を残して消えていった。



 ここまでは、予定通りだった。

 次の朝、あゆむは言われたとおりに検査をやりなおしてくれと言い張った。何の検査か聞かれて、当然困ってはいたけども。あまりに血色の良い顔と力強くはりあげる声を不思議がった医者が、聴診器で心音を聞いて首をかしげ、検査室の予約をとり、あちらこちらとあゆむを連れ出し、最後はあゆむの両親に「異常が全く見当たらなくなった」と当惑顔で告げた。

 ぼくはぼくの仕事に自信があったから、別にここまで見届ける予定ではなかった。

 とっくにこの人形のカラダから抜け出ているはずだった。

 どうしたことなのか、戻れない。

 ぼくのおかあさんだって、あゆむの見舞いにはよく来ていたのに(あゆむのおかあさんが休憩をとるためにと)、姿を見せない。


「おうちに帰れる?」


 もうすっかり点滴やらなにやらの管から開放されたあゆむが、ベッドの端から両足をぶらつかせながらあゆむのおかあさんにきいた。


「帰れるよー! あゆむがんばったねぇ。明日のお昼に帰れるよ。あゆむ何食べたい? 好きなものつくってあげる」

「ううん。あゆむねー、ゆうちゃんちに行く。お人形かえすの。あとどんぐりもあげなきゃ」


 あゆむのおかあさんは、わずかに息を呑んで、目を泳がせた。


「どんぐり……?」

「うん。やくそくしたの。あ、そっか。どんぐりも拾いにいかなきゃ」

「……明日は雨だっていうからさ、どんぐりはまたにしよ?」

「えー! やだー!」

「またお熱でたら困っちゃうでしょ? それにどんぐりも雨降ってたら落ち葉の影に逃げちゃってるから見つからないよ? お天気になったらどんぐりとりにいって、それからゆうちゃんちにいこ? ね?」

「そっかぁ……でもゆうちゃんちにはいきたいなぁ」

「ゆうちゃんね、ちょっとおかあさんたちと旅行に行ったの。帰ってきたら、ね」

「りょこう? おばあちゃんち?」

「そ、そうそう。ね、だからあゆむ待てるよね? オムライスつくってあげるから」

「おむらいす! おかあさんのおむらいす!」


 まあ、ぼく自身がここにいるわけだから、あちらのカラダは抜け殻だろう。あゆむのおかあさんの動揺はわかる。入れ替わるように健康になったあゆむをつれて行くのも憚られるのかもしれない。

 退院したあゆむに連れられて、ぼくの場所はあゆむの部屋のベッドの枕元に落ち着いた。

 次の次の日には、泥だらけになってポケットにどんぐりをいっぱい詰め込んできた。ぼくもいないし、さすがに一人で外に出すにはまだ早いだろうから、というか、怖いだろうからか、おかあさんと一緒に行ってきたらしい。あゆむは寝る前にぼくにそう報告して、抱きしめて、それから眠った。


「ゆうちゃんにね、明日もっていくんだ。どんぐり」



 あゆむに抱かれて、ぼくの部屋にいった。どんぐりはあゆむのおかあさんがつくった小さな巾着袋にいれられて黄色いリボンで結ばれた。

 ぼくのベッドに横たわる体。

 親指を口にいれ、よだれをたらしながら自分の舌をもてあそび。


「あー」


 ぼくのおかあさんの姿を認めると、糸をひく手をのばして抱けとせがんだ。

 あゆむは、人形のぼくをおかあさんに渡し、おそるおそるそいつに近づいた。


「……ゆうちゃん? どんぐり、もってきたよ?」


 おかあさんは、人形のぼくをきつく抱きしめて小さく、小さくつぶやいた。


「ユウイチを、たすけて」




ダレだ。お前は誰だ。

そのどんぐりはぼくのものだ。

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