1.
しとしと降りそそぐ雨。天より注ぐ水が、大気中に漂っていた工場や車の排気ガスを地上へと還す、そんな薄暗い夕方ごろの空模様。
あいにくの天候の元、さらに日の光が僅かな時間帯。街外れの郊外、寂れた家々の並ぶ灰色の街を一つ、歩きゆく影があった。
その影は、街の色とよく似た色のトレンチコートを着ていた。山高帽を被り、身長およそ180cmの男性。髪は白髪交じりで、目元の皺から年齢は老年に差し掛かっていると分かる。
影――男はいくつもある灰色の豆腐に窓をつけたような建物の、その一つの前で足を止め呼び鈴を鳴らす。
電子的なチャイムが響く。普遍的だが、やや古びて劣化した音。ほどなくして、呼ばれた中の住人によって、その扉が開かれる。
「ようこそおいでくださいマシタ。失礼デスガ、お名前を伺わせていただきマスネ!」
その家のある裏通りは、スラム街か、とでもいうように薄汚れていた。今朝方にでもカラスがゴミ捨て場でも荒らしたのか、ゴミも一部散乱しており、しかし片付けられていない。
だが玄関より現れたのは、そんな周辺の様子とはミスマッチなメイドだった。
外観年齢は18歳程度。天使が一つ一つ紡いだような銀髪を腰ほどにまで流し、大変な価値を思わせる、磨かれたサファイアのような瞳を持つ少女。白い肌は白磁のようで、この上なく透き通っており、触れれば壊れてしまいそうな程の繊細さを有している。
しかしその上で、細い身体は決して弱々しさを感じさせず、完璧な調律。スレンダーボディは黒基調のワンピースにロングスカート、それから白いエプロンドレスを纏っており、頭には、さらにスタンダードなメイドらしくカチューシャが付けられている。彼女は見紛うことなく、まさしく「メイド」と言うべき容姿をした少女だった。
「私は先日メールで連絡させていただいた、紅麻 林雄と言う者です。私の知る限り、こちらは霧仁 奏瑪氏の住まいで間違いはありませんね?」
「紅麻様デスネ、お待ちしておりマシタ。ワタクシ共の主が奥の書斎でお待ちデス」
客人を持てなす、メイドの柔らかな笑み。だがその声は、どことなく機械的な角が出ている。
――警戒を解いたメイドの案内の元、紅麻はその家へと足を踏み入れる。
建物内は少々手狭だった。手を両側に広げようとすれば、何かに引っかかって途中で張れなくなった船の帆のごとく腕が止まる。
天井も一般的な家屋とはさして変わることのない高さ。奥行きもそれ程ではなく、本当に、ただの家とは大して差がない内装。
いくらかある扉も、特にこれと言って変わった点は無い。敢えて言うならば、フローリングの床だけでなく、壁やその隅まで非常に掃除の手が行き届いているくらい。
どこにでもある、ただの家。しかし、紅麻はこの家にある「普通」とは程遠いモノを求めてやってきていた。
「あ、申し遅れマシタ。ワタシはこの家でメイドをしておりマス、ライフサポートアンドロイド、『イル』と申しマス。部屋の扉の向こうは台所だったりリビングだったりデスので、期待されているモノはそこに存在しまセンよ?」
「む? あ、ああ、すみませんねぇ――」
紅麻は、彷徨わせていた視線をメイドに戻した。
「まあ、イメージとは合致しない場所であることは否定できませんけどネ! もっとおどろおどろしい場所に住んでいたほうが、納得できますデショウ?」
「おやおや、これはこれは。そんな滅相もない」
「いえいえ、よぉくわかりマス。こんなせまっこぉいお家でなく、古城とか。せめてアンティークなシャンデリアが室内を照らす豪邸に住んでいただけマシタなら、ワタクシも家事のし甲斐があると、常々思っているのデスガ――さて、そろそろ到着しマスよ」
「そろそろ? 多めに見て、多くもなく5m程度ですが。大して歩くでもなく、玄関を開けてすぐ見えるところに突き当りが――」
「すみマセン、見栄を張りマシタ。ここにお詫びいたしマス! 奏瑪! お客様がご到着なされマシタ!」
妙にフランクなメイドは、別に観音開きでも何でもない普通の扉をノックし、その奥がとても広い部屋であるかのごとく、入室を知らせる声を張った。
「ああ、いいよ。通したまえ」
対して、張るでもない声量の少年の声。聞き届けたメイドのイルは、穏やかな所作で扉を開けた。
「紅麻 林雄氏、だったね。ようこそ、この僕――霧仁 秦瑪の自宅へ」
少年の声。紅麻が明けられた扉の向こうへと目をやると。正面の書斎の机――の上に、今しがた聞こえた声の主“ではなく”、“それを遮って”なぜか変わった風体の少女が腰かけていた。
ややあどけなさを残す顔つきの少女。ややクセのある長い髪は黄金の稲穂のごとく。やや紅潮した頬は、桃の赤みを思わせ、何よりも愛らしさを際立たせている。
身長はそれほど高くなく、一見して体躯は小学校高学年、および中学生程度。ほっそりした手足で、どこか陶器の人形を思わせる風体をしている。だが身体にはしっかりとした胸の膨らみが自己主張し、妙に蠱惑的とも言えるような肢体だ。
その身を包むのは一般的な服装とは程遠い、桃色を基調とした和服。腰帯の後ろにはふさふさとした黄金の尻尾らしきものが三本、その上頭の上には、これまた同じ色をした獣耳が生えていて、それらは全て、狐のモノと思しき形状だ。
――加えて緑色の瞳は深く、暗く、例えるなら、鬱蒼とした藻の張り巡らされた湖の底のようで。見た者は、その心根の読めぬ在り様に戸惑い覚えるだろう。
「それで? 君は僕に何の用かな?」
「…………」
「ここを訪れる者、というのは大して多いわけではない。そして、大抵そう言った訪問者は宅配便か郵便局員が常だが、稀に君のような、僕の書斎にまで足を踏み入れることが――、」
「…………」
「――愛月。今ようやく9秒の間をおいて言うが、真正面に座られたら邪魔だよ」
「…………」
「退くどころか、抱きついてこないでほしいな」
少女は身をよじり、その向こうの人物の首に腕を絡めた。そしてようやく紅麻は対面する。
やや手狭な部屋で、左右に本がびっしりと詰められた本棚。がっしりしっかりとした机に、座り心地のよさそうな椅子。そこに、支配者のごとく腰かける黒髪の少年が一人。
白いワイシャツのその姿は、一見きっちりした様子。しかし、本人の無頓着さを表すかのように袖のボタンは止められておらず、首元も同じくして開けられている。
だが、ややだらしなさを感じる服装が、彼の中性的で不思議な雰囲気を際立たせてもいた。
まつ毛が長く、シュッとした輪郭。肌はやや青白いが、それが精巧な彫像のような美しさを放ち、一枚の絵画のようにそこに佇んでいる。
――そして、瞳。血のように真っ赤な瞳。ドロドロとした、悲哀とも増悪とも取れない負の感情を渦巻かせている様を覆い隠そうとして失敗したかのような、言いようの困難な目。
さらに、首元には赤いリボン。まるで切り取るために引かれたラインのようで、これまた見る者を不安にさせた。
「5ふんまった。これいじょう、このぬくもりをてばなすりゆう、わたしにはない」
「数千年も閉じ込められていたU生体の君が、今更5分ごときで何を言うんだい?」
「だから、こそ。わたしはこれいじょうまてない。ふれあい、だきしめあい、くちづけして、つながって、しんえんへととけこもう?」
「愛月サァン! 秦瑪はこれからお仕事なんデス! さっさと離れなサイ! だいたい、アナタはこの部屋に入ること自体禁止されていますデショウ!?」
紅麻の後ろから飛び出したメイドが、狐少女を引きはがそうと引っ張った。が、少年をがっちりとホールドした舌ったらずな少女は、それに対して必死に抵抗している。
「しったことじゃない。奏瑪はわたしのもので、わたしは秦瑪のもの。だから、あいしあうけんりがあるの」
「アナタの独断なんか聞いてなどいマセン! すみません秦瑪、お客様。今すぐこの駄狐をどこかへやりマスので! まったく、いつもいつも――ッ」
「いつも、と言えばキミもだよイル」
「――はい?」
「なんで紅麻氏は、土足のままここまで上がってきてるんだい?」
「……――ハッ!?」
メイドの、狐少女を引っ張る手が止まった。
「うちは土足禁止だよ。CPUにガタが来てるのかい?」
「やーい、おこられたー。なんどもおなじことするイル、おしおき」
「愛月、人のふり見て我がふり直せ、という言葉を聞いたことは無いかい?」
「わたしは、おきゃくをどそくであげたこと、ない」
「アナタはそもそもお出迎えをしたこと自体ありませんヨネェ!?」
――唐突に、賑やかになった部屋の中。呆然としながら、紅麻はおよそ10分の間待ちぼうけを喰らった。