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銀河の星屑

作者: 笈川シ口

『――ところにより雨、午後からは――』

『――つづいて関東地方――』

『――高気圧に覆われ、猛暑日が続く模様です、――』


『――熱中症には充分注意して、こまめに水分補給を――』


『――以上、今日のお天気でした』



     ***


 さくさく、じゃっじゃと軽快な音がする。

 そう思った瞬間、ああ砂の上を歩いているのだ、と理解した。それなら確かに、陽の光を吸った革靴を履き固いコンクリートを歩くのに比べたらずっと軽い足取りになるに決まっているだろう。そっと音の出処に目を落とす。僕はすっかり定番となった、穴だらけなスリッパ型のサンダルを履いていた。やっぱり素足に馴染む良い素材だと、しみじみと思いながら更に歩いてゆく。

 砂はどこまでも敷き詰められていて、地平線が分かるほどに障害物が見当たらない。雑草すら生えていないし、僕以外に生物の気配はない――もし何かが隠れていて、僕がそれに気付くかと言われたら、それも無理だろうけれども。ただかすかに聞こえる波の音が、ここが砂漠や砂丘ではなく砂浜である、ということを表していた。

 そういえば「砂漠」ときいて想像するような、まさに今踏みしめている砂場のような大地は、実際は砂漠全体の中でもパーセンテージが少ない、と昔に聞いた覚えがある。大抵は岩石や砂利の集まった岩石砂漠や礫砂漠で、純粋に砂だけの砂砂漠はその中の一部なのだと――そう、確か地理の先生が言っていたのだ。砂丘については、詳しくないから分からない。でもきっと砂漠と似たようなものだろう。僕は確信めいて、この先にあるのは海だ、と足どりを速めた。

 例えばラクダがいれば砂漠か砂丘だと僕は考えるだろうし、ヤドカリ、またはその住居だけでも落ちていればはっきりとここは海辺だと断定出来たはずだ。けれど地上には、本当に砂以外の何もありはしない。

 やっぱりここは浜辺なのだ、波の音がするのだから。決め付けてしまって、先を急ぐ。海は好きだ。でも去年は急に本社に呼び出され、一昨年は母親が病に倒れ、その前の年は――とにかくここ数年、好きな海には行けなかったのだ。


     *


 寒い。

 波音を頼りに足を進めるにつれ、じわりじわりと体感温度が下がっていくのを感じた。スーツを着ていて寒気を感じるなんて妙な事だと、僕はまた熱されたコンクリートを思い返す。――いや、思い返しかけてやめた。軽く首を横に振る。

 ネクタイの締め付けも、肩の突っ張りも一切無かった。当然だ、半値で買ったTシャツ一枚と、くたくたになったジーパンしか着ていないのだから。どうしていきなりスーツだなんて思いついたのだろう? 砂漠にしたって海にしたって、わざわざスーツ姿なんかで行く訳がないのに。

 どうもこの砂浜には傾斜があるようで、海はまだ見えてこなかった。こんなに歩いているのに汗をかく気配は無くて、だからTシャツが張り付く不快感も無い。結構なことだが、じんわりとした冷気は変わらず取り巻いている。スーツとまで行かずとも上着ぐらい持ってこれば良かったかもしれない。

 海という言葉のテンプレートイメージで、つい真夏の太陽、光を受けて青く輝く水面、とても裸足じゃ歩けない砂浜。なんてチープなことを考えてしまうけれど、よくよく考えれば海辺というのはすぐそばに大量の水があるという環境で。僕は疑問にひとまず仮の答えを作り出した。そうだ、水は基本的に冷たいのだ。

 だからこの時期にTシャツ一枚じゃ寒く感じるなんて事があっても、何もおかしくはないのだ。


     *


 相変わらずの軽快な音がやけに響く。

 サンダルのほかに音を発するものがどこにも無いからだろう。どことは無しに寒気がする状況は変わらないけれど、それはもう別に良かった。そうして靴底に潜り込んだ砂利がだんだん不快になってきた頃、はたと気付く。砂浜が、足元に敷き詰められた砂が黒くなっているのだ。

 次から次へと忙しい展開だと、浮かんだ感想は我ながら他人事過ぎる。ここにきて唐突な、非現実的な変化に自分はついていけないのだろうと、僕はそう納得させた。

 本当に?

 飛び出した自問に体のどこかがざわめく。砂浜が黒いのは何かおかしい事だろうか。黒い岩があるんだから、岩が削れて最終的に出来上がる砂に黒いものがあっても何も不自然じゃない。理屈ではそうだ。説明はつく。

 歩みは止めないまま少し考える。引っかかったのはそこではなかったはずだ。

 むしろこれまで、この砂浜の砂は白かっただろうか。分からない。最初から黒かったかもしれないのだ。黒い砂浜なのが普通だから、そう思っていたから来た時は何も不自然に思わなかっただけかもしれない。分からない。僕がこれまで見てきた砂浜がたまたま白かった。その根本だってなんだかもうよく分からなくなっている。

 話し相手がいないせいで、独り言のようなとりとめのない思考が何時までたっても止まらない。せっかくだから歌でも唄おうか。下手だと笑う人もいないのだから。


 ああ、この感覚は夢に似ていると不意に思った。


     ***


「すみません課長、その日は用事があって、」

「はあ、まあ良いけどね、カラオケぐらい。しかしまあ、こんな風には言いたくないけど、ねえ。おふくろさん、ずっと具合悪いんだねえ」

「ほんと、すみません。お先に失礼します」


 上司は部下の足りない部分を笑った。


     ***


 波の音が近い。そろそろ姿を現してもいい頃なんじゃないか。

 なんて格好つけて主語を抜いたのは確かに僕だ。別に何者かを呼んだつもりはなかったし、大体心中で考えただけの事だったのだけれど。目の前の「それ」に僕はそっと目を落とす。真正面ばかり見て歩いていたから、真下からの声に反応するのに少しもたついたのだ。

「やあ、人が来るなんて久しぶりですねェ、旦那」

 現れたのは明らかに黒い犬である。人ではない。流石に動揺して、無視することも逃げることも出来なかった。黙り込んだ――もっとも元々これまで一言も喋っていない――僕なんて気にもならないのか、黒犬は親しげにぽんぽん話しかける。

 よく見りゃあなかなか好青年ですねえ。今時はショウユガオ、って言うんでしたっけ? あ、それはもう古いんだっけか……ヒヒッ、どうも世間に疎くっていけねェや。それよりほんと、珍しい事もあるものですョ、前にここらで人間を見たのはもう一昔は前のことでしてねェ。人を食ったような時代錯誤な口調は、犬というよりアリスのチシャ猫だ。

 けれどもせわしない口元から後ろへ目線をずらせば、やたらと尻尾を振っているのが見える。胡散臭いが、悪いものでもないかもしれない。疾しいことなど無いと言う様にこちらにしっかりと向けてくる瞳は、右と左で色が違っていた。

 そうだそうだ、イケメンだ! ありゃア何かの略なんだよな、旦那はご存じで? ――イケてるメンズ? ああ、それじゃあ旦那には当てはまりませんなァ。

 放っておいてもどんどんどんどん会話を試みてくる黒犬には適当な相槌を返すことにして。物は試しと海への方角はこれで合っているかと聞いてみる。「来るなんて」と言うからにはこの辺りのことは知っているだろう。犬と言語的にコミュニケーションが取れることに比べたら、夏の海が寒い事や砂浜の黒さの是非だなんてちっぽけに思えてくるから不思議だ。

 そうですねェ、と黒犬は首をかしげる仕草をした。

「旦那、アンタまだお若いじゃあありませんか」

 脈絡のない問いに此方が首をかしげる。老人ばかりがここの海岸を利用するという事だろうか。

「海ってむしろ若い奴らが遊びに行くんじゃないの」

「へええ、」

 じゃあ旦那はここへ遊びに来たってわけだ。

 いやに楽しそうな声音だった。犬の表情の変化など僕には分からないけど、こいつが人だったらそれこそチシャ猫紛いのニヤニヤ笑いをしているに違いない。そしてさりげなく問いに対応する答えは貰ってないことに気付く。

 そうだよな、これまでなんの気配もしなかったんだから。老人がどうとか、きっとそういう部分が問題ではないのだろう。僕は犬に行き先を委ねる事を諦め、元々そうするつもりだった進路に目をやった。

 急きょ出来た旅の道連れは、さも当然と僕に並んで歩き出す。なんだか盲導犬のようだ。


     ***


『――これからの日本は、若者に我々のしわ寄せが来ない社会へ――』

『――は、皆様のために、人力を尽くしたい次第であります!』

『――どうか金井ヨシヒコ、金井ヨシヒコをよろしくお願いいたします!――』


 議員の声は反響しないまま通り過ぎてゆく。


     ***


 話した文章量だけ換算したら絶対にあちらの方が話していたはずなのに、それによって渡った情報量はどう考えても僕の方が多い。要するにこの黒い犬の話にはそれぐらい中身がなかった。

 元々口数は少ない方なのに、あらかた個人情報は渡してしまった気がする。おかしい。なんだか納得がいかないまま、けれど結局はまだこの犬と共に歩いている。

 少し風が出てきたようで、砂が目に入らないと良いなとぼんやり思う。黒犬も口を開きっぱなしで、うっかり砂を食べやしないだろうか。――大体、犬が舌を出すのは熱を逃がす為のはずで、お喋りを楽しむ為ではなと思うのだが。

「旦那はずいぶん、根性がおありだ」

 これは知り合いから聞いた話なんですけどね、とお決まりのフレーズの後に続いた、身を挺して庇って死んだものの実は大好きな庇った相手からはひとかけらも感謝されていなかった、という長い長い(彼曰く)笑い話の後、黒犬が静かに言った。

「そうかな? 営業マンだからか」

「へええ。私も似たようなもんです、誰もつかまらなかったときはホント大変で……そいで、旦那は何をお売りに?」

「……犬」

 冗談である。

「ひゃあ、恐ろしい。それでもまあ、猫よりマシですね、あいつらときたら――」

 周りの景色に大した変化はない。海という目標がなければ確かに心が折れそうな道のりだ。けれど不思議と疲労は無いのだ。会話を続ける中でも波の音が僕の耳に届いているからだろうか。応えるように、波音が一際大きく鳴った気がした。

 とうとう坂のてっぺんまで来たらしく、黒犬がここにきて初めて犬らしい声を上げる。別にこれは彼の目的でもないだろうに、なるほどサービス精神旺盛な犬だ。

 視界が開ける。

 眺める海は銀色に光っていた。例によって視界を遮るものはなくて、遠い水平線の辺りは色が濃く黒に近い様相だ。

「それにしても、」

 真似をして斜面の下を覗いていた犬が、今度は空を仰いだ。

「お天道さんがいなくて助かりましたョ。なんせこの毛皮でしょう、や、黒色ももちろん良いモンなんですがねェ、日光とは相容れません」

 たしかに空はなんだか形容し難い色をしている。

 曇っていると言えばそれまでだが、薄暗い雲の圧迫感はなくて、どちらかと言えば薄いベールが掛かったような淡い白色だった。

 そして内心こっそりと黒犬に同調した。暑いところにはなんだか異様に嫌悪感が生じる。海が好きなぐらいだから、前からそうではなかったはずなのに。けれどちょうど今のこの気候なら、大丈夫だろう。行きたい場所の上に心地の良い気候とは、なんだかありがたい。

 ここに来てなんだか楽観性が身についたようだ。十中八九、横でしゃべくり倒す生物の影響だろう。

 その黒犬はまだまだお供する気でいるらしい。何気なしに右下に目を落とすと、当たり前のように目が合った。尻尾のぱたぱたという音と相変わらずのマシンガントークで、一人で海を目指していたときよりずいぶんと賑やかになったものだ。

 ほとんど駆け降りる体で海岸沿いまでやってきた。やっぱり、銀色だ。綺麗だと素直に思う。僕は思わず深呼吸した。朝礼で同じ事をした記憶が、なんだか遠くに投げられたように思う。

 隣では、海という概念が分からないのか、黒犬はこんなことを言っていた。


「着きましたョ。やあ、何度見てもでっかい池だ、ここは」


     ***


『はい、じゃあそれでもう、――はい、いえ、ありがとうございます。大丈夫です、母が、お世話になりました――』


「――さんところの奥さん? ねえ、もうほとんど意識もなかったんだって」

「それは……ええ、他に家族もいないものね、あそこ――」

「大変よねえ」

「そうだ、それで話は変わるんだけど――」


 入院患者は、噂をはじめる。


     ***


 波が迫る境界まで歩み寄って海水を掬う。

 もちろん水なのだから実際は透明で、思った通りとても冷たい。多分、砂が黒いから銀色に見えるのだろう。銀、というよりは鏡の色、ちょうどガラスの裏面に黒い画用紙を貼るのと一緒だ。

「どうせだったら、美人のお姉さんに案内されたかったな」

 なんでもないように独りごちれば、案の定右横で待機している犬は反応した。

「おやおや、知ったような口をきくじゃありませんか」

「まあ……なんとなく? そういう歌あるし、イメージでね」

「今からでも化けてあげましょうか?」

 それは別に要らないかな。返事の代わりに曖昧に笑ってみる。だって、帰りを待つ人はもう居なくなったのだ。

「これからどうするんです?」

「遊ぶよ」「ほう」

 黒犬はまたチシャ猫のように笑う。いつも楽しそうな犬だと思う。何が楽しいのかはいまいち分からないが。

 それがアンタのお望みですか。唄うようにそう言って、黒犬は「おすわり」の体勢になった。ここから先は見物という事だろうか。

「それじゃあ」

「まあ、また会いましょうや、旦那」

 最後の最後まであっけらかんとした犬だった――もちろん、本当は犬などではないのだろうが。けれどまあ、道中楽しかったのは彼のおかげだ。

 そっと水に足を付けた。ゆっくりと、踏みしめるように歩いていく。冷たい。この感覚が欲しかったのだ。だって僕はずっと海に来たかったのだから。

 そういえばと背中の傷を思い出す。塩水で沁みなければいいが。まあ、まだそんなに深いところにまでは進んでいないけれども。

 うっかりサンダルが両方とも脱げてしまって、それでもいいやと思い直す。少し歩いてから振り返れば、波にさらわれたそれは上手い事そろって打ち上げられていた。笑ってしまった。これじゃあまるで世を儚んで飛び降りたみたいだ。

 あの黒い犬は居なかった。また話し相手を探しに行ったのか――いったいなんだったのだろう。僕は気にせず歩き続けた。ずっと、歩き続けた。

 暑くない、冷たいところに行きたかった。


     ***



「なあ、明日の小テストって範囲どこだっけ」

「アタシに聞くなよぉ、シホに聞く気でいたし」

「なんで一番単語弱い奴に聞こうと思ったし……」

「つーかここの花いつ見ても咲いてね? 気持ち悪いわ」

「フツーに綺麗じゃん」

「なんかキレイすぎってゆーの? おかしいじゃんずっと変わらないのって」

「じゃあ造花だ」

「ぶっは、マジかよ!」「それはないわ~」


 女子高生の群れは笑い合い、睡蓮が並ぶ池の横を通り過ぎた。



 Fin.

というわけで、桑田圭祐氏の『銀河の星屑』からイメージさせていただいた作品でした。

一応テーマは「架空の海」です。総評では「文章は分かるけど内容がフワフワしている」とされた代物でした(笑)


それでは、閲覧ありがとうございました!

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