-014-
氷のように冷たい空気が激しく動き、私の意識はそこで覚醒する。
“わたし”に感化された私の心は、どこまでも凍てつき、どこまでも凍えて、まるで百年の時を極寒の地で過ごしたように、寂しくなっていた。
未来も、希望も、なにも見えない。
なにも考えられない。
絶望が、私を犯す。
呼吸を止めたい。
息の根を絶ってほしい。
死にたい、死んでしまいたい、他に何もいらないから――だから、私を終わらせてほしい。
涙が伝った。
私はハッとする。
……違う。
これは彼女の思考で、彼女の心だ。
けれど、こうして体感するまで、私は彼女の絶望を甘く見ていた。百年という孤独が、迫害が、これほどまでに寂しいものだなんて、思ってもみなかった。
重たい目蓋を開くと、滲む視界に彼が映り込む。
「――死ぬな、リシェル」
息が詰まる。
重ねられた唇が、彼と同じ温度に変わっていく。
……あたたかい。
私が――わたしが思い描いていた初めてのキスは、もっとロマンチックで、愛に溢れた、夜空のように素敵なものだと思っていた。少なくとも、こんな状況下で……命が終わるその刹那で……もうすぐ消えてしまうとわかっている中でするなんて……それこそ思ってもみなかった。
この上ない後悔を残すだけのキスに、だけどわたしは嬉しさに涙がこぼれた。
彼はわたしを……いいえ、私を抱いてくれている。
とても、タイトに。
……ずるいよ……ブラッド……。
私は堪えるように、身体を硬くする。
永遠とも思える一瞬が流れる。
ずっと、こうしていたい。
あともう少しだけ。
もう少しが、ずっと続けばいいのに。
私は願う。
でも、
その願いが叶うことはなかった。
彼はわたしに染まった血を啜り、そして、私に自分の血を分け与えてくれた。
また、捧げてくれた。
冷たく紅い瞳が私を見、
私はその奥に優しさを垣間見た。
跪いたままの彼は、私をそっとベッドに置き、静かに立ち上がる。
滾らせる燃えるような赫眼。
彼は怒っている。
私のために。
それが嬉しくて、同時に恐ろしくもあった。
ブラッドは強い。
それは肉体的な意味じゃなくて、心が、だ。
いつでも素直で、まっすぐで、躊躇わなくて、失敗なんて知らないかのように、理想に向かって走り続けられる。
だからこそ危うくて、怖いとも思う。
きっと彼は、私のためならどんなことだってするだろう。
どんな過ちだって、彼は過ちだとすら思ってないから――現実的な問題の多くを、自らの力で切り開いていけると信じているから――心が、素直に、強いから。
けれど、私はそんなに強くない。
私たちは、そこまで強く成り得ない。
だから、わからないんだ。
ブラッドは幼い日の私と交わした約束を律儀に守っているけれど……でも、それはただ守っているだけで、私の望んだ意図は理解はしていない。彼の中の判断が――心が――本能に呑み込まれてしまったとき、きっと彼はどこまでも愚直に、どこまでも素直に、己が信念の旗本にヴァンパイアとしての力を、それこそ遺憾なく振るうだろう。
ブラッドは不死身であるが故に死を知らないから。
死なないから――だから、痛みがわからない。
それがどれだけ悲しいことか。
どれだけ、羨ましいことか。
そして、同じ不死の存在だとしても、ラルラウアはブラッドとは対極の位置にいる。
彼女は奇しくも死を望み、死を夢見、百年以上ものあいだ想い焦がれていた。
まるで恋のように。
彼女は死に恋心を抱いた……ちょっと不死身なだけの女の子だ。
絶望の淵へと追いやられ、死ぬことでしか自分を救うことが出来ないと信じ切っている。誰からも必要とされず、誰からも愛されず、不死という永遠の牢獄に押し込まれ、嘆き、苦しみ、その果てに自らを殺すため永久凍土の中へ身を投げた。
それがどれだけの覚悟か、どれほどの絶望か……。
ラルラウアは、ただ……
ただ……誰かに必要とされ、自分という存在に意味と価値を得たかった……
それだけだったのに……。
「……ブラッド……」
私は声を絞る。
ラルラウアは、座りこんだまま声にならない嗚咽に身を震わせている。歩み寄るブラッドから逃げようともせず、教授の頭をこの上なく大切そうに抱きしめて。
それがどういう意味なのか……私にはわかるような気がした。
自分の罪深さを赦してくれる何かを、自分を理解してくれる何かを、彼女は見つけたんだろう。
そして、終わらせる気だ。
赦しをその腕に抱いて、
自分を永遠の沈黙に追いやってくれる死を――ブラッドを、迎えようとしている。
「ブラッド……やめて」
けれど私は、そんなの駄目、って思った。
いやだ、って思った。
そんな悲しい終末、認められない。
「……また斯様なことを。これらがいったい何をしたか――それはリシェル、貴様も重々承知して――」
「黙りなさい……やめて、と、この私が言ってるのよ。その鼻にガーリック詰め込んで、ついでに、口にピクルスでも突っ込まれたいのかしら……?」
「うっ、ぬぅ……」
ごめん、ブラッド。
彼女は知らないんだ。
海には海の幸せがあり、空には空の幸せがあり、人間には人間の幸せがあり、人間という枠から外れた私たちにも、きっと収まるべき居場所が――幸せが――あることを。
でも、その環境を受け入れなければ、幸せと感じることなんてできやしない。
幸せを知らなければ、幸せを理解できるはずもない。
絶望少女に花束を。
人間を遺脱した私たちにだって、幸せになる権利くらいあるんだから。
「……痛っ……」
「よせ、その身体で動くなど……」
「大丈夫……大丈夫、だから」
私は彼を制す。
震える手を支えに、膝を立てて、身体を起こす。
ブラッドの背中の向こう側で、死を抱いてうずくまる少女を、まっすぐ見据えた。
死にたいんだろう。
死に焦がれているんだろう。
でも、ごめんなさい。
私の勝手な都合で、あなたを死なせることはできない。
見過ごすことなんて出来ない。
これを見過ごしたら、私はこれからの私を私として過ごせないから。
なんて笑っちゃうほど恣意的な理由だろう……人間のどこまでも曖昧な感情を、理論的に抑えようなんて、それこそ土台無理な話。これはどこまでも個人的な屁理屈――でも、屁理屈だって理屈は理屈だ。
だから、
そう。
だからこそ私が、あなたの生きる希望を見失った眼に光を灯す。
愛に凍えた心に火を点す。
あなたの生きる希望を、
あなたの生きていていい理由を、
あなたの意味を、
そして価値を、
見せかけのあなたじゃない、あなたという存在を認める誰かに――
「……ラルラウア」
あなたの、イデオローグに。
「ラルラウア・ア―ハート・オースリーヴ・ウィル・オールベル」
私は彼女の名を呼ぶ。
彼女に響くように、めいいっぱいの感情を込めて。
「なんでその名前を……」
「私は、あなたと似たような人を知っているわ」
「……似たような、人……?」
胸の辺りにそっと手を置く。
とくん、とくん、と罪の鼓動を感じる。
「その子はね、小さい時……八歳くらいだったかな……両親の命と一緒に、人間であることを失っちゃったの。お腹に熱い鉛玉が突きぬけて、死んじゃうって思ったけれど、でも命は取り留めた。変な奴がその子を助けてくれて……その変な奴ってのがヴァンパイアで……どんなファンタジーだ――って笑っちゃうかもしれないけどさ。でも、どんなに荒唐無稽だろうと、どんなに慈悲がなかろうと、親を失って、ヴァンパイアに命を助けられて、そして人間であることを失った――それが事実」
「あなた……なにを……」
私はやんわりと微笑み、
「その子もその子で、色々大変だったよ。なまじ“人間だった”自分を知ってるからさ。あなたとは違う苦しみがいっぱいあった。痛みがあった。悲しみがあった。……ううん、その子はいまも怯えてる。満たされない空虚の恐ろしさに……心に……いつだって怯えてる」
「知った風なことを……言わないで……ください……」
うん。
ごめんね。
知ってるんだ。私。
あなたのこと。
あなたの、これまでのこと。
でも、
それは『私』が知っているだけで、『わたし』の理解には程遠い。
『私』が受け入れたからといっても、『わたし』が受け入れられるとは限らない。
手が震える。
痛みが想像できた。
それでも私は、台に置かれていたステンレスの皿からメスをとる。
躊躇いはもちろんあった――けれど、首に刃を突き立てた。
「えうっ……」
血と一緒になって、変な声が喉から洩れた。
あたたかさが首から流れ出る。
ラルラウアは、私の突然の自傷行為――自殺行為に目を見張る。
「あなた、なにをして……」
そんなの私だって知るもんか。
でも、必要だと思った。痛みが。心を伝えるのに、必要だと思った。
痛い。
熱い。
死んじゃうくらいに。
けれど、それでも微笑みは絶やさない。
「……百年氷の中で生きたあなたほどじゃないけど……私も、実はちょっと不死身なんだ」
ブラッド以外に、私の秘密を告白するのは初めてだった。
どれだけ傷ついても終われないことは、それこそ死ぬことより、ずっと辛い。
「それでも、私は死のうとは思わない。死にたいとは思わない。生きたいって思う。それはラルラウア……あなただって、同じはずでしょ? あなただって、本当は生きたいって思ってる」
「……わたしだって……わたしだって、生きたいに決まっているじゃないですか!」
ラルラウアは、ここで初めて心らしいものを見せた。
「でも……それが許されなかった……わたしが生まれた時点で手遅れだったッ! だから、『生きる』だなんて、簡単に言わないでください! わたしは、わたし以外のすべてが幸せに見える……それがどれだけ羨ましくても、どれだけ望んでも、それはわたし以外に与えられたもので……間違ってもわたしが得られるものじゃなかった……わたしは、どこまでも一人だったッ!」
うん。
ごめんね。
それも知ってる。
どん底を知ってしまった彼女は、自分が幸せになる未来を想像できない。仮に幸せになったとしても、それを受容できるとも限らない。幸せに押しつぶされて、また不幸を望むかもしれない。また絶望を――死を、求めるかもしれない。
どれだけ幸せになって欲しいと願ったとしても、
幸せになろうとしない人を幸せにすることなんてできない。
だから、見捨てる?
冗談じゃない。
私は言う。
「たしかに……あなたは一人かもしれないよ。他の何とも属さない、枠を成さない、ただひとつの孤高の存在かもしれない……」
首から溢れ出ようとする血を押さえながら、
のろのろと、ひどくぎこちない動きで、彼女の元へと向かう。
「だけど、それでも私が、あなたを独りにはさせない。これは勝手な私の想いだけど、私は誰かが悲しんでる姿は見たくない。誰かが傷つく顔なんて見たくない。幼稚だって笑ってくれても構わない――だから、悲しまないで欲しい。傷つかないでほしい。この世界がつまらないだなんて、思わないでほしいの。そして知ってほしい。わかってほしい。あなただって……」
……ねえ、ブラッド。聞いてる?
これはあなたにも言ってるんだよ?
私は、彼女の傍らに膝をついて、
「……幸せになっても、いいんだよ……って」
触れる。
抱き締める、ようにして、唇を重ねた。
互いの身体がきゅっと強張る。
ラルラウアの見開いた眼が、どこまでも愛おしく感じた。
「ごめんね……きっと、あなたが思い描いていた初めてのキスは、もっとロマンチックで、愛に溢れた、夜空のように素敵なものだった……かな? 少なくとも、こんなときに……こんな場所で……しかも女の子とするだなんて、思ってなかったよね」
「……やっぱり、あなたは野蛮です。こんな、後悔しか残さないこと……」
「後悔、ね。だとしたら、なぜあなたは涙をこぼしているの?」
ハッとして、ラルラウアは頬に手をやった。
「……わかりません」
私は微笑み、
「それはあなたが人間だからだよ。心を持っているからだよ。生きることに理由が必要なら、私がそれを与えてあげる。だから、あなたも私の生きる理由になって欲しいの」
ラルラウアはきょとんとする。
「だから、その……私の友達になって頂戴」
豆鉄砲をくらったハトのような顔が、やがて崩れる。
ちょっと傲慢で、
ちょっと照れ混じりの私の言葉に、ようやく――ようやく彼女は、初めて笑った。
それはツギハギじゃない。
屈託のない、心がこぼれたような、そんな笑顔だった。




