-002-
案の定。
いや、予定通りと言うべきか。
リシェルの大学の講堂では、すでに講義が始まっていた。
なぜだか“甘い香り”漂う大きな講堂――その中央には卓があり、恐らくは教授だろう白衣姿の男が教鞭をとっていた。その傍らには白布で覆われた解剖台が置かれ、なにやら複雑な機器類が台を取り囲んでいる。
講堂の扉を開く音に、静聴していた生徒数十名の顔がこちらを向く。
卓の前に立つ教授は、
「遅刻かね」
と、不機嫌そうに眉をひそめ、リシェルを一瞥する。
リシェルは物憂げに視線を下へ落とし、消えそうなか細い声で、
「申し訳ありません、ヘルシング教授。実は今朝方……燕尾服を着た、血色の悪そうな顔色の変態に寝込みを襲われまして……」
「なんと」
……なに?
そんなことがあったのか?
初耳なのだが。
「胸を触られました。ふにふにと」
なんだと?
許せん。殺してやる。
「……それで、大丈夫だったのかね」
「ええ」
我は怒りを覚えた。
我の知らぬところで――リシェルに仇なす輩がいたとは――不覚である。
後でリシェルに問いただし、その者に相応しい罰を与えねば。
「私は大丈夫です。無駄なお時間をとらせてしまいました。どうぞ、続けてください」
盛大に遅刻したにも関わらず、到って冷静に優雅な所作で席につくリシェル。
我もその隣に座りたいものだが……しかし、きっとリシェルが怒るだろうから、入口で待機せざるを得ない。
教授は彼女の促しに咳ばらいをし、講堂を見回した後、講義に戻る。
「まず言っておかねばならないだろう。諸君らの耳にも当然届いているだろうが、先日ロンドンを賑わせた――『フランケンシュタイン』が生み出した、と噂される『怪物』についてだ」
――怪物。
別段、講義に興味はなかったが、その言葉は我の耳を立てさせた。
「北極探索隊が北極圏で発見した『氷漬けの女性』。それが、かの有名なヴィクター・フランケンシュタインが生み出した『怪物』なのではないか――……というのは、正直なところ解明できていない。しかし、発見された『それ』を調べていくうちに、重大な事実が判明した。氷塊の中で見つかった『それ』の体細胞が、なんと生きていたのだ」
「生きていたっ!?」
と、大声を放つのはリシェルだ。
思わず声が漏れ出てしまったのだろう。しまった、という顔をしている。
「私語は慎みたまえ」
「申し訳ありません、ヘルシング教授……」
「しかしまあ、驚くのも無理はない。なんせ見つかった場所が場所だからな。英国が北極を探索し始めたのも、ここ数年のことだ。未開の地とされていた北極から『怪物』が――それも氷の中で見つかった細胞が生きていたのだから、私とて驚愕しなかったと言えば嘘になる」
教授はリシェルを指差し、
「きみ。これがなにを意味するか、わかるかね」
「……『不死』……でしょうか……?」
意を得たり、と満足げに頷く。
「その通りだ。仮に、その不死細胞のメカニズムを解明できたとすれば……我々の考える人のあり方は、一夜にして一変するだろう。古来から人は死を――そして限りある生を受け入れてきた。だがしかし、その考えも既に過去のものとなろうとしている」
これを見たまえ――と、教授は傍らにあった検死台から、キャンパス地の白布を取り払う。
姿を表したそれに、生徒たちが一斉にどよめき立つ。
我も目を見張った。
それは死体だった。
人間の女性――まだ出来て日も浅いのだろう――まるで生きているかのような、豊潤な薫りを放つ死体。講堂に入って我の鼻孔をくすぐっていたのは、これだったのだ。
ドクン……と心臓が高鳴る。
「……やあ、とても……」
……美味そうだ。
できれば処女――その生き血――が望ましいところではあったが、兎にも角にも、生きていようが死んでいようが人間の女性のそれに変わりなく。女の血液となれば、やはり我とて贅沢は言わない。
土色に変わる前に、是非ともこの歯牙にかけたい。
我はあれを欲している――血を啜りたい欲求が、我の牙を疼かせる。
恍惚に煌いていただろう我の眼が、ふと鋭い視線とぶつかった。
リシェルがこちらを見ていた。
「――…………」
……無論だ、承知している。
我はヴァンパイアであるが……しかし、交わした誓いを違えるような愚か者では決してない。
リシェルはベレー帽をくしくしと被り直し、注目の的である検死台に向き直る。
生徒たちの反応が芳しかったのだろう――教授は我とは違う恍惚の眼で、嬉々とした声を講堂へと振り撒く。
「これは数時間前に“ある血液”を投与した死体だが……さて、諸君ら。そこからでは良く見えないだろう。前へと移りたまえ」
機械に繋がれた死体の前へと移動を始める生徒ら。
死体を目の当たりのするのが初めてなのか……あるいは、血を啜りたい本能を理性で閉ざし、我のように振舞いに戸惑っているのか……その判別は利かないが、皆恐る恐る、揃いも揃って雛鳥のように集まっていく。
生徒が粗方揃ったところで、
「これから簡単な実験を行う」
言って、教授は解剖台の隣に置かれていた金属器からメスを取り、躊躇なく死体の腹へと突き立てた。生徒たちの間に小さな悲鳴が湧きたち、人間の肌の裂ける心地の良い音が、我の鼓膜を震わす。
溢れ出る、とはいかないが、じんわりと体面に赤い血液が浮かび上がる。
ピピ、という電子音が鳴った。
「……えっ?」
そこで目蓋を薄めるリシェルがうめいた。
教授はニヤリとする。
「気が付いたかね、ア―カード君」
死体と繋がれた機器が脳波を感知し、音を発したのだ。
そのモニタには、痛みを感じていることを示しているのだろう、信号の波がモニタリングされていた。
「つまり、この死体は“生きているのだよ”」
嬉々と教授は笑みを浮かべつつ、差し込んだメスを尚も深々と押し込む。
割れた腹部の中は……ああ、なかなかどうして、我の従える犬どもが好みそうな、見るからに健康体の……開けられた器いっぱいに、血滴る肉が詰まっていた。
人間の目には、見るに堪えない光景だったのだろう。
生徒の一人がその場で嘔吐した。
解剖台を赤に染め、白衣を濡らし、床に散る血液。裂けた腹部からは、健康そうな臓腑が照明にてらてらと光っている。我ら夜の住人にはこの上ないディナー……いや失敬、この時間ならランチか。どちらにせよ、極上の喰事に違いない。
我は喉を鳴らしつつ、いまにも駆け出しそうな身体を必死に抑える。
突き立てた爪が手の平に突き刺さり、淡い痛みを発する。
「……ぬ、うぅ……」
欲求を制圧する我の苦労も知らず、尚も教授は死体をいたぶる。
……まったく。生殺しもいいところだ。
モニタリングされた信号が音とともに揺れ、死体の痛覚を電子的に示す。
「教授、もうやめてください」
と、解剖台に声を投げたのはリシェルだ。
彼女は、それでも止めようとしない教授の持つメスを奪おうと、台へと駆け寄った。
そこで事故が起こった。
振り払う教授の手が――誤ってリシェルの腕を切りつけたのだ。
「……貴様……ッ!」
目を見開き、牙をにじった。
そして、気が付いたとき――
我は入口から解剖台の前まで疾駆し、教授の腕を掴みあげていた。
「……な、なんだ? 誰だ?」
突然のことに驚いたのだろう。
教授は狼狽の色を示す。
その愉悦に浸っていた顔が、サアっと血の気を引いていくのが見てとれた。
「ブラッド、やめて!」
リシェルが我の服を掴み、力強く言った。
人間とは酷く面倒だ。
己れに危害を加えた対象を庇う――その思考回路は、我には到底理解出来ない。
「なぜだ?」
我の問いに、しかし、リシェルは眼光を鋭くする。
「言うことを利きなさい。その手を放しなさい、と私が言っているわ」
「……ふん」
手を開くのにえらく苦労した。
このような場所でなければ、間違いなくその細腕をへし折り、臓腑と脂肪の詰まった腹を引き裂いて、我が犬どもの餌にしてやったものを……。
「すまない、ア―カード君。そんなつもりはなかったんだ……」
言いつつ、腕を解放された教授は、おろおろと狼狽の体でリシェルに歩み寄る。
溢れ出る血を滴らす腕を取り、そして動きを止めた。
「――は、放してくださいっ!」
リシェルは手を振り払い、後ずさるように距離を取る。
我はその間に身体をすべり込ませ、
「退け……殺されたいか?」
無上の殺意を込めた相貌で、キッと睨みつけた。
教授は恐怖と“何か”が混じった歪な半笑いを浮かべていた。
――そして、この事故により講義は中止となる。
我はリシェルを両腕で抱き上げ、そのまま講堂を後にした。




