-008-
「……連邦の植民地ね。たしかに、植民地から独占的収奪による多くの富が本土に流れ込む現状はそうかもしれないけれど……でも、こんな状態が長く続くなんて思わないわ。というか思えない。奴隷貿易のおかげで、べったりと裕福に浸かりきっているこの国だけれど、ひょんなことで転覆することだって大いにあり得る。だから、そのための事前策は必須――と、私は考えるわ」
「……と言うと?」
「つまりね、いまの英国の現状だと、ニュービジネスの発生する余地がないって言ってるの。それが万一のとき、致命的な後手を踏むことになると懸念している。武器もそうだけど、物を広く流通させるには、手段が必要になる。だから武器の新開発より、航路陸路ないし確固たる流通手段の獲得を最優先とすべきよ。何事にも、手は多いほうが良いに決まっているでしょう?」
「……なるほど」
鬚男爵は顎に手を置きうめいた。
俺には、リシェルさんがなんの話をしているのか、さっぱりだった。
「グレートブリテンが転覆とは少々心配が過ぎる気もするが……しかし、その通りだ。流石はア―カード家の御息女、その聡明さは父譲りか」
「御上手ね、チェスター卿。けれど、私に父の影をダブらせないで頂戴。ビジネスパートナーは亡き父じゃない。いまあなたの目の前にいる、私よ」
商談は続く。
俺は彼女らが広げるビジネストークを、ただ後ろで聞いている他ない。
見栄を張り、理解したフリして頷いたりしてみるものの――なんだかそれも虚しくなってきて、俺は自分の手に視線を落とした。
「…………汚ね」
小さく、それとなく呟く。
豪華な指輪もはめてなけりゃ、手入れもろくにされてない。靴磨きのローション油で荒れた自分の手。爪にはゴミが入り込んでいて、みすぼらしさがありありと伝わってくる。
靴磨きの腕なら、誰にだって負けない自信はあった。
……けれど、それがなんだってんだ?
靴なんて適当に磨けりゃそれでいい。大したお金にもならないし、彼女らが語る武器とか船とかと比べりゃ、酷く小さいビジネスの話だ。
溜め息すら出なかった。ただでさえ持ち合わせていなかった自信が――自負の心が――完全に俺の中から消えちまったような、そんな気がした。
こんな女装までして、なにやってんだか……。
「…………」
……いや、よくよく考えてみりゃ、男のくせに女装という背徳的かつ冒涜的な格好を強いられたのも、リシェルさんが気を回してくれたから……かもしれない。
ア―カード家の男と見られてしまえば、舞踏会で踊りを誘われることも、望まずしてペアを組まされることも大いにあり得る。しかし、身分の低いメイドならば、誘ってくる奴なんていないに決まってる。
俺はエスコートするどころか、最初からリシェルさんに気を遣わせてしまっていた……。
「……まあ」
意気消沈だった。
悔しさは……けれどなかった。
「……仕方……ねえよなぁ……」
諦めに似た観念が俺を満たす。
まったく、情けない。
そうやってシュンと立ち呆けていると、会場の照明がパッと落ちる。
薄暗さに合わせるように喧騒が消え、静かにピアノの音色が辺りを満たしていく。
舞踏会が始まったのだ。
一曲目のカドリールがスタートすると、招待客のなかで最も地位が高いのだろう男と、女主人が踊り始める。やがて周りの招待客らもパートナーを見つけ踊り始めた。
俺はどうしていいかわからず、
「……あ、あの、リシェルさん」
と、彼女に助け舟を求めるのだが、
「アランはそこでちょっと待ってて」
優しく片手で制され、彼女の指に促されるまま、壁際で目立たないように身を小さくした。
俺が彼女に与えられた役目は添い人――つまり、“ただ突っ立ってる”だけ。
それだけの仕事で、それだけの存在。
「…………」
言葉もなかった。
俺は同じ空間にある、違う世界をうろんに見つめる。
カドリール、ポルカ、ワルツ……次々と曲が変わり、男女が次々とパートナーを変える。けれど、いくら移り変わろうが俺はその枠に入れない。踊りなんて、俺がこのロンドンで生きてくうえで、必要になんてならなかったからだ。
リシェルさんは光の下――中央で軽やかにステップを踏み、見知らぬ男とダンスを踊っているた。それは美しく見えて、可憐にも見えて、知的で情熱的で、なにより遠い存在に思えた。……かつて屋敷の門から彼女を眺めていたときよりも、ずっと遠い存在に。
俺は彼女の舞踏に見蕩れつつ、同時に、胸がぎゅっと締め付けられる感覚を覚えた。
……俺と二歳しか違わないのに。
彼女は大人と普通に同じ目線で話し合って、船とか武器だとか俺の知らない世界の話をして、相応しいルールとマナーを踏み、軽やかにも華やかに舞い踊っている。
振り返ってみて、かたや俺はロンドンの靴磨き。
ステップのひとつも踏めやしない。
馬が垂れ流した糞尿に汚れた靴を磨く俺と、海の向こう側の話をしている彼女――。
どうしようもない壁が見えた。
そんな気がした。
「…………ははっ」
笑えた。
馬鹿みてえだ。
そもそも、釣り合うわけねえんだ。
彼女と俺じゃ、住んでる世界が違い過ぎんだよ。
わかってたことじゃねえか。
なのに、俺はなにを浮かれていた?
なにを期待していた?
「……道化にもほどがあんだろ……」
馬鹿じゃねーのか、俺は。
いや、馬鹿だ。
大馬鹿野郎だ。
なにをどう間違ってこんなとこに来ちまったのか――俺はこのとき、滅茶苦茶後悔した。
俺は逃げるようにしてホールを抜ける。
外に出ると、もう止まれなかった。
自分が女装してることなんてすっかり忘れていた。
走り出した俺の脚は、宛てもなくロンドンのストリートへと身体を運んでいく。
「クソッ……」
わかってる。
わかってんだよ。
これが俺が勝手に抱いた劣等感だってことは。
リシェルさんも含めて、お前らにそんな気がないってことも。
あそこにいた誰もが俺なんて気にしてないし、俺のことなんて見向きもしない。別に見て欲しかったわけじゃないし、女装姿を見てなんて間違っても言わないけど……だけど、ここまで『違い』ってやつを、見せつけてくれなくても……いいんじゃねえかなあ……?
「……なにやってんだよ、俺は……」
目的地なんてものはなかった。走り疲れて、へばったところが目的地だった。
俺はもう走れないくらいまで走った。
やがて気力を失い、押し寄せる疲労感にうなだれる。
膝に手を置いたところで、ふと気がついた。
闇雲に走りまわったせいで、自分がどこにいるか判然としない――重い首を動かし、辺りを見遣るが、繁華街から遠いのか人の姿は見当たらない。
沁み込むような肌寒さに、頭に昇っていた血が徐々に引いてくる。
「戻らなきゃ……」
と呟いた――そのとき。
俺の背筋が、ぶるっと震えた。
脊髄を冷たい舌で舐めずられたような、嫌な悪寒。全身の毛が一斉に粟立ち、一瞬、自分が息を吸っていたのか、吐いていたのかわからなくなって、腹の底が痛くなる。
それは寒さからじゃない。
例えるなら凶暴な猛獣に睨みつけられるような感覚――心射抜かれるような、殺意。
「…………」
背後に視線を感じた。
「…………」
だけど、振り向けなかった。
ただ、なるだけ平静を装って、歩く。
自然と早足になる。
そこでふっと、昨日のローザおばさんとの会話を思い出した。
――なんだい。あんた、新聞は見ないのかい?
――『失踪事件』だよ。殺人って、そんなのが流行ったら、それこそ堪ったもんじゃないよ。
――“切り裂きジャック”じゃあるまいし。
「……まさか」
カチ、カチ、と顎が震えた。
怖気がドロドロと渦巻き、俺をどこまでも不安にさせる。
失踪したからといって生きているとは限らない。殺されたうえで、消された可能性だって十分に……。
「……う、嘘だろ、おい……」
誰かにつけられている。これは確実。
そして捕まれば無事には帰れない。直感がびしびしと俺に訴える。
逃げろ。逃げろ。逃げろ。
殺されるぞ。早く。
早く。
逃げろッ!!
「…………」
T字路を、帰り道じゃない方向へ曲がる。
――と、同時に全力で走りだした。
全身に感じる粘りつくような嫌な気配は――しかし、どれだけ走ろうとも、すぐ後ろについてくる。
確実に狙われている。まるで首元に鎌をかけられてるみたいだ。
慣れない靴のせいで走りにくい。が、それでも俺は必死に走った。
女装のままロンドン疾走第二幕なんて、笑えないジョークにもほどがある。けれど、それをいま気に留めている暇はない。通り魔だか連れ去りだか知らないが――捕まったらそれこそジョークにもならないことは明白だ。
だけど、なんで俺が狙われるんだ?
全体どうして?
まったくわからない。
頭ん中がぐるぐると渦巻く。
しかし、とにかく。
とにかく裏通りはマズイ。
「――クッソッ! なんの因果があってこんな――笑えねえにもほどがあんだろッ!!」
恐怖と悔しさで、俺はちょっと涙目になっていた。
笑えないほど散々な一日。
そうして俺の笑えない一日は、その締めくくりに相応しく、やはり笑えない顛末を用意してくれていた。
ぐらり、と。
足がもつれてしまったのか、俺はつんのめるように地面へと倒れる。
走っていた手前、慣性の働くままに二転三転――すぐさま立ち上がろうとして片膝を立てるが、しかしその瞬間、得も言えない違和感に襲われ、俺は再度地面へと身体を打った。
「――いってぇ! なんだよ、ちくしょう……」
まるで道に穴でもあったような――不運にもそこを踏んでバランスを崩してしまったような――そんな違和感、
「……えっ?」
は、それだけで終わらない。
目の前に、足があった。千切れ飛んで、ごろりと地面を転がっていく足。
バクン、と。
心臓が跳ねる。
足?
誰の?
恐る恐る、自分の下半身を見る。
「――…………」
ドレスの短いスカートの先。
片足の膝から下には、そこにあるべきはずのものがなく――鋭利な刃物ですっぱりと切られたような断面からは、冗談みたいな量の血がドバドバと道を濡らしていた。
「あっ……」
間抜けな声に喉を掠らせる。と同時に理解した。
力が入らなかったわけじゃない。
力を入れる先が――膝から下が、なかったのだ。
「あっあッアッぁしがっなん、なんでッなあ、があああぁッぅあああああああ―――――――――ッッッ!!!???」
瞬間、思い出したかのような激痛に蹂躙され、俺の思考はいっぺんに吹き飛んだ。
地面をのたうちまわる。
痛い、痛い、痛い、あつい、熱い、熱い――熱いのか痛いのかよくわからない。ただ、神経を根こそぎ引っ張られるような苦痛に悶絶――耐えきれず、身体を左右に揺さぶった。そして地面と空が交互に行き来する視界に、ふっと“そいつ”は入り込んでくる。
「――やあ、こんばんわ。いい夜だね」
涙に滲んでそいつの姿こそ判然としては見えなかったが、その手に携えた禍々しい“獲物”だけはちゃんと見えた。
月灯りにうすら鈍く輝くミカヅキ。
とてつもなく大きな――鎌。
さながら死神の大鎌とでもいうべきか……その刃からは血が滴っていた。
俺は痛覚と、目の前に現出した未曾有の恐怖に泣き叫ぶ。
「うるさいなあ。そう痛がるフリをするなよ。お前に“痛みなんて感じるはずがない”だろう? 『ヴィクター・フランケンシュタインの残した怪物』――」
大鎌を構えるそいつは、女だった。
しかし、女だろうが怪物だろうが、俺は痛みに耐えることに忙しい。
魔女のような黒衣を身にまとった女は――月を背にして、大鎌を振り上げる。
「――『完成された人間』、お前は生きていて良い存在じゃない」
刃が目の前に迫り――そしてブラックアウト。
わけもわからないまま、俺の意識はそこで途切れた。




