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しまった、と思った。
そこまで思慮が回らなかった。
……いや、わかってはいたのだけれど、ブラッドの豹変に気を捉われてしまって、思考が上手くできてなかった……というのが正直なところ。
午前に講堂であった事故。数時間前のそれを鑑みるに、ブラッドとヘルシング教授が同じ空間にいて、険悪なムードにならないほうが、たしかにおかしい。
案の定だった。
ブラッドは教授に紅茶こそ出したものの、険呑な相貌で、教授に警戒の目を向けている。
私としては取るに足らない事故だった。
それでもブラッドから見れば、きっと違う。
素直すぎる彼のことだから……このタイミングでの教授の登場は、ちょっとした禁忌だ。
私はヘルシング教授を招き入れてしまったことを後悔した。
そんな想いを知ってか知らずか――科学者というのは性根が太いのだろう――教授は飄々とした態度で、彼が淹れたアール・グレイを口につけている。フードを被った人はその隣で、カップには手をつけず、終始うつむいていた。
私の疑問と焦燥の目を気にもせず、教授は紅茶を啜りながら、
「ア―カード君。今日、足を運ばせて貰ったのは外でもない、きみの見解が聴きたくてね」
と、教授は手を編み、
「講堂で見せた死体――きみは、あれをどう視た?」
「……どうって……」
そんなあけっぴろげに訊かれても困る。
返答なんて決まっているもの。
生きている――だけの――死体だ。
「教授の意図が把握しかねますが……」
「構わんよ。好きに述べてくれ」
……なら、そうしよう。
私は舌の上で言葉を選んで、
「……あの死体を『生きている』と定義付けるには、少し強引が過ぎる気がします。確かに痛覚を感じ、脳波を返し、内臓も健常者のそれと同等ではありましたが……あれでは動物ではなく、植物のそれです。死斑が体表面や内臓からも観察できなかったことから、循環器は正常に機能し、生物的には生きていると定義できるのでしょうが……自由意志を表現できないものを、人間として生きているとは……とても……」
「ア―カード君」
カチャ、と教授はカップを置き、口を挟んだ。
そしてテーブルに肘を投げて指を編み、
「私が訊きたいのは、そんな模範解答ではなくてだね」
「はあ……」
「つまり、健常者と同等の身体を得ても尚、何故あの死体は覚醒しなかったか――ということだよ」
私は首を傾げる。
わざわざ訊くまでもなく、とても簡単なことだからだ。
死んだことにより脳機能の一部が――あるいは、殆どの機能が停止したからに決まっている。
船の機関が生きていても、水を掻くプロペラと操舵桿が無ければ動かせないのと同様に――人間の身体も、特定数のオブジェクトが生きていなければ、人間としては成り立たない。
人間として、機能しないから。
だから、生きてはいない。
「……平然と」
私は言う。
「それが摂理だといわんばかりの当然顔で、死者が蘇ることは、あり得ないことだと思います。たしかに終わった命を蘇らせることは、科学者の卵である私にとっても興味をそそる題材ではありますが……やはり、それは神を冒涜しています。許されることではない……だから、死体は蘇らない……」
とはいえ、『だから』もクソもなく、死んだものは蘇りえない。
それが摂理。
言い終えた私は、恐る恐る教授を見る。
怨みがましい目が私を見ていた。
「呆れたよ」
と。
「まったく呆れた。いやしくも我が大学の医学部に属する者の答えではない。ア―カード君は優秀な生徒だと思っていたが……どうやら考えを改めねばならんようだね」
ヘルシング教授は辛辣だった。
「私の考えはこうだ。――人間は生きる上で、さまざまな記憶を脳に刻みつけねばならない。だが、脳が『記憶』できる容量は限られている――この場合、『記憶』とはなにも過去の経験の内容だけを指しているのではない。“身体の動かし方”や“脳の扱い方”、“身体機能におけるありとあらゆる情報”のことを指す。
普通、人間が生きているような期間であれば、脳用量に不足は起こらないが……しかし、“それ以上の『記憶』を植え付けられた”場合はどうだ? ともすれば容量オーバーを起こし、膨大な『記憶』が脳の動作を停止――または、遅くしてしまうことが起こり得る。その可能性は否めないだろう」
「……教授、その……」
得も言えない不安が、私の胸を締め付けた。
憮然と、それでいて漠然とした物言い。
確信的な部分には触れてはいないけど……言葉の隅に燻る違和感は……なに?
私は教授の話の意図を、頭蓋骨のなかで組み立てる。
講堂で見た死体……
植え付ける……『記憶』……?
用量を超え、機能を停止する身体……
その言い方は……まるで……
「……教授の仰っている意味が……よく……」
つまりだね、とヘルシング教授はテーブルに身を乗り出し、
「要は『器』なのだよ。膨大な“機能”を落とし込める“生体としての器”が必要なのだよ。きみは昼に見せた死体の脳が既に死んでいる――と、そう思っているだろうが、しかし違う。あれは講義の数時間前に拵えたばかりの“新鮮な生体”だ。だから死斑が固定されているはずもない。血流が途絶えると、脳は数分も持たず酸欠になるのは、当然きみも承知だろう? 私がそれを考慮しないとでも思ったのかね」
脊椎に氷のように冷たい怖気が走った。
教授は、いったいなにを言っているの……?
当然の口調で語られる禍々しき呪詛。決して聞いてはいけないことを耳にしてしまった――そのおぞましさが、私の思考と言葉を根こそぎ奪っていく。
いつから?
いつからそうだと錯覚していた?
けれど、“それ”が“それ”じゃないだなんて……そんな悪魔みたいなことを、いったい誰が想像できただろうか。
信じたくない。
でも、考えれば考えるほど、辻褄が合っていく。
まさか……
まさか本当に、講堂で見たあの死体は……
「……“死体じゃなかった”……?」
これ以上踏み込んではいけないと、そう本能で察していたのに。
無意識に私は、そんな呟きを口にしていた。
ふん、と鼻を鳴らす教授の顔は、否定の色を示してはいない。
「あの実験は失敗だったのだよ。『不死の血』を投与した結果、脳の容量を遥かに超える『記憶』に対処しきれず、試験体は昏睡状態に陥った。そして、『不死の血』を得たにも関わらず、傷に対する治癒能力の向上も見られなかった。私はそれら結果の一部を、きみらの前に晒したに過ぎん。所詮、あれは『記憶』を留めておける器じゃなかった――」
――それだけの話だ。
と。
まるでモルモットを実験体にしたような物言いに、私は強い嫌悪感を抱いた。
人間を“あれ”と揶揄するヘルシング教授の神経が理解出来ない。
倫理的な常識を完全に逸している。
「……教授、あなたは人の命をなんだと思って……」
くつくつと煮え返る腹を抑えつつ、喉から絞り出した声は、弱々しいものだった。
粟立つ腕を抱きながら、キッ、と睨みつける。
だけど教授はにべもなく、
「命は命だ。それ以上も以下もない。……それにだよ、ア―カード君。命の価値を謳いたいなら、もう少し引いた視点で天秤を測ってみてはどうかね? 私が行っているのは『不死』の実験であり、つまりそれは、得体の知れぬ難病に苦しむ数億の人間を救う手段の研究でもある。十や二十の命と引き換えに億の命を――これから生まれるであろう、十億百億単位の苦しみを癒し叶う偉大な研究だ。この研究には、人命を消費するに足り得る価値があると、私は思うがね?」
「……真っ当に聞こえはしますが、それは戯言ではありませんか教授。私が子供だからって、適当な誤魔化しが利くと思わないでください」
相槌が欲しいわけではない。
持て余した憤りを吐露したに過ぎない。
だけど、簡単に肩をすくめてみせる教授に、噛み付かないわけにはいかなかった。
私は間髪与えず続ける。
「医学の進歩向上を目指すが為に、同類である人間を実験材料として使うなんて言語道断です。例えいかなる理由があろうとも、人道的配慮や倫理観を一切置かず、人体実験を行うなんて……ヘルシング教授は間違っています。あなたの良心が痛まないんですか?」
良心――と、そんな薄っぺらい言葉を持ち出してしまった自分に、内心苦笑する。
それでなくても、私の言葉が教授に届くとは思えない。
私は、いままで上手い具合に猫を被っていた教授の本性に怯えていた。近い間柄ではなかったけれど、尊敬していた相手に裏切られたという思いが――歪な思想を持った言葉が、私を不安の奥底へと追いやる。
そんな敬愛すべき人だったヘルシング教授の笑みは、いまやどこまでも狡猾に歪んで見え、
「ア―カード君としては、赦せるか否かの解り易い図式が欲しいのだろうけれどね。しかし、そう随分と好意的な解釈をして貰っても私が困る。君が見出す良心は見込み違いだよ。“間違った優しさは狂気と同義だ”。悪いが、茶番に付き合っていられるほど、私も暇ではないのでね」
そろそろ本題に入らせて貰う――と。
やや強引にも、教授はそう切り出した。




