-008-
そして夜が来た。
我の時間だ。
目を覚ました我は、主が不在となった屋敷の屋根の上に立っている。
リシェルを連れ去った男――その傍らにいたあの少女は、紛れもなく怪物だった。
我の身体を簡単に引き裂き、あまつさえ頭を潰してみせてくれたのだから、あれを人間というには強引が過ぎる。いやしくも人間の姿こそしているが……しかし、ヴァンパイアを素手で殺すような芸当ができる人間など、それこそいやしない。
「……ふん」
本来なら、これは愉しくて仕方のないことである。
そうだ。
嬉しくて仕方ないことのはずだ。
退屈な平穏に飽き飽きしていたところに――対等とは言い過ぎだが――同じ怪物を相手取ること叶う現実に頬の緩みを禁じ得ず、くつくつと湧き上がってくる狂気に心を躍らせる場面ではあるはずなのだが……否。
いまの我は笑みこそ浮かべるものの、憤怒に全身を滾らせていた。
胸に残滓のように纏わりつく、名状しがたい感情。
主君の目の前で恥をかかされた。
それどころか拉致を許し、我は物言わぬ肉塊となって、夜になるまで阿呆のように転がっていたのだから、これ以上恥辱に穿たれる話もあるまい。
「……どこにいる……」
我は耳を澄まし、夜の声を聴く。
探すのは当然リシェルの居所だ。
いったいどこに連れ去られたのか……。
面倒なのでいっそのこと、このロンドンの街ごと闇に沈めてしまおうかと考えたが、それだと後からリシェルに怒られるだろうから、ここでは選択肢から外しておいた。これは別に、リシェルが怖いから――という理由ではない。
無論、万が一のときは一切の手加減が出来るとも思えないが……それは最悪の場合の手段としてとっておこう。
我は燕尾服をたゆらせ、振り上げた腕を闇と同化させる。
虚空となったそこから数万匹の蝙蝠を夜へと放ち、沈めた足から三匹の愛犬を、霧散させた身体は蠢く百足などの蟲へと姿を変え――我は数百万の個体となって、夜の街へと這い入った。




