2.
霧仁邸の、手狭な台所。普段は、奏瑪の従者たるアンドロイド、イルの戦場であるその場所で、少年は戸棚を漁っていた。
「確か、この辺にあったと思ったんだけどね」
「くすくす。奏瑪、これではありませんの?」
「どうして家の主たる僕より、君の方が見つけるのが早いんだ」
ロアの手には、戸棚から取り出されたインスタントコーヒーのビンが収まっている。それは普段奏瑪が飲んでいる安物で。しかし、イルが一工夫して、ただ使うよりもおいしく淹れられている。
「わたくし、コーヒーの香りには敏感でしてよ」
「客に探させることになるとは、軽く失態だね、これは」
「くすくす。普段、お台所に立つことがないのではなくて?」
「ほう、よく知ってるじゃないか」
「だってあなた、家事はいつもお母様に任せっきりでしたもの」
「ふっ、母、ね――」
奏瑪は別の戸棚からお客用のカップ、それから自分のマグカップを取り出し、コーヒーの粉をそれぞれに適当に入れる。
そして少々古い電気ポットから少量のお湯を注いで粉を溶かし、再度、そこに一杯分のお湯を注ぎこんだ。
「全く、リビングで待っていればいいものを」
「あんまり遅かったから、心配になりましたのよ」
「そんなに長く待たせた――とは思っていないのだけどね」
「時間にして、8分程」
「それくらい待ちたまえよ」
「とても待たされたのに、さらにこれ以上待たされるのは、あまり歓迎できたものではありませんわ」
ロアはそう言って、コーヒーの香りを嗅ぐ。そうしてから、それを一口すすった。奏瑪はそれを見ながら、イルが淹れるモノよりは大して良いとは言えないだろうと思った。
「――それにしても、君の姿をもう一度見る事になろうとは。まるで夢のようだよ」
奏瑪は、首元のリボンをなぞりながら言う。
「まさか、あなたがそれをつけていたなんて。思いもしませんでしたわ」
「当時の想いを、その後の想いを、忘れないためだよ」
「似合っていますわよ? 女の子みたいですけど」
「からかうのは止したまえ。そう言うつもりで付けてるんじゃない」
「くすくす、分かっていますわ。わたくしとの間の愛を、より実感します」
「――相変わらず君は、臆面なくそういう事を言うね」
「だって、事実ですもの。愛しくて、愛おしくて、愛し愛されたくて、わたくしはここまで来たのですから」
「――なにか、つまめるモノも出そう。コーヒーだけでは胃が荒れてしまうからね」
そう言って奏瑪は、ロアに背を向けて再び戸棚を漁り始めた。イルには量が制限されてしまっているが、そのうるさいメイドアンドロイドも、今はいない。
「くすくす。照れちゃって――かわいらしい」
ロアは、コーヒーを置いて台所の下部にある棚を漁る。物音をたてないように、こっそりと、少ない動きで。そこにある、世間一般的なモノを握るために。
そうして見つけた、金属色の刃。丁寧に、大切に使いこまれているであろうそれ。天井の光を反射し、鈍く輝く調理用品。
ロアは、その刃物――包丁の柄を握り、足音を忍ばせて奏瑪の背後に寄る。
「――そうそう、ロア。僕は知っているのさ」
「うん? 何をです、の――ッ!?」
ロアは、突然”自らの身体”と定義したモノが動かなくなるのを感じた。
「今の君が、本当はどう言う存在なのか。ここに現れて、何をどうしたいのか」
振り返りもせず、奏瑪はそう述べる。その声色は、どこか悲しげであり、諦めた様子でもあり、しかし怒りも滲んでいる。
ロアは、この身体がどうして動かないのか、その原因を探った。
コーヒーに毒か? いや、違う。そもそも、毒で動けなくなるなどありえない。この身体は、そう「定義」されてなどいないからだ。
ならば奏瑪のアンドロイドが。または、U生体が何かしたのか。だが、それもあり得ないと断ずる。今周囲に、あの二人を知覚できない。
そもそも、アンドロイドの方は引き離したし、U生体の方は、奏瑪がどう言うわけか自らの手で再封印した。わざわざ、その封印用のアイテムをこちらが用意していたにもかかわらずだ。
「君を作ったのは誰だと思っているんだい? U思考媒体――に生まれた新たな人格」
奏瑪は首元のリボンを解いた。――ロアは、そのリボンから微弱なU技術の反応を知覚する。
「――全て、お見通しだった、と言わんばかりですわね」
「そうだよ、全て『お見通し』だ。そしてだからこそ、またこの世界に絶望した」
ロア。もとい、U思考媒体へと振り向いた少年の顔は、様々な感情が複雑に絡み合っていた。U思考媒体の中にある人格の一つは、それに悲しみを覚え――他の人格に押し込められた。
「――いつから気がつかれていたので?」
「リ・アクティヴィティの崩壊後、君が見つからなかった時くらいかな」
「随分と早くからなんですのね」
「もっとも、確信を持てたのはもう少し後だけれどね」
奏瑪は、手に持ったリボンを広げる。
「リ・アクティヴィティの壊滅依頼。紅麻 林雄は、元々あの宗教団体の一員で、それなりの地位にいた男だと言う調べがついている。君に近づくことも、あるいは触れたこともあったのかもしれない。そんな彼の情報を基に、まず君はそのコピーを作った」
奏瑪は、動けないU思考媒体の首へと、リボンを結ぶ。かつて本当のロア――稗田 菫が、そう自身を装飾していたように。
「あるいは、自身の力でそのまま本人を書き換えたか。どちらでもいいが、まずそれにより自身の自由を確保することを狙った。教団が壊滅しなければ、たとえ脱出できたとしても、追われる事を恐れたからだ」
きっと、不慮の事故で命を落とさず成長していれば、まさにこの通りの姿になっていただろう。奏瑪はそれについて何も思わなくはなかったが、それらは全てなくなってしまった可能性だ。
「しかし、不可解なことはその後のことだ。どうして、僕と会おう等と思った? よりにもよって、その姿で」
「…………」
「そうでなかったら、僕もこんなことはしなかっただろうに」
U思考媒体は、首に巻かれた赤いリボンから、U原体を介した命令コードが流入してくることを感じた。
自身を構成するU原体の命令が、次々書き換えられていた。
「かナ、め――? 一体何ヲ……、」
「今から君は、世界を滅ぼすのさ」
全て諦めた顔で、奏瑪は微笑む。
「そのリボンには、U思考媒体へと命令が上書きされるように手が加えられているのだよ。隣接するO原体と結びつき、AE化合体となるように。しかし、それだけじゃない。変化する直前、U原体にはもう一つ別の命令が下されるようになっている。それは、自身と同じ命令を隣接するU原体へと転写する、と言うモノだ」
「イ、ぎぎ、ギ、ぎ――?」
「すると、何が起こると思う? U原体がU原体を侵し、そしてO原体と結びついてAE化合体と化しながらその範囲を拡大してゆく。それがネズミ講式に広がっていくのさ。そして、この限りある世界を、全て混濁としたAE化合体の塊にしてしまうのだよ」
それは、U思考媒体の機能があって初めて可能となること。このOとUで構成された世界は、こうすれば瓦解させてしまうことが出来るのでは、と言う推測を、奏瑪はそれの開発当初からしていた。
無論、問題点もあった。そもそもAE化合体自体が不安定であり、まるで互いを敬遠しているかのように、不定期な時間経過で元のOとUに分割されてしまうのだ。
だが、奏瑪は連鎖的に、そして分解速度を上回る速度でのAE化を起こさせることで、それを解決することを考えた。分解に追いつかない程の速度で変質させてしまえば、目論見は達成できる。
「僕の見立てでは、3時間7分42秒での世界崩壊が可能だ。もっとも、その内の2時間は、世界にとっての、人々にとっての『懺悔』の時間――即ち、崩壊準備期間となるわけだが」
『ロア』の姿はいつしか崩れ、白い白濁がただ形を取っているだけの曖昧な姿となっていた。人の姿をかたどっていた表面の凹凸が薄れてゆき、だんだんと内側から闇に侵され始めていく。
闇――誰も、他に形容することが出来ないであろうそれ。OとUが交わったことで、それはこの世界の誰も認知できない何かとなった。
そこに「何も無い」が在る。それが、AE化合体の正体にして、真実だった。この世界に置いてあり得ない。「定義されていない」がために、誰も知覚できない。
そして、全てそのAE化合体と化した後、その特性によってO原体とU原体に遊離するが、元の姿へと立ち帰ることは無い。OとUが乱雑に配置された混沌のみの世界が残るという結末が待っている。
「さあ世界、恐れるがいい。呪うがいい。これが、君が僕に対して行ってきたことの結果だ。全ての原因は君にあり、そして君が君自身を壊す原因を作ったんだ」
目の前の、白と黒の混ざった、もはや人型すら留めぬ何か。色合いはクリープを垂らしてひと回ししたコーヒーのよう。奏瑪はそれを、憎悪の熱と冷然さのこもった眼で見つめている。
奏瑪。
恍惚にも似た様子でそれを眺めていた奏瑪の耳に、聞きなれた声が飛び込んで来た。
「愛月――? ……ッ!」
壁がU原体由来の炎に撃ち抜かれ、破片が周囲に散らばった。
「奏瑪」
「おかしいな。僕は君を封印したと思ったんだけどね? どうして出てこられた」
「…………」
愛月を封印した石を、奏瑪は自身の机の上に置いておいた筈だった。しもべたるU生体は、こうして今、姿を現している筈などなかった。
いつもと変わることのない無表情。いや、そもそもそれを忘れた彼女に、表情を形作ることは困難で。変化のない様子で奏瑪の前へと歩いてくる。
「自力で封印を破るとはね。あれでも、当時のものよりずっと拘束の強い術式が組まれていたと自負しているのだけど」
「…………」
「――ああ、それとも。僕に裏切られた怒りが、君の力を増大でもさせたのかな。あり得ない話じゃない。U技術はU原体を変容させる術。滾る想いが、拘束を凌駕する、などと言う事も充分にあり得る」
となれば、このU生体は自身を殺すだろう。だが、奏瑪はそれに恐怖を感じてはいなかった。
何故なら、誰かに殺意を向けられることなど慣れたものだったから。特異さゆえに忌み嫌われ、忌避され、常に世界から弾かれていたために、かつては日常茶飯事だった。
そんな奏瑪にとって、それはまさに「今更」な事。それに、どうせ世界はすぐにその姿を保てなくなるのだ。ならば自身の命が消えてなくなることなど、それが早いか遅いかだけだ。
「やるなら急いだほうがいい。もう間もなく、世界は――」
「奏瑪が――……、」
「――うん?」
「奏瑪が、あぶないとおもったから」
「…………」
見上げてくる緑色の眼。表情こそなくとも、その目は言葉以上にそれを語っていて。
だから、奏瑪は少しばかり驚いた。思わず、心臓を跳ね上げかねない程には。
「――全く、君と言うヤツは」
彼女の目は、その隣でぽっかりと穴を穿っている異物のことなど、まるで見ていなかった。ただただ、一人の少年をじっと見据え――そして、彼の言葉を待っている。
「僕はね、今、世界を滅ぼそうとしている。それを邪魔されたくなくて、君を封印したんだ」
「そう」
「――何も思わないのかい?」
「――? なにが?」
愛月は緩やかに首を傾げる。そんな彼女の様子を見て――奏瑪は、ふっと軽く息を吐いた。
「ならいいさ。特に何も思わないならね。本当なら、世界の終わりが始まる様をここで見届けたかったんだが、気が変わった」
奏瑪は、静かに自分を見つめる狐のU生体を見返した。
「愛月。僕をここから連れ出せ」
「わかった」
愛月は柔らかな毛をふくらませている尻尾で優しく奏瑪を包み込むと、そのまま抱えて家の外へと飛び出した。
その背後では、ダムが決壊するように第一段階を経たAE化合体が膨れ上がる。混沌は広がり、短期間の間、少年が過ごした家を飲みこみながら。




