上原弥生(うえはらやよい)
いがらしみお。
イガラシミオ。
五十嵐美桜。
私は朝起きてから夜寝るまでの間、この名前を何度でも心の中で唱え、この名が世界一似合う少女を思い浮かべる。
五十嵐美桜。
もう六年も会っていない私の親友。
美桜と出逢ったのは幼稚園に入る前。
私が美桜の家の近所に引っ越して来た。
近所に子供は少なく私は美桜と美桜の家の隣に住む海人君と三人でいつも遊んでいた。
私達は幼稚園、小学校、中学校、高校とクラスこそ離れたことはあったけどずっと一緒だった。
美桜が高校一年生の夏休みの終わりにいなくなるまで。
合鍵でアパートの鍵を開ける。
海人はバイトなので八時過ぎまで帰らない。
ご飯の用意をして彼を待つ。
今日は海人が食べたいと言った鶏ミンチとヒジキとお豆腐のハンバーグにそら豆のポテトサラダ。
煮魚が食べたいと言ってたから鯖の味噌煮と青梗菜ともやしの炒め物を作った。
明日はカレー明後日は筑前煮を煮込んで帰ろう。
野菜不足が心配だけどカット野菜をドレッシングで食べることはしてくれているので大丈夫だろう。
お魚はちりめん山椒と鮭フレークで補って、もずくと納豆を毎日食べれるように冷蔵庫に入れておく。
牛乳とヨーグルトは毎日食べているし、冬になればポトフとかシチューが美味しいし、お鍋なら野菜もお魚も上手く取れる。
今はまだ新物の生さんまは高くて買えないけど、九月の中頃にもなれば今より大分値段も下がるだろうから大根おろしとすだちで塩焼きにして食べよう。
私は塩焼きの方が好きだけど海人は梅干しと煮るのが好きだからそれもしてあげよう。
海人はめんどくさがりで自分では野菜一つ切らないけれど食べることは大好きなのだ。
いつまでこんな風に海人の食事の用意ができるだろう。
毎週今日が最後今日が最後と思い、日曜に分かれると月曜日から金曜日まで次は何を食べさせようかと考える。
完全なルーティーン。
四年もやれば誰だってそうなる。
海人は自分じゃ目玉焼き一つ焼かない。
出来るのはゆで卵とオクラを茹でて冷ややっこに生姜とネギと一緒に乗せるだけ。
あとおむすび。
これは意外と美味しい。
でも基本的にめんどくさがりで引っ越しの際に買ったフライパンは私が来るまで完全な新品だった。
お皿を洗うのも面倒だからとバイトしているスーパーのお弁当で済ませ毎日紙パックの野菜ジュースを飲んでいた。
私はスマホを取り出し、イヤホンを差し込み、美桜が好きだった声優の歌を聞く。
どうやったらこういう声が出るのだろうといつも不思議に思う。
世界で一番遠い国の夜明けから聞こえてきそうな声。
何処へ行っても遠雷のように、鼓膜を揺らし続ける。
あの丸い顔のお世辞にもカッコいいとは言えない小柄な男の人からどうしてこんな声が出るのだろう。
同じ人間とは思えない。
私達と違いこんなにも余韻が残る声。
美桜と一緒にこの人のイベントに何度も大阪に行った。
高校を出たら東京のイベントにも行きたいと美桜は言っていた。
美桜はこの人のことが本当に第好きで、この人以外興味ないように思われた。
だから時々私は美桜は我慢できなくなり東京にいるこの人に会いに行ったのではないかと思うことがある。
声優さんのCDは特典がランダムに入っていることが多くブロマイドを全種手に入れるため私も毎回一緒に購入した。
美桜がいなくなってからも毎日最低三回は彼のツイッターを確認し、新しいアニメやゲームの出演情報が入ってくると胸をなでおろした。
まだ彼はこの世界にいる。
彼がいる限り美桜はこの世界にとどまっている気がして、彼が載っている雑誌、イベントのDVD、オーディオコメンタリーが収録されているアニメのDVDにキャラソンを買い続けた。
レギュラー出演しているラジオも毎週欠かさず聞いているし、彼と仲のいい声優さんのブログとツイッターのチェックは欠かさない。
最近はインスタも。
おかげで私は高校と看護学校の友達に声優の小倉健介のファンだと思われているけど、実際自覚してないだけでファンなのかもしれない。
私は美桜が好きなものは何でも好きだったから。
「ただいまー」
海人が帰って来た。
狭いアパートなんだからわざわざそんなこと言わなくても帰って来たってわかるのに、海人はいつも言う。
私は玄関に出て彼を迎え入れる。
「おかえりー」
「美味そうな匂いだね」
「この間言ってたお豆腐のハンバーグ。ひじき入ってる」
「あー。美味そう。何これ?何の匂い?」
海人がフライパンを覗き込む。
彼は鍋の蓋を開けるのが好きだ。
「オイスターソースにしたよ」
「あー。すきー」
「手洗っておいでよ」
「うん」
「お疲れさま」
「疲れるような仕事じゃないよ。閉店前の七時過ぎなんてお客さんほとんどいないもん」
「そう」
「うん、でも。明日台風で大雨って言ってたからお客さんは多かったみたい。いっぱいレジ通したもん。
肉とか魚とか缶詰とか」
「台風こっちホントに来る?」
「滋賀直撃って言ってたからね。まあ明日は家でじっとしてよ。録画溜まってるし消化しないと」
「うん。でも雨の音でテレビの音聞こえるかな」
「そうなったらゲームしよ。家から出るのは不味いよ。三連休なんだしなんだし一日くらい家に籠ってぼーっとしよ」
「うん」
「食お。俺腹へったー」
「うん。食べよ」
食事を終え片づけを済ませると、二人でテレビをつけ台風情報を見る。
外は凄い風の音だ。
こんな日は、こんな日じゃなくても思い出す。
美桜のこと。
美桜がいなくなったのは六年前の台風の夜だった。
夕方まで部活で私達三人は一緒だった。
美桜が家に入ったのを確かに見届けた。
美桜のお家は共働きでお兄さんはバイトで家には誰もいなかった。
だから美桜を最後に見たのは私と海人だ。
美桜の家には鍵がちゃんとかけられていた。
誰かが侵入した形跡はない。
美桜はお財布を持って出かけている。
美桜の部屋から無くなっていたのはそれだけでスマホは置きっぱなしだった。
制服はあったから着替えてから出かけた。
足元はサンダル。
「今徳島かー」
「このアパート大丈夫なの?」
「大丈夫だろ。古いけど毎年台風来ても吹っ飛んでないよ」
「大学の裏とか海人ホントめんどくさがりだね」
「朝いつまでも寝ていたいだろ」
「海人だけだよ。ほっとくと昼になっても起きないじゃない」
「でも彦根行くとこどっこもないし。弥生だってそんなに出かけんの好きじゃないだろ」
「まあ、ね。でも彦根にいる間にいろいろ行きたいよ。もう四年もいるのに佐和山一回も登ってないよ」
「だから秋になったら行こ。まだ暑いよ。あそこ細い道続いて登りにくいらしし。虫いっぱい出るし」
「そう言って秋になっても行かないでしょ。もう一人で行こうかなー」
「やめときなって。山なんか女の子一人で歩くもんじゃないよ。この間からずっと言ってるよね。佐和山何かあるの?」
「別にオグケンがツイッターに写真上げてたから行ってみたいなって」
「オグケン来たの?」
「ゲームで石田三成やることになったから佐和山と長浜行ったって言ってたよ。ほら」
私はスマホを海人に見せる。
丸顔のここ一年で随分ぽっちゃりしてきたアラサー男性が背の高い細身の声優界ではイケメン扱いされる大谷吉継役のイケメン声優と武士の夢と書かれた看板の前でピースしている。
しかもダブルピース。
オグケンはいつもこれ。
そんなとこも好ましいし、美桜が見たら可愛いと言っただろうと思うと嬉しくて遂笑みが零れる。
「ここ頂上?」
「そうでしょ」
「まあ、行くってそのうち。絶対行くから一人はやめて。帰ってくるまで心配だし」
「行かないよ。一人で行ってもつまんないだろうし。私だって山とか怖いよ」
「でもさ、家で一日中ダラダラできるのも贅沢じゃない?」
「そうかな。遂勿体ないって思っちゃう」
「休みの日くらいダラダラしなよ」
「海人働くようになったらもうあれでしょ、お休みになってもどっこも行かないでしょ?」
「嫌、でも子供とかできたらあれだよ。夏休みとかゴールデンウィークちゃんとどっか連れていくって」
子供。
私は海人と美桜が子供を連れ新幹線を待つ姿をすぐに目の前に鮮明に並べることができた。
海人が海人そっくりの男の子を抱っこして、美桜にそっくりの女の子は美桜と手を繋いでいる。
海人と美桜、二人は中学三年生の夏休みから付き合っていた。
想像の中の美桜は勿論大人になっていて、でも少女時代の無邪気さは失われておらず、朝の光だけが似合うような少女から夕闇が似合う大人の女性になっていた。
海人は私が見たこともないような笑顔を子供と美桜に向ける。
私はこうゆう夢を、大人になった美桜と海人の夢を海人のアパートに通うようになってよく見るようになった。
夢の中の美桜はいつも大人になっていて、ツインテールにしていた長い髪はシュシュで一つにまとめられ、ほっそりとした一本一本手作業で作ったかのような職人技を思わせるような美しい長い足はロングスカートにすっぱりと隠されている。
美桜が一人で夢に出てくることはなく、夢の中の美桜はいつも海人と一緒だ。
そして私は夢を見ると美桜が生きていると確信し安堵する。
私が今海人とこうして週末を過ごすのはそれまでのつなぎなのだ。
美桜が帰ってくるまでの。




