八柳編「八咫烏」
今回は八柳視点で御座います。
俺の名前は八柳。
「八咫烏」が鴉天狗の一人である。
八咫烏は鴉天狗で構成された怪異の組織のことだ。
構成員は数百人。
俺は十三の組織の幹部たる存在だ。……偉いのだぞ?
目的は人間と怪異の均衡を守ること。その為に組織は永年一人の男を監視し続けて来た。
その男は黒鵺 鳴神。
「ふー、いい湯だなァ」
ただ今、山奥の八咫烏の総本山に居座り、温泉に浸かっている。
普段は人の形をしている癖に、どうも人間とは思えない。それに、今は人の形すらしていない。
「今回の土地神事件は貸しにしとくぜ。八柳」
「ふん。解っている」
温泉に浸かる300cmはある真っ黒な怪物がふり返った。
これが素の黒鵺 鳴神。
瞳は怪異の俺が言うのも何だが見れば恐怖のどん底に落とされる剥き出しの真紅。丸太のような両腕を生やしたまるで得体の知れないもの。
あまりにも本性が危ない為に今回だけは入浴中でさえも監視が必要になったわけだ。幹部クラスの監視がだ。
この男は先日断りも無く、この本性を丸出しにして戦った。
しかし、それも止むなきこと。とある村で土地神が暴走し、人間と怪異の均衡がどえらく崩れかけたのを止める為である。
神をも畏れぬとはよく言ったもので、この男には祟りも神通力も通じない。
神を止めるには同じ格のものが必要なのだ。
普段は体中にお天狗様の呪文を刺青の如く彫られ、弱くなったふりをしているも。……神を止める為にこの男は呪文の一字を肉ごと削り、消して、久しぶりに素の自分に戻ったわけだ。
土地神は見事止めたわけだが。
再び人間の成りに戻すのにどれだけ苦労すると思っているのだ。
まず、怪物になったこれを人目に触れないように総本山まで連れて帰り、再び大天狗様の力をお借りして人間にする。
一人の男にそれだけの時間と労力を費やす羽目になる。
「さくら、ってのは。土地神さんが守れなかった人間の娘らしい」
「土地神さまが先日暴走した際に口走った名前か」
「神様って言っても万能じゃねェ。人間一人にお力を注ぐわけにもいかねェしな。……昔、夜盗に襲われて死んだ娘を神さまはずっと想ってる」
「……」
土地神さまは暴走して、自分を乱暴に目覚めさせた不良数人を突き殺した。
それすらも、神さまは正気に戻って嘆いていた。
興味本位で、暇潰しで、 踏み入ってはいけない領域に踏み込んだ人間の為に。
「……神は、基本は不老不死である。生の短い人間一人の為に心を痛めていてはこの先存在していけない」
人間への情など虚しいだけだ。
「敵だった千尋に情を移したお前が言うか」
「八柳って人間みたいだもんねー」
「う、五月蠅いぞ。それに男の湯に入るな、千尋!!」
目の前の温泉に入るのは鳴神一人じゃない。
一人の少女と一緒である。
少し表情に乏しいアメジストの瞳の娘。流れるような美しい黒髪。怪異と人間の混血児・黒鵺 千尋である。この娘一人の為に怪物は人間の成りをしているのだ。決して彼女を傷付けないように。彼女を無事に育てられるようにと。
「兄ぃって本当は性別無い、よ。人間の格好の時は男だけど」
何がいけないの? と、娘は無邪気に首を傾げるだけだった。
俺としてはこの無自覚な千尋が心配で心配で仕方ないのだが。何しろ、お前は年頃になった。後輩の紅のような欲に塗れた輩は大勢いる。それなのに(育ての)兄とは言え、普段は男の存在の前で全裸になるなど……、
「……心配性にスイッチが入っちまった」
「八柳ってお父さんだね?」
「あ、あの~。黒鵺 鳴神さま。大天狗様の準備が整いました。お湯から上がり次第、お部屋にお越し下さいませ」
全く本当に慎んで欲しい。と、部下(男)の声に我に返ると俺は早速、一枚の羽根を手裏剣の如く飛ばした。千尋は入浴中なのだ。
「承った。その前に、お前は即刻出て行け」
千尋の全裸を見る前に!
「え、は、はい。失礼しました!!」
言わずとも察したように建物の中に飛び込んで行く未熟者の部下である。
「……」 「……」
「全く。……? 何だ二人共、その目は?」
「情がどうとか言ってたが。気付いた方がいいぜ、お前は手遅れだ」
「何が!!?」
涼しげな悟りきった男の声に俺は声を上げた。
※
「で、でででででで!!」
八咫烏総本山。
慈宮大天狗様のおわす住居は、奥ゆかしい巨大なもの。その開けた荘厳な客間に鳴神の悲鳴が響き渡った。
慈宮大天狗様は大きい。
天狗の中でも特に長寿のお方である。
天井に頭が付くほどである。きっと今で言う500cmはあるのではないか? ……ふむ。その大天狗様に鳴神の体は抑え付けられ、今、特殊な刃物で体に呪文一文字一文字を刻まれているのだ。刺青を入れているようなものか。
鳴神曰く、これが相当痛いらしい。
この儀式を行う時、千尋は別室に移される。自分の兄を心配するであろうし、何より、
「呪言を一文字削って元に戻ったか。……人間の成りに戻るのには全部刻み直しだと言ったはずだぞ?」
「いやァ。俺だって神さんの相手は流石にきつい……、て! 痛い痛い痛い痛い!!」
ばんばんばん、と床を必死に叩きながら鳴神は痛みを堪えていたが。矢張り、怪物の怪力に耐えられずはずもなく、畳を張った床は粉砕された。
何より、鳴神の激痛による抵抗に万が一にも出も巻き込まない為に、だ。
「床、貼り直しじゃの。……はい次」
「痛いって!!」
あれ? 大天狗様、楽しんでらっしゃいませんか?
……まァ、そんなこんなで。鳴神は呪言なる呪文を上半身に刻み込まれ、半日かけて人間に戻ったわけだ。
「兄ぃ、戻ったね」
「……人間に戻る、違うな。人間にされるのは相当の負担がかかるらしい。また丸一日は寝たままだろう」
俺は眠ってしまった鳴神を背負ってまた違う客間へ運ぶ。
この屋敷は巨大だ。城のように何十もの部屋が用意されており、組織に属する鴉天狗の部屋まで存在する。
怪物に戻るのに負荷も負担もかかるまい。それがこの男の本性なのだから。しかし。人間になるのは相当の負荷がかかる。怪物の寿命を削るほどに。
「……んー」
寝巻きを纏ったこれを布団に落とすと、寝返りを打つ。
この男は、人の言う戦国時代から生きている。寿命が削れると言っても長すぎるんじゃないか?
「この男との腐れ縁も、続きそうだな」
黒鵺 鳴神。
お前は怪異より歳をとらない。守って来た千尋だって、闇に還る時が来るかも知れない。
お前は、それでも生き続けて行くのか。
繋がりを得て、失って、を繰り返して。
この男だけは不変だと。
この時はそう思っていたのだ。