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blood cross  作者: 独楽
a heart
16/35

-014-


 氷のように冷たい空気が激しく動き、私の意識はそこで覚醒する。

 “わたし”に感化された私の心は、どこまでも凍てつき、どこまでも凍えて、まるで百年の時を極寒の地で過ごしたように、寂しくなっていた。

 未来も、希望も、なにも見えない。

 なにも考えられない。

 絶望が、私を犯す。

 呼吸を止めたい。

 息の根を絶ってほしい。

 死にたい、死んでしまいたい、他に何もいらないから――だから、私を終わらせてほしい。

 涙が伝った。

 私はハッとする。

 ……違う。

 これは彼女の思考で、彼女の心だ。

 けれど、こうして体感するまで、私は彼女の絶望を甘く見ていた。百年という孤独が、迫害が、これほどまでに寂しいものだなんて、思ってもみなかった。

 重たい目蓋を開くと、滲む視界に彼が映り込む。


「――死ぬな、リシェル」


 息が詰まる。

 重ねられた唇が、彼と同じ温度に変わっていく。

 ……あたたかい。

 私が――わたしが思い描いていた初めてのキスは、もっとロマンチックで、愛に溢れた、夜空のように素敵なものだと思っていた。少なくとも、こんな状況下で……命が終わるその刹那で……もうすぐ消えてしまうとわかっている中でするなんて……それこそ思ってもみなかった。

 この上ない後悔を残すだけのキスに、だけどわたしは嬉しさに涙がこぼれた。

 彼はわたしを……いいえ、私を抱いてくれている。

 とても、タイトに。

 ……ずるいよ……ブラッド……。

 私は堪えるように、身体を硬くする。

 永遠とも思える一瞬が流れる。

 ずっと、こうしていたい。

 あともう少しだけ。

 もう少しが、ずっと続けばいいのに。

 私は願う。

 でも、

 その願いが叶うことはなかった。


 彼はわたしに染まった血を啜り、そして、私に自分の血を分け与えてくれた。

 また、捧げてくれた。


 冷たく紅い瞳が私を見、

 私はその奥に優しさを垣間見た。

 跪いたままの彼は、私をそっとベッドに置き、静かに立ち上がる。

 滾らせる燃えるような赫眼。

 彼は怒っている。

 私のために。

 それが嬉しくて、同時に恐ろしくもあった。


 ブラッドは強い。

 それは肉体的な意味じゃなくて、心が、だ。

 いつでも素直で、まっすぐで、躊躇わなくて、失敗なんて知らないかのように、理想に向かって走り続けられる。

 だからこそ危うくて、怖いとも思う。

 きっと彼は、私のためならどんなことだってするだろう。

 どんな過ちだって、彼は過ちだとすら思ってないから――現実的な問題の多くを、自らの力で切り開いていけると信じているから――心が、素直に、強いから。


 けれど、私はそんなに強くない。

 私たちは、そこまで強く成り得ない。


 だから、わからないんだ。

 ブラッドは幼い日の私と交わした約束を律儀に守っているけれど……でも、それはただ守っているだけで、私の望んだ意図は理解はしていない。彼の中の判断が――心が――本能に呑み込まれてしまったとき、きっと彼はどこまでも愚直に、どこまでも素直に、己が信念の旗本にヴァンパイアとしての力を、それこそ遺憾なく振るうだろう。

 ブラッドは不死身であるが故に死を知らないから。

 死なないから――だから、痛みがわからない。


 それがどれだけ悲しいことか。

 どれだけ、羨ましいことか。


 そして、同じ不死の存在だとしても、ラルラウアはブラッドとは対極の位置にいる。

 彼女は奇しくも死を望み、死を夢見、百年以上ものあいだ想い焦がれていた。

 まるで恋のように。

 彼女は死に恋心を抱いた……ちょっと不死身なだけの女の子だ。

 絶望の淵へと追いやられ、死ぬことでしか自分を救うことが出来ないと信じ切っている。誰からも必要とされず、誰からも愛されず、不死という永遠の牢獄に押し込まれ、嘆き、苦しみ、その果てに自らを殺すため永久凍土の中へ身を投げた。

 それがどれだけの覚悟か、どれほどの絶望か……。

 ラルラウアは、ただ……

 ただ……誰かに必要とされ、自分という存在に意味と価値を得たかった……

 それだけだったのに……。


「……ブラッド……」


 私は声を絞る。

 ラルラウアは、座りこんだまま声にならない嗚咽に身を震わせている。歩み寄るブラッドから逃げようともせず、教授の頭をこの上なく大切そうに抱きしめて。

 それがどういう意味なのか……私にはわかるような気がした。

 自分の罪深さを赦してくれる何かを、自分を理解してくれる何かを、彼女は見つけたんだろう。

 そして、終わらせる気だ。

 赦しをその腕に抱いて、

 自分を永遠の沈黙に追いやってくれる死を――ブラッドを、迎えようとしている。


「ブラッド……やめて」


 けれど私は、そんなの駄目、って思った。

 いやだ、って思った。

 そんな悲しい終末、認められない。


「……また斯様なことを。これらがいったい何をしたか――それはリシェル、貴様も重々承知して――」

「黙りなさい……やめて、と、この私が言ってるのよ。その鼻にガーリック詰め込んで、ついでに、口にピクルスでも突っ込まれたいのかしら……?」

「うっ、ぬぅ……」


 ごめん、ブラッド。

 彼女は知らないんだ。

 海には海の幸せがあり、空には空の幸せがあり、人間には人間の幸せがあり、人間という枠から外れた私たちにも、きっと収まるべき居場所が――幸せが――あることを。

 でも、その環境を受け入れなければ、幸せと感じることなんてできやしない。

 幸せを知らなければ、幸せを理解できるはずもない。

 絶望少女に花束を。

 人間を遺脱した私たちにだって、幸せになる権利くらいあるんだから。


「……痛っ……」

「よせ、その身体で動くなど……」

「大丈夫……大丈夫、だから」


 私は彼を制す。

 震える手を支えに、膝を立てて、身体を起こす。

 ブラッドの背中の向こう側で、死を抱いてうずくまる少女を、まっすぐ見据えた。

 死にたいんだろう。

 死に焦がれているんだろう。

 でも、ごめんなさい。

 私の勝手な都合で、あなたを死なせることはできない。

 見過ごすことなんて出来ない。

 これを見過ごしたら、私はこれからの私を私として過ごせないから。

 なんて笑っちゃうほど恣意的な理由だろう……人間のどこまでも曖昧な感情を、理論的に抑えようなんて、それこそ土台無理な話。これはどこまでも個人的な屁理屈――でも、屁理屈だって理屈は理屈だ。

 だから、

 そう。

 だからこそ私が、あなたの生きる希望を見失った眼に光を灯す。

 愛に凍えた心に火を点す。

 あなたの生きる希望を、

 あなたの生きていていい理由を、

 あなたの意味を、

 そして価値を、

 見せかけのあなたじゃない、あなたという存在を認める誰かに――


「……ラルラウア」


 あなたの、イデオローグに。


「ラルラウア・ア―ハート・オースリーヴ・ウィル・オールベル」


 私は彼女の名を呼ぶ。

 彼女に響くように、めいいっぱいの感情を込めて。


「なんでその名前を……」

「私は、あなたと似たような人を知っているわ」

「……似たような、人……?」


 胸の辺りにそっと手を置く。

 とくん、とくん、と罪の鼓動を感じる。


「その子はね、小さい時……八歳くらいだったかな……両親の命と一緒に、人間であることを失っちゃったの。お腹に熱い鉛玉が突きぬけて、死んじゃうって思ったけれど、でも命は取り留めた。変な奴がその子を助けてくれて……その変な奴ってのがヴァンパイアで……どんなファンタジーだ――って笑っちゃうかもしれないけどさ。でも、どんなに荒唐無稽だろうと、どんなに慈悲がなかろうと、親を失って、ヴァンパイアに命を助けられて、そして人間であることを失った――それが事実」

「あなた……なにを……」


 私はやんわりと微笑み、


「その子もその子で、色々大変だったよ。なまじ“人間だった”自分を知ってるからさ。あなたとは違う苦しみがいっぱいあった。痛みがあった。悲しみがあった。……ううん、その子はいまも怯えてる。満たされない空虚の恐ろしさに……心に……いつだって怯えてる」

「知った風なことを……言わないで……ください……」


 うん。

 ごめんね。

 知ってるんだ。私。

 あなたのこと。

 あなたの、これまでのこと。

 でも、

 それは『私』が知っているだけで、『わたし』の理解には程遠い。

 『私』が受け入れたからといっても、『わたし』が受け入れられるとは限らない。

 手が震える。

 痛みが想像できた。

 それでも私は、台に置かれていたステンレスの皿からメスをとる。

 躊躇いはもちろんあった――けれど、首に刃を突き立てた。


「えうっ……」


 血と一緒になって、変な声が喉から洩れた。

 あたたかさが首から流れ出る。

 ラルラウアは、私の突然の自傷行為――自殺行為に目を見張る。


「あなた、なにをして……」


 そんなの私だって知るもんか。

 でも、必要だと思った。痛みが。心を伝えるのに、必要だと思った。

 痛い。

 熱い。

 死んじゃうくらいに。

 けれど、それでも微笑みは絶やさない。


「……百年氷の中で生きたあなたほどじゃないけど……私も、実はちょっと不死身なんだ」


 ブラッド以外に、私の秘密を告白するのは初めてだった。

 どれだけ傷ついても終われないことは、それこそ死ぬことより、ずっと辛い。


「それでも、私は死のうとは思わない。死にたいとは思わない。生きたいって思う。それはラルラウア……あなただって、同じはずでしょ? あなただって、本当は生きたいって思ってる」

「……わたしだって……わたしだって、生きたいに決まっているじゃないですか!」


 ラルラウアは、ここで初めて心らしいものを見せた。


「でも……それが許されなかった……わたしが生まれた時点で手遅れだったッ! だから、『生きる』だなんて、簡単に言わないでください! わたしは、わたし以外のすべてが幸せに見える……それがどれだけ羨ましくても、どれだけ望んでも、それはわたし以外に与えられたもので……間違ってもわたしが得られるものじゃなかった……わたしは、どこまでも一人だったッ!」


 うん。

 ごめんね。

 それも知ってる。

 どん底を知ってしまった彼女は、自分が幸せになる未来を想像できない。仮に幸せになったとしても、それを受容できるとも限らない。幸せに押しつぶされて、また不幸を望むかもしれない。また絶望を――死を、求めるかもしれない。

 どれだけ幸せになって欲しいと願ったとしても、

 幸せになろうとしない人を幸せにすることなんてできない。

 だから、見捨てる?

 冗談じゃない。

 私は言う。


「たしかに……あなたは一人かもしれないよ。他の何とも属さない、枠を成さない、ただひとつの孤高の存在かもしれない……」


 首から溢れ出ようとする血を押さえながら、

 のろのろと、ひどくぎこちない動きで、彼女の元へと向かう。


「だけど、それでも私が、あなたを独りにはさせない。これは勝手な私の想いだけど、私は誰かが悲しんでる姿は見たくない。誰かが傷つく顔なんて見たくない。幼稚だって笑ってくれても構わない――だから、悲しまないで欲しい。傷つかないでほしい。この世界がつまらないだなんて、思わないでほしいの。そして知ってほしい。わかってほしい。あなただって……」


 ……ねえ、ブラッド。聞いてる?

 これはあなたにも言ってるんだよ?

 私は、彼女の傍らに膝をついて、


「……幸せになっても、いいんだよ……って」


 触れる。

 抱き締める、ようにして、唇を重ねた。

 互いの身体がきゅっと強張る。

 ラルラウアの見開いた眼が、どこまでも愛おしく感じた。


「ごめんね……きっと、あなたが思い描いていた初めてのキスは、もっとロマンチックで、愛に溢れた、夜空のように素敵なものだった……かな? 少なくとも、こんなときに……こんな場所で……しかも女の子とするだなんて、思ってなかったよね」

「……やっぱり、あなたは野蛮です。こんな、後悔しか残さないこと……」

「後悔、ね。だとしたら、なぜあなたは涙をこぼしているの?」


 ハッとして、ラルラウアは頬に手をやった。


「……わかりません」


 私は微笑み、


「それはあなたが人間だからだよ。心を持っているからだよ。生きることに理由が必要なら、私がそれを与えてあげる。だから、あなたも私の生きる理由になって欲しいの」


 ラルラウアはきょとんとする。


「だから、その……私の友達になって頂戴」


 豆鉄砲をくらったハトのような顔が、やがて崩れる。

 ちょっと傲慢で、

 ちょっと照れ混じりの私の言葉に、ようやく――ようやく彼女は、初めて笑った。


 それはツギハギじゃない。

 屈託のない、心がこぼれたような、そんな笑顔だった。




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