-011-
彼女の血の香り。
それにつられるように、我は大聖堂と宮殿が沿いに並ぶテムズ川、ストリートとロンドン橋が交わる一角に舞い降りた。馬車が行きかう昼の喧騒からは遠く――夜が落ちたロンドン市内は静寂の蚊帳だった。
鼻を利かせると、そう広くない屋敷から香りが漂ってくることがわかる。
我は影となって這入り込んだ。
そして、彼女を見つけた。
燃え尽きた灰のように――まるで魔女狩りにでもあったかのような、変わり果てたリシェルの姿を。
「……リシェル」
その部屋には、案の定、昼間見た教授とやらがいた。
リシェルが横になる寝台の奥には、我を殺しめた“怪物”が、なぜか裸体で寝そべっている。
「い、いったいどこから現れた?」
狼狽える教授とやら。
訊かれたところで、教えてやる義理などない。
「あなた――なんで、生きてる?」
と。
我を視覚した怪物は、どうやら迷いなく我を殺す選択をしたらしい。
寝そべる体勢から身を翻し、幼い乳房を揺らしながら、瞬間で我の心臓を手刀で貫く。
衝撃とともに、我の胸が抉れた――がしかし、我とて何度も殺されてやる筋合いはない。なにより、我はいま、すこぶる機嫌が悪いのだ。
我は――我を貫いた手を“体内で掴み”、へし折る。
怪物の顔が歪む。
「……ほう? 痛みを感じるのか。そうか。所詮、『完成した人間』であろうと、やはり人間のそれでしかないらしい――」
その顔が気に入らなかったので、右手で鷲掴みにし、頭蓋もろとも握り潰してやる。
グチャリ、と血の華が咲き、少女の裸体が紅に染まった。
そこで我は二つの異変に気がつく。
怪物の血を浴びた皮膚が、まるで焼けつくように爛れていること――もうひとつは、組織を完全に、再起不能に潰してやった怪物の頭が、腕が、すでに元の身体へと再生を始めていることに。
「成程……紛えても不死、か」
興味をそそられなかったといえば嘘になる。
果たして、『不死』と『死』はどちらが上か――『不死』は『死』を終わらせられるのか。
……だが、それより先にやるべきことがある。
我は、血で床を濡らす少女の裸体を蹴り上げる。助骨か背骨かは知らぬが、骨の数本砕ける心地良い音を奏でながら――教授とやらを巻き込み――怪物は壁に突き当たる。
際限なく湧き上がってくる憤怒を腹の底にして、我は上着を脱ぎ、一糸纏わぬリシェルへと投げかけた。
彼女を抱き上げる際に、跪いたのは無意識だった。
両手を横たわる彼女の下に差し入れ、静かに抱え上げたのも。
耳を澄ますと、とくん、とくん、と小さな鼓動が聞こえた。……良かった。リシェルはまだ生きている。
が、余談を許す状態ではない。
いったいどのような施術をなされたのか――それは判然ともしないが、しかし、この真っ白な灰に成り掛けている姿は、我にも覚えがあった。神の息に――それが掛かったものに――触れたのだ。十字架か、聖水か、聖血か……いずれにしても、我ら闇に住まうものには触れること赦されぬ忌々しき光に。
彼女の内側におぞましき力を感じた。
……吸い出さねば、なるまい。
無論。
我は、ヴァンパイアだ。
交わした誓いを違える愚者になど成りたくはないが――……それでも、死にゆく主君を見捨てるような愚者よりは、幾分マシだろう。
我は抱き上げたリシェルの首に歯を立てる。
ぷつ、とやわらかい感触が返ってきた――恐るべき聖を持った血液とともに。
「……ぬっ、うぅ……」
舌に焼けるような痛みが走る。
呑み下した喉が、剥がれるように熱い。身体の内側から獄炎に焙られているようだ……それに反して、鼻孔を撫でる薫りのなんと豊潤なことか。感じる味覚の甘美さは、まさに恐悦の如し天外悦楽のそれだ。
呑んで理解した。
これは――『死』である我とまったく対極に位置する――『生』だ。
神々しい。
なんと、神々しいのだろう。
地獄の業火――あるいは天上の聖火に苦しめられるが、しかし、それでも我はリシェルを犯す全てを吸いつくした。
抱き抱える彼女をそっと寝台へと置く。
「死ぬな、リシェル」
言って――我は彼女の唇に口をつけ、我の血を捧げた。
ややあって、我は振り返る。
再生を終えた怪物は、教授とやらの前に構え立っている。
「やあ……待たせたな」
久しい感覚だった。
こんなにも、積極的に、委細構わず、
獲物を――喰らい尽くしてやりたい――と思ったのは。
「……よくもまあ、人間風情が、ここまで我が主君を追いやってくれたものだ……」
十全に、この罪を償わせてやらねば。
殺してやらねば。
それこそ、我の、気が晴れぬ。
「夜が来たぞ。貴様らに――死をくれてやろう」




