-002-
俺の抱えている『お得意さま』は、そりゃ仕事に比例して数多くいるけれど、それでもこのお得意さまを逃すわけには絶対にいかない。
俺の朝はローザおばさんのミルクから始まる。
けど、俺の一日は“彼女”の笑顔から始まると言っても、それは過言でも何でもない。
特別だ。
いいことを教えてやろう。
ロンドン市内の一角にある豪邸――そこに住むお譲さま、リシェル・ア―カード。
歳は俺より二つ上の十八歳。
その姿は天使か、女神か……いやいや、彼女はそんなチープな言葉でくくり現せられるような人じゃない。華奢な体躯のくせして優雅で大人びた雰囲気を持ち、その性格は深窓の令嬢そのままに、物静かで、おしとやかで、どこか高貴なオーラを纏っている。一見すると知的でクールそうに見えるけれど、しかしその実、彼女の心は思いやりに溢れていることを俺は知っている。
金色の艶やかな髪のキューティクルは天使のそれ。
物憂げな猫目のチャーミングさは、スコティッシュ・フォールドとは比べるべくもない。
唇から覗かせる鋭い八重歯がイノセント、ならぬアクセント。
そのくせ、言いたいことはキッパリと言う芯の強い面もある――まさに俺の理想。それを余すところなく体現したリシェルさんは……もう……なんて表現すればいいのかな……世界国宝?
いや、そもそも表現する必要性があるのかどうか。
確立しちまってるじゃん。
彼女は天使でも女神でもなく、リシェルさんだ。
リシェル・ア―カードという唯一無二の確固たる存在。
俺のような雑草とはわけが違うんだからな。
「ふへへ」
勝手にニヤける口元を禁じ得ない。
俺の毎日の楽しみは、彼女を一目見ることだ。
全力疾走の甲斐あってか、どうにか時間には間に合った。
ア―カード家の門は固く閉ざされてて、薔薇庭園の向こう側。屋敷の入口には、丁度リシェルさんに仕える使用人――もはや顔馴染みとなった、執事さんが出てくるところだった。
タイミングばっちし。
俺はずれたハットを被りなおし、スーツに寄ったしわを正す。
こういう人商売では、見た目ってのも結構大切だったりする。小奇麗な靴磨きと小汚い靴磨きが並んでいたら、誰だって前者を選ぶだろ?
「……しっかし、相変わらずガランとしてんなぁ」
庭園の隅から隅まで手入れの整った屋敷だけれど、この屋敷の使用人は執事さんの一人だけだ。ほぼ毎日ここに通い詰めている俺だけれど、大きな屋敷で見た人といえば、リシェルさんと執事の二人だけ。ア―カード家は銃器産業を営み、莫大な資産と多くの工場を持った名家として知られているから、もっと使用人がいてもおかしくはないのだが……いや、最近新しくメイドを雇ったらしいが――たしかラルラウアとかいう、前髪で目を隠した女の子――それでも少ないに違いはない。
「……庭師でもいいから雇ってくんねーかな……」
ポツリと本音を呟いてしまった。
……めちゃくちゃ頑張れる自信があるんだけどなあ……。
ま。
そんなわずかな期待も込めてこの屋敷に通い詰めてる――ってのもあるんだけど、仕事前に余計なことを考えるのは頂けない。
俺は首を振って想いを払拭する。
門の横で縮こまりながら、その期をじっと待つ。
やがて、馬車を引いた執事さんが出てきた。
「よう、執事さん」
「む? ああ、アランか」
俺はハットを持ち上げ軽い会釈をし、
「いい朝だな。どうだい、今日もひとつ磨かせちゃあくれないか?」
ア―カード家に長年仕えてる執事さん。
名前は知らないけど、彼には贔屓にさせて貰ってる。
ちょっと血色の悪い、眼尻の尖った無愛想な顔。すらっとした燕尾服がよく似合う、文字通り紳士なお客さん。そして同志でもある。
そんな執事さんを見て、俺はおや? と思う。
どこか疲弊しているように見えるのは気のせいだろうか。
ただでさえ血色の悪い執事さんの顔が、さながら吸血鬼のように青白くなっていた。見るだに心配になっちまう顔だが……しかし、詮索するのは野暮ってもんだう。
靴磨きだろうが、執事だろうが、仕事に悩みってのは付き物だ。
「いつも悪いな。それでは今日もひとつ頼むとしよう」
「よしきた!」
応の答えに、すかさず俺は道具を広げて店を開く。
ホースブラシ、ウエス、コットンの端切れ二枚、カエルの油から作った自前のレザーローション、仕上げに使う乳化性ローションはローザおばさんとこのミルクから作った最高の逸品だ。
台に足を乗せて貰い、ホースブラシでまずは表面のホコリやゴミを落とす。革本来の地が出て、少し艶がなくなったら次はウエス。ローションを染み込ませたそれを、丁寧に革へと擦り込ませていく。
仕事モードの俺は、真剣そのものだ。
「……しかし、貴様の磨いた靴は他のそれと格別――我の知るなかで、貴様以上の『靴磨き』は他におらんぞ」
そんな風に執事さんは言ってくれる。
ちょっと役者がかった物言いだけど、やっぱ褒めて貰えるってのは素直に嬉しい。冥利に尽きるってもんだ。
俺は照れくささを隠すように鼻をこすりながら、
「やれやれ……本当、あんたは出来た人だな、執事さん。毎朝こうして俺に仕事をくれて、それどころか鼓舞を打って励ましてくれる……よし、今日はサービスだ。代金はいらねえよ」
「うむ。そうか、ならばここは素直に礼を言っておこう――……と、言いたいところだが、しかし、そういうわけにはいかない。貴様は本当にいい男だ、アラン。だから我は貴様の言葉に満足して、いつもの倍の料金を払いたくなってしまったではないか」
「……お、おいおい。やめてくれよ、執事さん。そんなには頂けねえって」
俺は慌てて両手を振った。
けど、執事さんは強引に俺の胸ポケットにお金を滑り込ませ、
「……ところでアラン。ここで貴様に相談なのだが……」
と、低い声をさらに低くして言う。
「受け取れんというなら、どうだろう、ひとつ我に頼まれてはくれんだろうか? これはそれの代金と思ってくれて構わん」
「……頼み?」
「そうだ」
「頼み、か。……まあ、他ならぬあんたの頼みってんなら、たしかに断るわけにはいかねえな。……でも、俺があんたの役に立てるかな? 立てるなら、そりゃあ喜んで引き受けさせては貰うけど……」
そう語尾を濁さずにはいられない。
俺だって執事さんの力になりたい。心の底からそう思ってる。
けれど、俺と執事さんを比べて、俺が勝ってる部分があるのか疑わしい。
俺の力が及ぶんなら、一も二もなく頷くんだが……、
「貴様はリシェルの好みに無駄に詳しいだろう?」
「ん? ああ、それだけが自慢だ」
言って、俺は胸を叩いた。
よかった。
“そーいうこと”なら、俺にもできることがありそうだ。
「俺だって伊達に長年ストーカーまがいのことをしてるわけじゃねえ――彼女のことなら、俺の右に出るものはいねえって自負できる。もちろん、『あんたの次に』、だけどな」
「うむ、無論だ」
「……で、俺にまるでストーカーみたいな台詞を言わせて、つまりあんたは俺に何を頼もうってんだい?」
「今度リシェルがパーティに行くのは、前に話したな?」
「ああ、もちろん覚えているけど……」
パーティ。
貴族王族紳士淑女であらせられる崇高な御方らが集う場所――そんな言葉は、俺にとっては別世界のそれだけど、貴族のリシェルさんにとっては、もちろん違う。
俺は、「それが?」と、先を促す。
「笑ってくれアラン。我の不手際で、リシェルが一番気に入っていた……貴様が見繕ってくれたドレスが破れて、着れなくなってしまったのだ……」
「はあ!?」
俺は思わずうめいた。
「……本気かよ、それ。あんたには似合わないミスだな」
「いや、我のミスだ」
なぜだが執事さんは重ねるように言った。
そして視線を横に流しつつ、
「……以来、リシェルが我とまともに口を利いてくれん。どころか、鼻にガーリックをこれでもかと突っ込まれたり……ピクルスを口内に押し込まれたり……エポワスを持ち出されたときには、流石の我も肝が冷えたが……兎にも角にも、ドレスが破れてしまってからというもの、我も散々なのだ……」
なるほど。
執事さんが死にかけのヒヨコみたいな顔をしているのは、そういう理由か。
ちなみに、エポワスってのは超絶臭えチーズのことだ。
猥談だが、寝ぼけたナポレオン公がこいつを鼻先に突きつけられて、『おぉ、ジョセフィーヌ』と叫んだことは、あまりに有名な話。
「……大変だな、あんたも。つーか、相変わらず容赦ねえな、リシェルさん……」
「うむ。だが、」
「「そこが良い」」
と、ハモる俺ら。
正直に言うと、リシェルさんに折檻を受けられる執事さんが羨ましくてしょうがない。
折檻っていうか……その距離感、か。
どう足掻いたって俺には遠すぎる。
「――よしっ! 話はわかったぜ!」
俺はパチン、と手を打ち、
「要はリシェルさんが気に入るような、とびっきりのドレスを用意すりゃ良いって話だろ?」
「……理解が早くて助かるぞ、アラン。貴様に縋るしかない情けない我を蔑んでくれ……だが、哀しいかな、我はリシェルの好みを貴様以上には知らんのだ」
「やめてくれ。そんな水くせえことを言わないでくれよ、執事さん。リシェルさんの笑顔は俺たちの宝だ。その宝を守れるってんなら、代金を貰うどころか、むしろ寄付してえくらいだよ」
「……すまんな、アラン」
「よせやい。困ったときはお互い様、だろ?」
俺はニヒルな笑みで、親指を立ててみせる。
それを見た執事さんは意味深に頷いた。
しかし、寄付……とは言っても、絶賛貧乏真っただ中の俺の手持ちは、ポケットにある執事さんの代金のみなのだが。見栄を張って見栄えを気にする――……ってのはまた違うが、こういう軽口も、そろそろ卒業しなきゃいけないな、って言ってから思う。
そんな会話をこなしつつも、仕事の手を止めないってのが俺だ。
「おっし、終わったぜ!」
俺は皮靴の最後のひと拭きを終え、言った。
仕上げ用のキメ細かなクロスで拭き上げた靴は、我ながらほれぼれする出来だ。
「うむ」
俺の満足顔の一方で、けれど執事さんは磨き上げた靴に頷いただけにとどまる。
執事さんは基本的に無表情だ。
満足してるのかどうかってのは、彼の無愛想な顔からは一切読めない。リシェルさんの話をしてるときは、なんとなく気持ちが通じる気がするが――それから離れちまうと、彼が考えていることがまったく読めなくなる。
ミステリアスといえばそうなんだろうが……なんていうか、底知れない人だ。
「ちょうど頃合いだな。リシェルが大学に行く時間だ。すまんがアラン、ドレスの件……くれぐれもよろしく頼むぞ」
俺は応と頷き、執事さんを見送る。
ほどなくして、屋敷から彼女を乗せた馬車がロンドンの街に駆けていく。
馬車の開いた小窓から、彼女の横顔がチラッと見れた。
その光すら霞んでしまいそうな天衣無縫の姿に、俺は元気を貰いつつも、小さくため息を洩らすのだった。




