-009-
最初に聞こえてきたのは、ポタリ、ポタリという音だった。
雨樋から零れる雫……のような音。
無性に喉が渇いているのが理解できた。
沼の底からはいでるように、俺の意識が覚醒していく。
「…………」
目を開けようとするが目蓋が重く、なんどか目を瞬かせる。しばらくすると、ぼんやりと木造りの天井が見えてきた。パーティ会場ではない。リシェルさんの屋敷でもない。
見慣れた、自分の部屋だ。
俺は億くうがる身体に鞭を打ち、ゆっくりと起き上がる。
右へ、左へとゆっくり首を振る。
薄暗い自分の部屋――なぜ俺が自室にいるのか、その経緯は全く思いだせなかった。時系列がちゃんとしない。ある一点からごっそりと記憶がもぎ取られたかのような混乱……窓の外を見ると、澄んだ夜空に鋭利な三日月がいやらしく笑っていた。
「……なんか、すっげー嫌な夢を見ていたような気がする……」
汗ばんだ身体。押しかえすベッドの感触は、嫌な具合にべたついて気持ちが悪い。
何故だか頭の奥がぼうっとした。
地に足がつかない浮遊感――いまだ夢の中を彷徨っているかのような不明瞭な感覚。
俺はベッドから立ち上がり、おぼつかない足取りで台所へと向かう。
冷水で顔を洗えば、このフラフラする頭も治まるかもしれない。なにより、口の中がカラカラで、とにかく喉が渇いて仕方がなかった。
よろける身体を壁に沿わせながら進み、やがて部屋に出た。
窓からわずかな月灯りが差しこんで、部屋の中は青白い空間が広がっていた。机の上のランプの火がゆらゆらと揺れて、大きな影を作っている。目で、その大きな影の元を辿っていくと、
「……おばさん……」
影の主はローザおばさんだった。
おばさんは机に倒れ込むように寝ていて、お団子にされたブロンドの髪の隣には鍋があった。
なぜだかわからないが、とてもいい匂いがした。
鍋にはスープが入っていた。
空腹は酷く、喉も干からびそうに渇いていたけれど、不思議と飲みたいとは思わなかった。
「…………」
俺はその場に立ちつくす。
数十分……あるいは一時間。
自分でも信じられない欲求と、それに対する葛藤があった。
喉を何度鳴らしたかわからない。手を何度宙に泳がせたかわからない。震える顎から涎がこぼれ、いつの間にか足もとには水たまりができていた。
「……ん」
ぴくっ、とおばさんの肩が揺れた。
それに驚き、俺はビクッと全身を強張らせる。
「……アラン……?」
俺に気づいたおばさんは、椅子を倒して立ち上がる。
そして両手で迎えるようにして、俺をぎゅっと抱きしめた。ふくよかなおばさんの腕。仕事でガサガサになった手が、俺の頬を、髪を何度も何度も撫であげる。
あたたかい、と思った。
耳元におばさんの優しい息がかかる。
――もう大丈夫なのかい――痛いところは――なんだってあんなところに――丸一日ずっと寝てたんだよ――心配かけて――馬鹿な子だよ――本当に馬鹿な子だよ――でも、
「よかった、本当によかった。よかったよ……」
やがてローザおばさんはそっと身を放し、袖で涙をぬぐった。
優しいおばさんの顔がそこにあった。
「おばさん……」
限界だった。
俺はローザおばさんに聞こえない声で、小さく何事か呟く。
おばさんは、俺の言葉を聞こうと耳を寄せる。
その直後。
俺はおばさんの首筋に噛みついていた。
ぷつ、と肉が破れ、薫り高い血が噴き出す。おばさんはぎゃあぎゃあと叫ぶが、俺はおばさんを放そうとはしない。構わず顎に力を入れる。たっぷりと口腔を満たす血液を舌で愉しみ、そして呑み下す。
……おばさん。
……ローザおばさん。
俺は、なぜだか遠い昔のことを思い出していた。
ローザおばさんは、俺にとって母親も同然だった。
幼い頃の俺は、お世辞にもまともな生活をしていたとは言い難い。
英国は豊かな国だけれど、その光のような豊かさにもやはり影がある。産業革命によってもたらされた裕福は、それまであった身分格差をより大きなものに変えてしまった。このロンドンだって、それは変わらない。
俺はローザおばさんに出会う前、ロンドンのイーストエンドと呼ばれる貧民街の一角で、乞食をやっていた。
ホワイトチャペル地区――かつて俺が住んでいた場所。
白い礼拝堂っていう綺麗な響きを持つ名前とはうらはらに、その実体は、ロンドン中のあらゆる貧困と悪徳と犯罪がはびこる、悪夢の温床のような場所。曲がりくねって気味の悪い路地が蜘蛛の巣のように張り巡らされていて、薄暗い散々とした空き地がそこら中にあった。
母親が疫病で死んで以来、身よりのない俺は乞食、浮浪者になるしか道がなかった。父親は元々いなかったし、だから当然顔も知らない。言いたかないが、俺の母親は娼婦だった。
そんな場所に住むやつらに良心など微塵もない。
少し裏通りに入ると、ありとあらゆる犯罪が真っ昼間から行われていたし、土地勘のない人間が、うかうかそんな所に行こうものなら大変な目に合う。俺もそういう世間知らずな奴が、大変な目にあっているのを数えきれないほど見てきた。
ギラギラと残忍な目つきの下卑た笑いを浮かべた輩に襲いかかられ、身ぐるみ剥ぎ取られ、骨を何か所も折られたり、命を無くすことだって珍しいことじゃない――……なんて、他人事みたいに言ってるけれど、俺もその輩のひとりだった。
いまさら自分の過去に言い訳をするつもりもないけれど、生きるためには仕方のないことだってある。飢えは簡単に人間を怪物にしてしまう。
女の子なら売春婦になって、外国の船員や労務者相手に食いぶちを繋ぐことができただろうけれど……それだって俺の母親みたいに病気になってしまえばどうしようもない。
どうしようもない。
そう。
俺の住んでいた場所は、どうしようもないクソったれな場所――。
そんな場所で、俺はローザおばさんに出会った。
決まって金曜日の正午になると、ローザおばさんはホワイトチャペルに似つかわしくない整った身なり、似つかわしくない馬車を引いてやってくる。
おばさんは『ブレット・マザー』なんて変な名で呼ばれていた。
荒み果てた広場に大風呂敷を広げて――浮浪者や乞食に、ブレッドとミルクを振舞ってくれる。そしてローザおばさんは善人を気取るでもなく、俺たちひとりひとりに食糧を手渡しながら、
「悪いことしてないだろうね?」
「ちったあ社会の役に立ったらどうだい」
「まあ、頑張んなよ」
などと言って、俺たちを励ましてくれた。
イーストエンドの人間を、ちゃんと人間として扱ってくれる変人――俺はそんなモノ好きを、おばさん以外ほかに知らない。母親を亡くした俺は、愛情を求めてか、おばさんを慕うようになった。
おばさんの来る日が楽しみでしかたなかった。
嫌なことがあっても、おばさんの顔を見れば元気が出た。大丈夫だって思えた。
俺は泣きはらした顔をさげてうつむいてても、ローザおばさんはいつもの優しい顔で、ポンと俺の頭を叩いて言ってくれる。
「めそめそしてんじゃないよ、これでも食って元気だしな」
俺はおばさんを見上げる。
その悪夢から覚めたような一瞬、おばさんの笑顔は色をなくして、青白く血に濡れた顔を、俺の視界の下へと落としていく。
ドサ、と。
その音が、どこか遠くに聞こえた。
「…………」
俺は呆然と立ちつくす。
腹の底かぎゅっと縮こまる感覚。
おばさんを抑えつけていた腕は、まるで悪霊が乗り移ったかのように重かった。
空腹と渇きに疲れきっていた頭が、次第に冷静さを取り戻していく。
「どうして……」
ローザおばさんは、俺の足元にうつ伏せに倒れていた。
肉を喰らい、その血を呑んだばかりにも関わらず、全身から血の気が引いた。
「どうして……」
俺は一歩、また一歩と後ずさる。
両耳がざわざわと音を立てた。
手が震え、膝が笑う。
「どうして……」
繰り返すたびに、俺の中で絶望感が大きくなっていく。
声は、いつのまにか泣き声に変わっていた。
足の力が床に抜けるようにへたりこむ。抜かした腰に力が入らず、立つこともままならない。
目の前のローザおばさんは、ときどき手足をピクリと痙攣させたり、コポ、と口から血泡を吹いたりしている。
「……あ、ああ……」
歯の根が噛み合わない顎が、ガチガチと音を立てた。
俺は全身で震えあがり、そして絶叫する。
「――るっさいなあ」
背後から声が降る。
「あんた、叫んでばっかだね?」
振り向くと、そこにはフードを被った黒衣の女がいた。月灯りを背負いながら、全開になった窓枠に座る――その女は、厚いフードの合間から長い紫色の髪を流し、耳には毒々しドクロのアクセをつけて、大きな瞳をほのかに光らせていた。肌色を晒した腕には不自然に包帯が巻かれていて、怪我でもしているのか赤黒く染まっている。
「……誰だ?」
俺はしゃがれた声で訊いた。
女は呆れたように溜息をつき、
「誰だ……か。そんなこと訊いてる場合じゃないでしょ。それ――」
と、指を立て、俺を指す。
いや、指しているのは俺じゃない。俺の奥に倒れているローザおばさん――
「……ち、違う、これは……」
「“違う”?」
女は薄い笑みを浮かべて、
「面白いことを言うね? いったい何が違うんだろう。どう見たって、君がその人を襲ったって風じゃないか。あたしに懇切丁寧に一から十まで教えて欲しいものだよ――……と、言いたいところだけれど……まあ、そんな場合じゃないか」
あんたに怪我を負わされた手前、もっといじめてあげたいってのが本音なんだけどね、と。
そう言って女は、猫のように窓から床へと足を移し、
「早く手当てしないと、その人、本当に死んじゃうよ?」




