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俺の朝ってのは案外早くて、大抵はミルクから始まる。
昼の喧騒からはまだ遠く――薄い霧が降りる早朝のロンドンには、まだしんみりとした夜が残っていた。
陽が昇れば、馬車や石炭で走る乗合バスにひしめく華のロンドンの街だけれど、どの街でも同じように、人知れず働くやつってのは存在してて、陽の目に当たらないところで、あくせくしてるやつも当然いる。
かくいう俺もその一人。
『自分のことを小さいだなんて思うんじゃないよ。誰かがやらなきゃいけないことをやってるんだ、って自信を持ちな。小さな歯車が積み重なって、世の中ってのは動いてんだからねえ』
……っていうのはローザおばさんの言葉だ。
ちょっと説教臭くて、素直にうんとは頷けないけれど……俺だって、それくらいは理解しているつもりだ。でも、理解しているからと言って、腑に落ちるとは限らない。
これは誰だってそうだと思う。
自分は主人公になれない――って思いながら、想いを隠しながら、騙し騙し生きてく。
――俺の人生は俺のもんだ、俺の人生の主役は俺だ。
――俺には好きなことを我慢してる暇なんてねーんだよ。
と。
大言壮語も甚だしく、そうやって叫んでいた自分が懐かしい。
働くようになって、自分の力だけでお金を稼いで生きるようになってからというもの……自分の力……っていうか、自分の小ささってのだけが浮き彫りになってきて、いまじゃそんな大層なことを叫ぶ元気はなくなってきた。
そんな俺を見て、けれど、褒めてくれる人もいたりする。
なかなかどうして。
青臭いガキが一端のことを言うようになったじゃないか、と。
『大人になるってことは、自分の範囲をどこまで敷くかってことなんだよ』
これもローザおばさんの言葉。
いわゆる身分相応ってやつだろう。
くだらねえ。
……なんて思いつつも、それを口にする勇気は、俺にはもう残ってない。
それに沿って生きることしか出来ないから――それを口にしちゃうと、俺がくだらねえ存在になっちゃう気がするから。
だから、もう言えない。
我ながら情けねえもんだ。
けど、人間ってのは強いもんで、困難にぶつかっちまったとしても、それに慣れると困難を困難とも思わなくなっちまうご都合的な機能が備わってる。
つまり、諦めて、受け入れる。
するとどうだろうか?
小さなことで悩んでた自分が馬鹿らしくなって、いま自分のできることを精いっぱい頑張ろうって思えたりする。騙し騙し生きてくうちに、なにを騙してるのかさえわかんなくなっちまったみてーに。
かくいう俺こそがそれだったり。
俺はゴキュ、ゴキュ、と喉を鳴らしながら、空いた牛乳瓶をスコーンと番台に打ちつけ、
「――くはぁっ! やっぱ、朝のミルクは最高だな! それもローザおばさんとこの採れたてミルクだってんだから、格別も度合いが違うってもんだぜ!」
口元を袖で拭いながら、元気を振りまく。
そんな俺をローザおばさんはあくび一つで受け止め、
「そうかい。そりゃあ良かった。けど、ビンは叩きつけんじゃないよ。割れたらどうすんだい。ビンだってタダじゃないんだ――割ったら弁償して貰うからね」
「……相変わらずガメついな、おばさんは」
「当たり前じゃないか。誰にモノ言ってんだい、あんたは」
なんか怒られた。
褒めてないのに褒め言葉として受け取られ、あまつさえ怒られるってのはなんだか納得いかない部分がある。けども、俺は文句は言わない。
っていうか言えない。
俺が毎朝ローザおばさんの店に足を運ぶ理由の一つ。
もちろん、面倒見のいいローザおばさんが好きだ――っていう理由もあるけれど、おばさんの店に行けば、もれなくミルク一本がタダで付いてくるからだ。あわよくばブレッドも……なんて思ったりもするけど、流石にそこまで望むのは忍びない。
俺も働いてるんだし。
「で? 今日の仕事は終わったのかい?」
と、ローザおばさんはカウンターに頬杖をつきながら訊いてくる。
「『目覚まし屋』は終わったぜ。ま、これから靴磨きで張り込むけどな」
俺の仕事のひとつ。
『目覚まし屋』――ってのは、要するに家主を起こす鶏みたいなもんだ。
早起きして、指定された時間に頼まれた家の窓を叩く。
それだけの簡単なお仕事。
子供でもできる。
俺はこの手の仕事を三つほど掛け持ちしている。
「そうかい。険呑なこった。精出して働くのはいいけどさ……だけど、あんたも気をつけなよ、アラン」
「気をつける?」
店の前を過ぎていく馬車を横目に、俺は問う。
早朝で人通りは少ないとはいっても、やっぱロンドンだ。馬車で優雅に移動する貴族の他にも、同業の『目覚し屋』やら、『ランプ点灯屋』やらが忙しそうに往来を行き交っている。そんな早朝の喧騒には、俺もローザおばさんも含まれてるわけだが。
「なんだい。あんた、新聞見てないのかい? それじゃなくても、そこらじゅう噂でもちきりだってのにさ」
「ん? ああ……『通り魔殺人』だっけ? 最近流行りの……」
人の集まるところに噂あり――。
ロンドンは、そういった類の噂話には事欠かない。
というか、実際に事件として取り上げられていたから、嫌でも耳に入るだろう。
「『失踪事件』だよ。殺人って、切り裂きジャックじゃあるまいし。そんなのが流行ったら、それこそ堪ったもんじゃないよ」
うん。
どうやら違ったらしい。
俺の記憶ってのは、どうも曖昧だ。
どうでもいいことはすぐに忘れっちまう。
「まあ、どっちにしたって物騒なのには変わりないけどねえ……。失踪だの、フランケンシュタインだのなんだか知らないけどさぁ……わけの分かんない話ばっかりでやんなっちゃうよ、まったく。もっと景気のいい話はないもんかねえ……」
はあ、と息を零す。
ローザおばさんはため息が多い。
最近、顔のしわも目立つようになってきた。
何かを言って喜ばせたい気もしたけど……でも、大きなことを言っても、俺がそれを行えるとも思えない。昔の俺なら、「だったら俺が解決してやるよ!」とか言い残して走り出しただろうが、流石に十六にもなってそれをやったら、ただの馬鹿だ。
そうこうしているうちに、ゴ―ンと鐘の音が鳴る。
ロンドン塔が六時を告げた。
「うわっ! やっべ、お得意さんとこ行かなきゃ! ローザおばさん、サンキューな!」
俺は仕事道具を抱えて、慌てて走り出す。
「本当、落ちつきのない子だねえ、あんたは」
「また明日来るからな!」
「もう来なくていいよ、ミルク代が浮く」
そんな声を後ろに、俺はまだ人の少ないストリートを駆ける。
振り向き、バック走しながら手を振ってみるけれど、やっぱりおばさんは呆れたような顔で頬杖をついているのだった。




