-015-
陽は傾いて夕暮れ時。
彼を送り届けたわたしは、教会の秘密の通路へと足を踏み入れました。
階段下からむっと湧きあがってくる腐乱臭……エポワスと同等かそれ以上の芳香に、思わず顔をしかめます。
「……ものっそ臭い……」
階段は酷くほこりっぽく、ブラッドさまがこの場に居合せたなら、間違いなく掃除を始めることでしょう。そんな掃除し甲斐のある、平たく言えば古めかしさが、この通路からは伺えました。
見たところ、最近造られたようなものではなさそう。
踏みしめる石造りの階段は、長い年月に穿たれ、ところどころ欠けていて――通路壁には、等間隔に十字架が埋め込まれています。
地下墓所……でしょうか?
カツ、カツ、と木霊する足音が、そこで止まります。
前方に明るさを感じ――手持ちランプ以外の明かりに、わたしは警戒の糸をぴんと張ります。
辿りついたそこは思った以上に暗くなく――すべてがありありと。
「…………っ」
だからこそわたしは足を止め、その恐るべき光景に息を呑んだのです。
壁に色濃く残された血、血の跡。
天井からの吊ランプで暴露される、生々しい人間の“中身”。
鉄製テーブルには、まだ肌色を残した生首と、胴体から無理やり引き抜かれたように太い神経を垂れ下げた首と、四分の一カットされて頭蓋のディテールを晒しているモノがひとつ。そのとなりで銀盆を満たしている液体はエーテルかホルマリンか――どちらにせよ、そこにぷかぷかと浮かんでいる眼球は偽物では決してなく、かつて人間の一部だったモノというのは明々白々の明白でした。
医療器具がずらりと並べられる棚には、関節ごとに切り離された――指だった、手だった、腕だった、足だった、人の形を象っていたモノ――それらは面影もなく雑然としたお肉として、テーブルだり、容器の中に納まっています。
脇にはカゴに畳まれた服――血色に染まるそれは、恐らくバラされた被害者の衣類と見受けられ……それが几帳面にも折り畳まれていることが、かえってこの異常な空間に偏執的な狂気を感じさせました。
そして、
「……上で随分と派手にやらかしたようですね?」
白衣を着た医者風の女性は、わたしのほうを見もせず、検視台の上に置かれた死体を弄くりながら、そう。
「……“フローレンス・ナイチンゲール”。やっぱりあなたの仕業でしたか……」
薄く笑みを浮かべる『彼女』。
ランプの明かりに照らされるその頬は、わたしと同じように糸で縫ったような跡があり――それは首や腕、白衣の下の見えないところにも、ツギハギを縫いつける跡として刻まれているはずです。その見間違えようもない刻印を見るのは、実に百年ぶりのことでした。
「随分と陰気なものですね。ヴィクターの創造した『完成された人間』……わたしの片割れであるあなたが、こんな地下でお人形遊びですか?」
「ヴィクター……その名を聞くのも久しいですね」
遠い目を死体に向けるフローレンスは、そっとメスを置き、向き直ります。
「彼は天才でした。発明家として私たち“人間もどき”を造り上げ……神の定めた生命の摂理を覆そうとした。しかし、ヴァン・ヘルシング教授もそうですが、神に火の粉を振りかけるには少し能が足りなかったようです」
思わぬ名前を口にされ、
「……あなた……ヘルシングを知っているのですか?」
「あら」
当惑するわたしに、しかし彼女は当然と言った風で、
「ヘルシングにあなたを渡したのは、他ならぬ私ですよ? 北極探索隊を差し向けたのもそう――クリミア戦争後に政府や軍のほうに融通が利くようになりましてね。いまでは出来ないことを探すほうが難しいくらいです」
「……『白衣の天使』が随分と腹黒いことを言うじゃないですか」
「ふふ、女の子はちょっとトゲがあるくらいが丁度いいのですよ。それに、あなたは気に召さないでしょうけれど、この場所は色々と融通が利きましてね。このホワイト・チャペルには死んでも困らない、気にもされない人たちが多くいる――ヘルシングはもう少し考えるべきでした。生きた被検体が必要なら、『切り裂きジャック』など装わず、戦場かスラムを選ぶべきだったのです。私のように、ね」
「……切り裂き……ジャック……?」
ちょっとわからない単語が出てきました。
「知りませんか? ちょっと前に噂になった殺人鬼です。生前のヘルシングが被検体確保のために雇った――……まあ、それに乗じてわたしが街に出ることもありましたが、ロンドンの惨殺、失踪事件の大半は彼女の仕業です。ほら、鎌を持った女性がいたでしょう?」
「ああ、あの……」
黒いフードの大鎌携えたあの人か……。
ワンパンチで死んじゃったので、どうも記憶に曖昧です。
「あなたが独りここにいるということは……どうやら、彼女はもうこの世にはいないみたいですね。男の子も同じように?」
「男の子……アラン・ウォーカーですか」
「あら。知り合いでしたか」
「いいえ。顔を知っている程度です。話したこともありませんし、死んだからといって別段思うこともありません」
「そう……私としても、いまの段階で巻き込むつもりはなかったんですけれどね。そもそも、アランは生きた被検体でした。私たちの中に流れる血液……ヘルシングのいうところの『不死の血』を投与されたモルモット。彼が行った生体実験は失敗に終わってしまいましたが……しかし、着目すべき点は心得ていました。ただ、需要範囲の低い“成人”を選んでしまったのがいけなかった。ちょっとした手違いが――偶然が――“彼ら”を刈り取ってしまった」
植えた種がようやく芽吹いたのに……。
などと意味深なことをいうフローレンスでしたが、それについて追従は無駄でしょう。彼女が無駄に多くを語らないのは、わたしが一番よく知っています。
「ですが――」
と。
フローレンスは得も言えない顔を作ります。
深淵をのぞき込み、歓喜に打ち震えるような、悪意に満ちた表情を。
「それが僥倖だった、とも言えますね。なにせ、彼らのおかげで、とうに滅したと思っていた血族を見つけることが出来たのですから」
「……血族?」
「そう。吸血鬼――つまり、ヴァンパイアですよ」
「――……っ!」
やはり彼女はリシェルさまの秘密を知っていた――表面に出すつもりなかった狼狽を、しかしわたしと同じ能力を有する彼女が察しないはずはありません。
「……ラルラウア、あなたも知っていたのですね。……いや、あるいは懐柔された、のか」
フローレンスは顔の縫い目をなぞるように指を滑らせ、
検視台に横たわる死体の脳を取り出し、
「けれど、なにもそれは恥ずべきことではありません。私たち『完成された人間』であろうとも『完全な不死の血』には逆らえない。その“血”は野蛮で暴力的と言っていいほど人間の精神……心の奥底まで魅了を果たします。強い欲求に対する報酬――どれだけ親しい人を相手にしても、血を求めれば倫理や理性を度返しにさせる――長い年月をともにし、愛し愛され培った絆を単純な欲求の元に一瞬で崩壊させしめる――……そんな、ある種洗脳と言ってもいいほどの暗示を、その脳に、遺伝子に直に書き込むのですから。……実に素晴らしい」
よりにもよって、フローレンスは、それを――肉体から切り取った脳髄を――こちらに放って寄こしました。驚きと嫌悪がわたしを瞬時に占領しましたが、反射的にそれを受けとってしまいます。
「……ラルラウア。“その中”に詰まっていた意識が、どれほどの悪意を有し、どれほどの害悪を散らすのか……あなたも知っているでしょう? そして、それは過去、あるいは現在であろうと変わらないことも」
「…………」
返せる言葉はありませんでした。
わたしは押し付けがましい“違い”による迫害から逃げ、百年の時を氷の中で過ごしました。
その痛ましい記憶は、揶揄されずとも、理解するまでもなくわたしの身体に沁みついています。ちっぽけな脳の裡に、深々と刻まれているのです。
「そもそもからして、ヒトの脳は悪いニュースを優先的に見つけ、処理するメカニズムが組み込まれ、危険をはらむ言葉や出来事に敏感に反応するように出来ています……つまり、“違い”ばかりを見つけ出し、効率的に排除・迫害する機能が備わっているのです」
悲惨ですね、となにが可笑しいのか笑みを浮かべる彼女。
同じ存在でありながら、ぞっとします。
「だから私は考えました。そんな喜劇とも呼べる悲劇から人を救うには何が必要か……そして思考の末に、私のは『不死の血』を用いての“誘導”に行き着きました」
「……誘導?」
「ええ。あなただって思ったことがあるはずです。国、民族、宗教、身分格差……“違い”の押し付け合いによる争い。……くだらない、と」
……なるほど。
フローレンスは、だから『不死の血』を――完全な洗脳力を持つヴァンパイアの血に着目した。彼女の言う“誘導”とは、きっと全人類を吸血鬼と化し、“この世界の有り方全てを別次元に誘導させる”という意味でしょう。
それはいがみ憎しみ合うことも、奪い争うこともない……完全な一個とした世界。
「フローレンス……あなたは吸血鬼の特性を利用し、死者の帝国を作ろうと目論んでいる……」
道理ではあります。
全ての境界を無くし、生死すらをも遺脱した『完結した世界』――。
けれどそれを理想郷と評していいのか……。
あるいはディストピアではないのか……。
「死者の帝国……とは、面白い表現ですね。概ね間違いはありません。……ですが、あなたはひとつだけ大きな勘違いをしている。王になるのは私じゃない。この英国を――後に世界を牛耳って頂くのはノ―ライフキング――」
「――夜の王、ブラッド・コール・ヴァレンタインなのですから」




